06

レヴィアの意識が安定してから一週間待たず、エリザベートはアルザラ出立への準備を整えていた。
本心としてはもう数日早く発とうと考えていたのだが、丁度同じタイミングでノクサス達も第壱都市への帰還準備を進めているとの事でそれに便乗すると言う話になったのだ。

どうせ事が落ち着けば離反の罪で処分される身。処罰は甘んじて受け入れる気でいたし、今更勝手をしたところで些事であろうと考えていたのだが、どうやら軍側はエリザベートを捨てる気は無いらしい。イルミリアが密かに伝えていたのだろうか、話を聞き付けたカーライルがわざわざ此方の元まで出向いて『勝手に出ていくなんて勘弁してくれ』とほとほと困った顔で諭された。
言うまでもなく今回の件で軍の人的被害も甚大だ。エリザベート程の人材を処分として切り捨てるには余りに惜しいと判断したのだろう。
その意見を押し通したのはカーライル本人であったらしいが何にせよ、我ながら悪運の強さに天を仰ぐ思いであった。

それからは軍職復帰を前提に連携を取りながら準備を進めていた。しかし未だ療養中の身とは言え、復帰を控えたエリザベートがこの期に及んで私情で行動するのは宜しくない。
今回の離叛の件について情報規制・操作はなされているものの、人の口に戸は立てられない。あからさまに態度に出す者はそう居ないものの、かつての同僚と言葉を交わせば奥底には猜疑の念が透けて見える様だった。
導師護衛の任を賜る栄誉は周囲の信頼回復への、僅かばかりの促進剤となるだろうか。尤も、それすら甘い展望であるが。
エリザベートの事情を聞いて、と言う事もある。だが、導師の体面としても信頼のある、且つ腕の立つ聖都側の護衛が同伴してくれるのは助かると、エリザベートを指名で推してくれた。
エリザベート個人としても大義名分を堂々と利用させて貰えるのは有り難かった。
全く、あの導師には頭が上がらない。
サポーターで固めた腕を久し振りに軍服の袖へと通し、最後にコートの前衣を揃えて姿見の前に立つ。
今となれば、肩に掛かるこの上着の重さも懐かしいものだった。そして軍務復帰のついで、高く結い上げていた茶金の長髪は大胆に切り落としていた。すっかり風通しの良くなった首筋には違和感を覚えるが、じきに慣れるだろう。
メンテナンスから上がったばかり、白銀に輝く愛銃をガンホルダーに納めると部屋を出た。先ず向かう脚を向けたのは、勿論レヴィアの病室だ。

時刻は八時を過ぎた辺り。窓から見える景色は未だ深夜の様に暗い。
レヴィアの病室には既に先客の姿が在った。外からはカーテンで遮られて中の様子は見えないが、扉の前に衛兵が立っている。と言う事はそれが必要な立場の人間が来ていると言う事。
中から洩れ出す聞き馴染んだ声にふと口角を緩めた。直ぐ表情を律して兵に軽く敬礼し「代わろう」と一言告げて任を解く。
扉を二度ノックし、返事を待たずに開くとクルシュ、シージス、ノクサスと見慣れた面子が揃っていた。

「導師まで見えられているとは。通りで表の見張り番が緊張していたはずだ」

「はは、導師が護衛から離れる訳にはいかないからね」

白地に金の縁取りが施された帯で両目を覆っているものの、表情は相変わらず解り易い。これではどちらの立場が上なのやら。片唇の端を上げて苦笑するノクサスに此方もまた苦笑い。
クルシュケイトとシージスの両名がレヴィアの寝台にぴったりとくっついている為、ノクサスは入り口近くに用意された椅子に腰掛けていた。何ならクルシュケイトの方は先日の自分の様に、レヴィアの布団の上から身体に顔を埋めている。
彼女もレヴィアの事を心配していたものの、導師の護衛役として側を離れる訳にもいかず病室には来れていなかったのだ。別れくらいゆっくりさせてやりたい所だが、時間は決められている。
寝台へ歩み寄ると、シージスの肩、クルシュケイトの背を優しく叩く。

「さぁクルシュ、シージス。そろそろ時間だ。発つ準備をしなければ」

「……ッ、はい」

「ほら、クルシュも」

シージスは赤くなった目の回りを直ぐに拭って頷くが、クルシュケイトは反応が無い。もう一度背を叩いてようやくのろのろと身体を起こした。彼女が顔を埋めていたシーツはぐっしょりと濡れてしまっていた。

