遙か遠けき桜の下

2024.May

cast:レイシェント、ユーリック

春風が雲を浚う宙、満ちた月が煌々と輝いている。
地に足を付けて仰げば高く高く伸びた枝の先、桜花が天を埋めるほどに開いていた。

レイシェントが纏う夜帳の外套は評の通り、夜に在っては闇に輪郭を溶かすが、今宵の月光には敵うまい。且つ、身を眩ませる必要も無い。
夜桜に興じる人の賑わいからは離れ、奇跡の地がもたらす一時の幻夜が如き情景に耽る。

(──ん?)

ふと、風の音に混じり、草地を踏みしめる微かな足音を聴覚が拾った。
余りに微かではあるが、よくよく意識を研いで耳をすませばやはりそれはまぎれもなく人の足音である様だ。モンスターのものであるならばとうに気配を拾っているはず。であれば人なのだろうが、どうもうろうろと宛無く彷徨う足取りだ。しかも片脚だけやや引摺り気味らしい。

もしや酒の回った花見客が奥地まで迷い込んで来てしまったのだろうか。
闇を見通す視覚はあれども、群生する木々が視界を阻んでいる。レイシェントは眉をひそめ、ひとり彷徨う足音の主の元へと向かった。

「……何をしている」

向かう先に居たのは、まさかの知った顔。黒軍服を纏う壮年の男──ユーリックだ。
花見客が集まる場所とは違い、この周辺は整備が行き届いていないのだ。脚を痛めた杖つきの者が散歩に来るには余りに不向き。しかも如何にして撒いてきたのやら、供も不在と来た。

だが、当の本人は突然現れた此方の姿に些かも驚く事はなく『これはどうも、ロアコート殿』などと御丁寧な会釈と共に笑みを寄越した。

「カルミラのスコアラを借りて連絡を取らせて頂いても良かったのだがね」

古い間柄であると知って尚割って入る様な事はすまいが、外出を知れば供をすると言って頑として譲らなかっただろう。
まるで忠犬の様だと、かの淡青色の髪の青年を思いユーリックは苦笑を洩らした。

「……それは、当然だろう。人里に近いとはいえ、モンスターの生息域の境界線は曖昧だ」

護身程度の剣の腕は持ち合わせていた筈だが、杖の助けが要る脚でモンスターの対処が出来るものか。
浅慮な行動だと、わざわざ言葉にして言い咎める様な歳でもなし、声色のみで十分に伝わるだろう。
だがユーリックは指を立てて飄々と答える。

「何を仰るやら。三十年前とは言え、貴方の故郷の桜の話はよく覚えている。
この時節ならば、貴方はきっと此処に現れるでしょうに。実際、その通りであった様にね」

そして不用心に一人ふらふらと歩き回っている者を放置する判断が出来るほど、この男は人離れをしていない。
此方が言葉を重ねる度、レイシェントの表情は憮然と曇り、影を濃ゆめてゆく。それを察してか否かはともかく下らぬ軽口は程々に、改めて月光を透かせた真白の花々を仰いだ。

「……成程、これが桜の花ですか。あの日、あの戦火で悉くに焼き払われた……」

古い記憶を掘り起こしてやれば、容易く鼻腔の奥から焼け野と死臭が蘇る。
右目に残る傷が熱を帯びた錯覚を得て、思わず目を閉じる。
ややあって、再び視線を眼前の男へと戻した。

「……たかが植物の一種を、随分贔屓にするものだと、君は言っていたな」

戦地となった故郷へ赴くにあたり、如何な土地であるかを訊ねられた。そこで話した、戦略に何の益も見出せない情報──否、ただ在り来りな思い出話。

かつてのこの男ならば下らないとにべもなく切り捨てていたはず。だが、先の言葉の他には珍しく揶揄も嫌味も寄越しはしなかった。

「生憎と、この光景を美しいと思わぬほど心を欠いてはいないもので。
貴方『がた』が特に入れ込んでおられたのも、今ようやく納得出来た」

叶うならば二人に、かつて焼かれたあの地で、此処とよく似た光景を見せて貰いたかった──などとは、口が裂けても言うまいが。
ユーリックはおもむろに片腕を持ち上げ、赤毛の男の懐を指す。

「書き加えられていたと言う博士の日誌の一文、見せて頂けるかね。他は結構」

言われるがまま、レイシェントは懐から古びた日誌と、ついでにクラックの入った碧色の結晶を取り出して見せた。
該当の頁を開いてやれば、ユーリックは受け取るでもなく食い入る様にその筆致を観察する。

「……どう見る?」

「どうもこうも」

溜息混じりの笑いを洩らし、ユーリックは肩を竦めて首を振った。

「貴方の筆跡ではないのは明かだし、他の書き文字と比べても劣化が無さ過ぎる。
余りにも早く其方に届いた事にも驚いたが……まぁ、貴方の体験と想像の通りボクには『エーテルの奇跡』としか」

──となれば。
懐かしの碧をその透色に移した結晶を見遣り、視線を宙へと彷徨わせた。科学者らしからぬ台詞を吐き続けなければならない事にまたもや溜息を一つ。

「博士の御魂は未だ貴方の傍らにあるのだろう。姿無くとも」

「……らしからぬ事を言う」

ふ、と薄く微かな笑いを浮かべた。
だが、事実その奇跡とやらを容易く顕現させてしまうのがこの地の特性。この学者が散々に振り回され、その柔軟性によすがを見出すに至った力だ。

「………」

血色の悪い唇に浮かんだ笑みは、束の間の内に消えていた。
しずかに日誌を閉じ、やはり何の反応も示さない結晶へと視線を落とす。花の間隙から注ぐ月光に透かして見ても、ただ無機質に光を弾くのみ。

「………」

長く、押し潰した沈黙の後、やがて訥々と言葉を落とし始めた。

「彼女の想いを、私はとうに受け取った。
せめて彼女の願いを叶え続ける、その意志に変わりは無い。だが……」

その裏で、彼女の亡骸は遙か遠き雪山の中で独り氷と瓦礫に埋もれつつあるだろう。此方で過ごす年月が経つ度その懸念は膨らみ、今正に明確なものなって胸の内に現れた。

かつて己が眠りから目覚めたかの研究施設は既に老朽化が進んでいた。
せめて彼女の墓守にならねばと、修繕を重ねてメンテナンスを行い、辛うじて人の住まいとして状態を保っていた。
しかし今やライフラインを生み出すエネルギー機構は潰され、管理者も帰還せず数年間放置されてしまっているのだ。

彼女の墓を擁する施設が崩落を迎えるのも、恐らくは時間の問題だろう。

「……黄泉から切り離され、活動も年々弱まってはいるが、此方の魔物は絶滅した訳では無い。
寧ろ新たな頭取を欲している所だ。貴方の様なね」

己の内で肥大化した魔物を抑える為、食い物となる魔物と無縁なこの地にレイシェントは送られたのだ。墓掃除をしに里帰り、などと気軽に言える身では無いのは当人がよく解っているだろう。
此方からわざわざ諌言を告げるべくもないが。さて、ならばどうすべきか。

思案するまでも無く答えは弾き出されていたが、この男の心持ちを慮れば易々と口にするのはさすがに憚られる。
体裁が整う程度にたっぷりと思索に耽る間を取って、口を開いた。

「……ボクで良ければ様子を見に伺ってみるが、如何だろうか。
最北に在って尚街から離れた僻地だ。軍の手が及ばない様人払いはしていたが、それだけに内部の様子はどうなっているか保証出来かねるが」