「っぐ、……だって。やっとレヴィちゃんの目が覚めたってのに…直ぐ出発とか……。次はいつ会えるか判んないじゃんか」

目を張らして幼子の様に不貞腐れる。
寝台のリクライニングを起こした状態で、レヴィアもまたこれから聖都を離れる二人を寂しげな表情で見詰めている。おもむろに、ゆっくりと左手を持ち上げるとクルシュケイトの頬に触れた。

「ク……シュ、が……ばって。わたし……、も」

ぎこちなく口を動かし、クルシュケイトへ贈れるだけの笑みを向ける。未だに灼けた喉からの声だが、これでも大分戻ってきた方だ。しゃがれて聞き取りづらくはあるが、意志を伝える為には十分だった。
しばしの沈黙のあと、クルシュケイトはようやく顔を上げぐしぐしと粗く顔を拭う。スンッと鼻を啜り、レヴィアに向き直ると頷いた。

「……わかった」

「向こうに着いて落ち着いたら、手紙とか書きますね。何とか連絡を取らせて貰います」

シージスの言葉に、レヴィアはまた出来得る限りの笑顔で頷いた。

─────

そして十時過ぎ、空が深い漆黒から藍に色を変え始めた頃に導師らを乗せた軍用装甲護送車は聖都を出た。
護送車の長さは約二十m。内部は対面座席が部屋の様に区切られており、寝台列車に似た造りになっている。尤も、内部を護る装甲が優先される為、内装は必要最低限のものである。
本来は軍用であり、賓客を送り届けるものではないが、聖都の現状でこの一台が確保出来ただけでも僥倖だ。
今回、エリザベートは護送計画の指揮を任されているものの、道中を魔物に阻まれない限りは延々と車内にて揺られる以外すべき事は無い。
昼前になってようやく夜が明け始める。多少は警戒を緩める事が出来るだろうか。
最前の指揮官席を降りると、廊下にクルシュケイトの姿を見付ける。暇を持て余した、と言うよりはエリザベートの手が空くのを待っていた様子だ。

「どうした。未だ今日の目的地までは遠いぞ。酔いでもしたか?」

声を掛けながら客室に戻る様に促すが、クルシュケイトは応じず。話でもあるのかと尋ねれば、珍しく遠慮がちな声音で声を掛ける。

「ねぇ、あの様子だとさ……レヴィちゃんには話してないんだよね?レイにーさんの事」

「……あぁ、とてもじゃないが今のレヴィアには話せない。ようやく目覚めて、前を向かんとしている所なんだ。
この目で全て確かめるまでは、私も納得出来ないからな」

言葉にして、改めて歯痒さに喉の奥が詰まる感覚。

「まともに話を聞いたあたしだって未だ信じらんない。だってさ──ぉおっわッ!?」

クルシュケイトが声を張りかけた時、車両全体に大きく、跳ね上がる様な衝撃。床から足が離れ、宙に投げ出されそうになった所で咄嗟に手摺を掴む。目の前で同じく宙に投げ出される少女を空いた方の片腕で自分にぴったりと抱き込む様に引寄せた。
浮いた身体は床に叩き付けられ、治りきらない傷の数々が悲鳴をあげているが、構っている余裕すらも無い。
二、三回激しい衝撃が車輌を襲ったのち、ブレーキの慣性と振動が収まるのを待った。
駆動音も完全に途絶え、いやに静まり返った車内。激しい衝撃ではあったが、幸い車体は転倒はしなかった様だ。
エリザベートは振動が収まるまでの間に頭の中で組み立てておいた対応手順通りに動くべく、痛みを堪えて立ち上がると、クルシュケイトを離す。

「姐さん!大丈夫!?」

「……っ、あぁ。問題無いよ。
済まないが話はまた後でしよう。私は状況確認に入る。お前は導師の元へ戻って様子を。怪我をしていたら直ぐに教えてくれ。無事ならそのまま待機を」

安心させる様に少女の肩に手を置いて指図する。言われるがまま、クルシュケイトは首が取れんばかりに頷き、弾かれる様にノクサスが居る個室へと走った。
クルシュケイトの事だ。自分が導師の元を離れる場合は抜け目無くレギオンに護らせているはず。心配は要らないだろう。
此方も手摺を頼りに立ち上がると、脚を引き摺る様に先頭車両へ急いだ。先ずは同行する下士官達の安全確認だ。

「全員、怪我は無いか。負傷者は申し出ろ。
今の衝撃の原因が判る者は報告……いや、車外カメラの録画の再生を頼む」

先頭車両に入れば怪我を庇う素振りなど見せず、足早に部下の様子を一人一人確認する──と言っても、同行しているのは三人だが。彼らの安否を確認すると、車輌各部の点検を指示する。
衝撃で機器に不具合が発生しているのだろうか、無線機器が通じず口頭での伝達を余儀無くされる。
後になって気付いた事だが、携帯端末も圏外になっており車輌内の機器一切がブラックアウトしていた。
仕方無く非常用予備電源を使用して、車外へ降りるタラップ横に設置されたモニターの電源を入れ直す。その間に、フロントガラスから外の様子を改めて窺った。
この辺りはもうしばらくはなだらかな稜線の、ほぼ平野の地形が続くはず。
そして車輪で均された道とは言え、一応は街道として確立されているルートである。万一この装甲車を持ち上げる程の障害物があったならば早々に気付いて迂回したはずだ。
原因に憶測を巡らせていると、周囲に霧が立ち込めている事に気付く。朝霧、にしては青く淀んでいる。前方の視界は十mも無いだろう。上方にカメラを回せば朝焼けとは違う、夕焼けの様な深い赤橙の光が透けている。
漠然と、直感的に『道を外した』と気付いた。ただ単に街道や予定のルートを外れてしまったと言う意味ではない。
『迷いこんだ』『踏み入れてしまった』表現した方が馴染むだろうか。咄嗟にメンテナンスの為にタラップを降りようとした兵士を呼び止めた。

「待て、外の様子がおかしい。先に私が降りて様子を見よう」

「え?ならば尚更私が。武器も持ってますし」

「いや、私が行こう。私に車輌の細かなメンテナンスは出来ない。一刻も早く此処から離れた方が良さそうな気がする。君は復旧を進めてくれ」

戸惑う下士官の申し出を取り下げ、彼に代わってタラップを降りて扉のロックを外した。
開かれた扉の隙間から、沼の底から浚って来た様な錆びついた生臭い風が吹き込んで来る。

「ひどいな。何だこの臭いは……近くに死体の山でもあるのか……?」

周囲に湿地や沼地など無いはず。思わず顔をしかめ、袖で口を覆う。地に降り立つと泥かタールか、黒々とぬかるんでおり、ずぶりと沈み込む不快な感触が靴底から伝わった。
周囲を警戒しながら足を取られないよう、装甲車の側面へと回り込む。
霧は深く、濃く立ち込めて空も見えないが、しとしとと小雨が降っている。幸い、少しも歩かない内に装甲車を跳ね上げたものの正体は直ぐに見付かった。

「岩に乗り上げたのか……だが、これは。
表面が黒く、粗い……。この岩質、少なくともこの地域の地質では見られないものだな。
……一体、何処だ?“此処”は」

車体の下を覗き込むが、幸い燃料漏れは見られない。不幸中の幸いか、と息をつくと喉を刺す痛みが走る。

「ンッ、何だ──がッ、は……!」

何だと思う間に喉の痛みは肺に侵入し、灼けた鉄を飲み下したかの様な苦痛に変わった。激しく咳き込み、酸素を求める度に痛みは乗算され呼吸も儘ならなくなる。
毒ガスでも発生しているのだろうか。いずれにせよこれは、まずい。歯を食い縛り、無理矢理息を止めて乗降口へ向かおうとするが、今やほんの数mが遥か遠くに思える。
酸素を求めて肺が暴れるが、今此処で呼吸をしてしまえば焼き破れかねない。しかし──、
視界に火花が散り、白く飛びかけた時、強い力で肩を掴まれた。なにごとか、怒鳴る様な声を掛けられるがそれを言葉として理解する思考の余白などなかった。 

次に明瞭に視界が戻った時には、先頭車両の壁に凭れてへたりこんだ格好で酸素ボンベを口にあてがわれていた。此方の意識が回復したと見るや、周囲の下士官達、そして騒ぎを聞き付けたシージスやクルシュケイトから安堵の声が洩れた。
しかし、心配させたと彼らに詫びるよりもエリザベートはタラップの端に立つ黒服の青年の姿に瞠目していた。