『博士』ことイレインと、死人同然であった自分をかの研究施設に運ぶ手伝いをしたのはこのユーリックだ。三十年前当時の経緯や事情は、昏睡状態にあった自分よりも具に把握している。
自分以外にこの仕事を託すとするならば、この男以外に適任は有り得ないだろう。

理屈は頭で理解すれど、驚きは隠せず。レイシェントは金眼を瞠目させ、穴が開くほどにユーリックを見詰めていた。

「……明日は雪か?」

「おや、春一番も落ち着いた行楽日和の予報だったがね」

まこと遺憾である事を裏付ける様に、顔面には春風の如く爽やかな笑みを貼り付けてお返しした。

「──ま、冗談はさておき。
その仰り様ならば、請け負わせて頂いて構わないと取って差し支え無さそうですな」

役職上多忙であるのに変わりは無いが、光使いの寿命問題も解決を得た今となっては多少の余裕も出て来たところ。北の僻地の調査に人員を割いて赴く事も出来るだろう。
ゆるやかに崩した笑みにレイシェントは言葉が閊え、『済まない』と不器用に返すに留まった。

「……もし、彼女の亡骸が回収出来た時は……」

そも、朽ちた遺体を掘り起こし、人目に晒すのを良しとすべきなのだろうか。冷たい地面の下、瓦礫に埋め立てられ忘れ去られるのもまた自然の理でありそれを是としないのは単に己の我儘だ。
此処に来て尚も生じる迷いが忸怩を生み、頭を抱えた。

「もう少しましな環境で眠って頂く、それで結構ではないかね。
そうですな……聖都にある貴方の墓に入って頂きましょうか。どうせあそこは空っぽだ」

つくづく性根の変わらない男だと、ユーリックは苦笑を零した。
彼女にとって遺恨の地であるやも知れないが、いずれレイシェントが本国に戻る事が出来たならば迎えを待つ場所として丁度良いのではなかろうか。

最適解など元より無く、他に呈する解も無し。レイシェントは不承不承ながら提案に頷いた。

「……此方に寄越して貰う事も考えたが、此処に骨を埋めると決めてもいない。
それに、迂闊な事をしてエーテルの影響を受けられては困る」

記憶だけでも顕現する切っ掛けになりかねない土地なのだ。彼女を叩き起したい訳でも無し『任せた』とユーリックの眼を見据えた。

「その先はまた、事態が大きく遷移する時にでも決めれば宜しい。
貴方が地に骨を埋めるなど、何十年先になるやらだ。──そうでしょう?」

その問いには、一縷の淡い期待が込められていた。

「そうだな……、此方で行く先を見守りたい者も出来た。……百年先も、有り得るかも知れない」

「それはそれは」

誰ぞの顔を思い浮かべているのだろうか、先程まで真一文字を描いていた口元が綻んでいる。

今や自棄に曇った双眸は消え失せ、先を向く者の眼だ。彼岸の向こうへと見送るばかりの人生を重ねていた筈だが、今となってはどうしたことか。見送る先が変わってしまっているではないか。置いてゆかれる事が、喜ばしいとすら思える。
ユーリックは『実に愉快』と肩を揺らした。

「展望ある話を聞けて何より。
祝杯でも交わしたい気分だが、酒は……」

未だ弱いのだろうか、とレイシェントの顔色を窺ったところ、はっきりと首を横に振って答えた。
酒に関してはやはり相変わらずなのか。
そう言えば『隊長を休ませたければ酒を盛れ』と、仲間内では共通認識だった。などとこれまた懐かしい記憶が蘇る。

『では』と踵を返し、人の集う花見会場の方へ足を向ける。すると、こちらの脚を追う様に背後から足音が刻まれた。
どうやら、祝杯には同意であるらしい。振り返り、気の抜けた笑いを洩らした。

「はは……参りますか」

そのまま二人は然したる言葉を交わすでもなく人の灯により明るむ方へ。花弁の舞う桜の下、互いが地を踏む足音を聞いていた。