「ゼクト……?」

─────

また直ぐに外へと出て行こうとする青年を無理矢理車輌内に押し留め、これまでの話を聞き出すべく奥の客室へと連れ込むと一対一で膝を突き合わせた。
毒霧が立ち込めるこの一帯は何なのか。
霧の中から現れたこの青年から仔細を聞き出さなければならなかったのも勿論ある。
だが、一ヶ月振りに会ったクティスは別れ際の時よりも増して疲弊し、磨耗し切っている様に見えた。
まるで戦地で孤立し、朝も夜もなく戦い続けるはぐれ兵士の様な容貌だった。そんな有り様で大人しく見送れる訳がない。
彼曰く、あの青い毒霧の正体は本来ならば境界内に満たされているはずの“瘴気”なのだと言う。

「あのまま吸い続けたら肺が灼けてた。
例えガスマスク着けてようが皮膚を灼いていくから“腐蝕地帯”に入ったら留まらず、一刻も早く逃げちまった方が良い」

「“腐蝕地帯”?」

聞き慣れない言葉を反芻すると、ゼクティスは自分が勝手にそう呼んでいるのだと言いながらも、確と頷く。

「境界……いや、黄泉域がコッチ側に乗り上げて来ちまってる地域だ。クエーサーが有る地域……都市は避けられてるみたいだが、逆に言や都市の外縁ギリギリまで迫って現れる場合もある」

「境界が此方に出現する、と言う事は……」

「そっから魔物も沸いてくる。……また、前とおんなじだ」

疲労のせいだろう。ぜクティスは別れた時よりも一層濁りを増した青い眼を伏せた。
腐蝕地帯は二日~一週間程度此方に現れまた消えて行く。昼夜問わず、その時間帯規則性は見出だせないが、発生する場所は必ず自分が居る付近に現れるのだと言う。
ゼクティスが勝手に呼んでいるとは言ったものの、陽を遮る青霧とタールの様にぬかるむ地面、死んだ枯木に錆臭い腐臭。腐蝕していると断ずるに相応しい光景だった。

「……遊んでやがるんだ。俺がとっとと彼処から“あいつ”を引きずり出せりゃあ……!」

虚ろ気な眼に憎悪すら滲ませながらぐしゃりと髪を乱す。エリザベートは何も返さず、おもむろにインスタントの紅茶を予め用意していたコップに入れて湯を注ぐと、静かにぜクティスの前に差し出した。

「それでお前は、この一ヶ月ずっと独りで座礁してくる黄泉に潜り続けていると」

「……いや、独りって訳でも無ぇ」

ゼクティスは首を横に振ると、いつの間にか同行して来ていた白装束の男──クラレンスの姿を脳裏に描く。普段は姿を見せないが、腐蝕地帯が浮上する度に現れ魔物を片付けては姿を消す。
世界から虚像を奪われた男にとっては実像を隠すことなど容易いのだろうか。
曰く、『皇家の血が情けとばかりに防護の役に勤めているらしい』のだと。つまりクラレンスにもどうやら瘴気の耐性があるらしい。
お互い話し好きと言う訳でもない。情報共有や場合によっては共闘もしているが、不可侵の線引きがある。今回は未だ姿を見ていないが、恐らく今も何処かで戦っているのだろう。

「……そうか。やはり、例の魔物とやらはお前達に任せるしか無いのか」

二度も世界を動かす資格無しと爪弾かれたとなれば、今更落胆など然してありもしない。それよりも、この青年が独りでない事に安堵した。
安物の紅茶だがその香りは芳しく、ふわりとコップから立ち上る湯気と共に優しく広がる。
ひとつ頷き、ぜクティスは苦笑を浮かべながら紅茶を啜る。

「言ったろ、これは俺の後始末だって。
ホントは一人でやんのが筋だが、そうも言ってられねぇ。あの男も通さなきゃなんねぇ筋があるみたいだし。
それに、あんたはあんたで自分の仕事があるだろ」

「あぁ、今は導師を第壱都市まで護送する任務の最中だ。──それに、レイを探してやらなければならない」

紅茶を半分ほど減らした所で、レイシェントがどうかしたのかとコップから口を離す。ティーバッグを入れっぱなしのコップに湯を注ぎ足してやりながら、レイシェントが姿を眩ました一件を話す。
案の定、ぜクティスも信じられないと言った表情で眼を見開いていた。

「完全な魔物化……!?馬鹿言え!あいつそんな素振り、一つも……!」

「あぁ、だから私も気付けなかった。……と言うよりは、油断していた」

心臓の裏で牙を剥き出す悔恨に表情を歪めるが、エリザベートは自戒の痛みを払う様に頭を振る。

「いや、此処で泣き言を言っても仕方がない。兎に角、レイの事は私が始末を付ける。
もうそれでしか、私が奴に報いてやる事は出来ないのだから」

打ちのめされ、濁りに淀もうとも絶える事の無い強い光が変わらずその双眸に在るのを見て、青い目が僅かに見開かれた。

「精一杯報いてやるのが手向け、か……。
解った。レイの事はあんたに任せる。コッチも、とっとと決着付けねぇとな……」

すっかり濃くなってしまった紅茶をぐいと飲み干し、テーブルに手をついて立ち上がろうとしかけた所でエリザベートに『待て』と止められる。

「……あ?未だ何かあるのか?」

「あぁ、あるさ。お前に今必要なものだ」

今の話を聞いたなら解るだろう。いつまでも此処でのんびりしている時間はないのだ。
エリザベートを見下ろす曇った青眼と、眉間に刻まれた皺が訴える。だが彼女は微塵もたじろく事なく翠眼で受け止める。
口を開く気は無いのか、勿体振っているだけなのか。続く言葉が出るまで悠長に付き合う必要は無い。中途半端な姿勢から、ゼクティスは改めて立ち上がった所で急に視界が回った。両脚から奪い去られた様に力が抜け、膝をついた。
一体何が起こったのか。考える間も無く、四肢から全身からずるずると感覚が抜け落ちる。
最早脳すらも強制的に休眠させられようとしているのか。思考すらもままならず、じきに青年は狭い廊下へ飛び出す様に横たわっていた。
エリザベートはゼクティスの側に屈んで、呼吸や脈拍に異常が無いことを確認する。

「やれやれ、中々薬が効かないから焦ったよ……済まない、誰か」

余程気を張り詰めさせていたのだろうか。薬が完全に回り切るまで、なんの異常も見せなかった。冷や汗を拭いつつ部下を呼ぶと、ゼクティスを客室の寝台へと運び込ませた。
使った睡眠導入剤の量からして、少なくとも十二時間は目を覚まさないだろう。
この装甲車輌は有事の折には牢としても機能するよう設計されている為、窓は嵌め込み式。部屋の扉には外から施錠を施してからノクサスらの居る部屋を訪ねた。
軽くノックをしてから扉を開ける。

「ゼクトさん、何て言ってましたか?」

身を乗り出し、真っ先に状況を訊いてきたのはシージスだった。それはノクサス、クルシュケイトの代弁でもあった。
解っている、とエリザベートは前置いてから、今し方ゼクティスから訊いた内容と合わせて現状の説明をした。

「あぁもう、結局なに?あの便利屋に全部おっ被せるしかないっての?で、悪の親玉倒すまで指咥えて見てろって?性格悪すぎじゃん!」

「この瘴気がある限り、普通の人間が立ち入り出来ないんじゃあ、ね……」

責任者出てこい、とでも言いたげに喚くクルシュケイトを諫めるノクサスも、勿論シージスとて気持ちは同じだろう。

「今、ゼクトさんは?」

「奴には少し眠って貰ったよ。自分の体調も判っていない様だったからな。
話したかったなら済まない、しばらくは叩いても殴っても起きないと思う」

「いえ!言いたいこと、はあるけど……。
今はエリザさんの言う通りに休んで貰わないと。
僕達が通りかからなきゃゼクトさん、きっと戦い通しだっただろうし」

ぶっきらぼうなのに、その癖ひどく優しくて責任を捨てられない人だから。仲間として力を貸せない悔しさで目を伏せながらもシージスは微笑んだ。
それにエリザベートも頷いて応えた。

「取り敢えず、私達は今やるべきは此処から離脱する事だ。幸い深くまで入り込んでもいない様だし、メンテナンスが終われば直ぐに動けるだろう。
クルシュ、レギオンは動かせるか?」

「あ、そっか。あたしのセレネとギルトなら……流石姐さんあったま良い!勿論、いつでもおっけー」

動力が何であれ、ただの人形であるレギオンならば瘴気の毒性は関係無いだろう。直ぐに屍人形を呼ぶと、奥からニmを越える人形が二体、滑る様に現れる。
天井窓のシャッターロックを外し、三分の一ほど開いてやると二体の屍人形は身を捩じ込む様にその隙間を通り外へと飛び出してゆく。そして再び瘴気が入り込まない内にシャッターを閉ざした。

「……よし、済まないが魔物が来た際には迎撃を……クルシュ?」

客室を振り返ると、クルシュケイトは青褪めた色の顔にひきつった笑みを浮かべていた。エリザベートが振り返るより早く、ノクサスが何か勘付いて“眼”を使ったのか、クルシュケイトの代わりに応えた。

「いつの間に……!十時方向に大型の、魔物だ……!」

「なに──!」

エリザベートは弾かれた様に先頭車輌へと走る。後を追う様にクルシュケイトが客室から飛び出し、エリザベートに続いた。

「探知機には引っ掛からなかったのか!」

「多分潜ってやがったんだよあのクソ下道!……うッわ何あれ、脚が何本も生えた軟体の……イカ?みたいな」

狼狽える部下の代わりにクルシュケイトが答える。
外部を写すモニターを観れば、そこには五mはあろうか。言葉通り、ずんぐりとした本体から何本もの脚が枝分かれした軟体生物の貌をした魔物の姿が在った。
エリザベートは無理矢理にでも直ぐに車輌を動かすよう、部下に指示を飛ばす。

「クルシュ、出来る限りで良い。足止めを頼む。
此方も外に付いている自動機銃で援護はする」

「あァ解ってる!」

モニター越しに魔物を睨み付けながらエリザベートは遥か後方、ゼクティスを収容している部屋を振り返る。あんな化物紛いの輩を相手に戦い続けてこの一ヶ月間生き延びてきたのか。まして此方を頼ろうともせず。

「これが、お前だけが負わなければならない後始末とやらなのか……?」

車輌のエンジンが入ると、低い唸り声の様な駆動音が車内に響き渡る。タール状にぬかるんだ地面にタイヤを取られかけ、空転させながらも後退を始めた。
だが、機銃の牽制とレギオンの猛攻を突破した魔物が車輌へ向かって飛び掛かって来る。車輌を飲み込まんと放射状に開いた触手、漆黒の腹が剥き出しにフロントガラスの向こうに迫っていた。

「馬鹿な!」

正面から巨躯が叩き付けられる衝撃に、車輌全体が玩具の様に跳ねる。顔を上げれば、銃弾をも防ぐ強化ガラスにヒビが走っていた。
まずい。破られれば魔物の驚異は勿論、瘴気にも晒される。
レギオンも攻撃は仕掛けているのだろうが、激しく軋む音からするに魔物が剥がれるより車輌を潰される方が早いだろう。
──その時。
突然魔物の身体が激しく痙攣し、硬直したかと思えば、力無く車輌からなだれ落ちた。フロントガラス全面に、赤黒い魔物の体液を塗りたくって。

「は……?魔物が突然、死んだだと……?そんな馬鹿な……」

ほんの数秒前から打って変わって静寂を取り戻した車内に呆けた声が響いた。部下達からは次々と安堵が漏れ出す。
幸い車外カメラは無事だったらしい。塗り潰されたフロントガラスの代わりに再び映像を出すと、そこにはなますに刻まれ最早原型を留めない魔物の死骸。
その上に佇む、レギオンとは全く異なる黒い影。

「なにあれ……ヒト、じゃないよね……?」

クルシュケイトが訝しみながら呟く。だが、エリザベートには既視感があった。

「レイか……?」

「は、うそでしょ……あれが……!?」

車外に声が聞こえる筈もないが、異形の影法師はカメラ越しに此方を見た。一瞬、激しく映像が乱れ再び映像を映し出したかと思うと、その姿は綺麗に失せていた。
カメラを回して探せども、映し出すのは腐蝕した地と刻まれた魔物の死骸。そして獲物を失ったレギオンだけだった。
確かにあれは、以前エリザベートと対峙したレイシェントの魔物化状態に酷似していた。未だ理性はあるのか。だとすれば。
一条の光を見た気がしたが。直ぐに頭を横に振って、甘い希望を振り払った。仮に理性や知性が残っていたのなら、ゼクティスの様に此方に接触を試みたのではないか。
それに、この瘴気の中で自由に動けるとすれば、やはりあれは。

「……いや、すまない。見間違いだ。あれはきっと、ただの魔物だろう」

訂正する言葉を伝えるのは、ひどく凍てついた声だった。難を逃れた装甲車輌は腐蝕地帯を抜け出すと、一旦ルートを変更してこの場から一番近い派生都市へと向かうこととなった。