07

ゼクティスが次に目を覚ましたのは、全く見覚えの無いベッドの上だった。ゆっくりと視線を見巡らせると、素朴だが清潔感のある部屋の内装が見て取れた。
突然の意識の浮上により先程まで視ていたであろう夢の内容は記憶から全て溶け消えてしまったが、思い出すまでもなくきっとひどい夢だったのだろう。浮かんだ汗で顔に張り付く髪が鬱陶しい。自身の右手は胸の辺りの服を掴んだまま固まり、ろくに動かない左手は細かに震えていた。

「随分魘されていたな。悪い夢でも視ていたか?」

意識の外から声が投げ掛けられる。
部屋の入口の方からだろうか。其方を改めて見遣れば、濃紺の外套を纏う女軍人──エリザベートがドアに寄り掛かって立っていた。

「……忘れた。が、悪夢なんざほぼ毎日だ。大方境界と長いこと繋がってるせいだろうが……それより」

重い体をベッドから引き剥がして起き上がる。目覚めたばかりの身体は中々言う事を聞いてはくれないが、睡眠を取ったお陰で思考を阻害する靄は無い。
ゼクティスはエリザベートに向かって歩み寄ると、彼女が背を預けるドアに手をついて逃れよう無く追い詰める。

「てめぇ、俺に何をしやがった」

「くたびれた野良犬の有様が目に余ったもので、一服盛って保護してやったまでのこと。感謝されこそすれそんな目で睨まれる筋合いは無い」

獣じみた剥き出しの敵意を隠そうともせずにエリザベートに迫る。だが、エリザベートは飽くまでも冷徹に一切の動揺も無く答えた。それがゼクティスの沸き上がる憤怒を一層に煽る。

「俺がやらなきゃなんねぇってのはあんたも解ってんだろうが!呑気に寝てる暇なんざ無ぇんだ!」

「どうやらお前は知らないらしいが、人間というのは休息無しで活動出来るほど都合良く出来てはいない。
……らしくないな、いつも保守派のお前が無謀な下策をとるなど。あのまま活動を続けていたらどうなっていた事か」

「……どうなろうと知った事かよ。あいつを引き摺り出して殺せりゃソレで、終いなんだ」

吐き捨てる様なゼクティスの台詞に、エリザベートは頭の中で何かが切れる音を聞いた。気が付いた時には丁度良い位置にある青年の胸ぐらを掴み、顔面目掛けて頭突きを入れていた。
ろくに反応も出来ずもろに食らったゼクティスは鼻頭を押さえ、大きくよろけてたたらを踏む。青年の手の内から血が流れていたのが見えたが、そんな事などお構い無し。今度は襟首を捕まえ、鳩尾目掛けて膝を突き入れた。

「なッ、に……しやが……!」

「本当はもう一発、その腑抜けた面に叩き込んでやりたいところだが右手が未だ治ってなくてな。
悪化させようものならミリア殿に叱られてしまう」

咳と呻き声の中から此方を睨み上げるゼクティスへ、エリザベートは冷ややかな眼差しで睥睨する。間欠泉の様に噴出した激昂を誤魔化す様に、口調は努めて悠々としていた。

「そんな様でよくも私に大口を叩けたものだ。私の動きが全く見えていないじゃないか」

不意打ちとは言え、真正面からの攻撃に対して防御行動を取るどころか反応すら出来ずまともに食らうとは。青年の不調が更に浮き彫りになる。
身体をくの字に折り曲げるゼクティスの肩を荒く鷲掴み、顔を此方へ向けさせる。

「いつまでも不貞腐れるな糞餓鬼!辛いのが自分だけだと思ってるんじゃあない!!」

「……あ?誰が不貞腐れてるって?」

あの戦いで誰もが傷付いた。そんな事など百も承知、億も承知だ。だからこそ己が成すべき事を遂げねばと躍起になっているのだ。自分以外何も犠牲にすること無く完全に、無欠で。
恐らくそれが、己に赦された唯一の報い。だが、エリザベートは強く首を横に振る。

「困るんだよ、お前がそんなんじゃあ。私は“あの娘”がこれ以上悲しむのは、見たくない」

「な──、」

名を出さずとも、互いに思い浮かべる人物は一致している。唐突に持ち出された存在に完全に不意を突かれたゼクティスは、明らかな動揺を見せる。言葉を詰まらせながらもぎこちなく言葉を紡ぎ出す。

「なんで……今“あいつ”が、出て来る」

かの少女、かの光使いの護衛役はとうに終わった。二人の間に繋がっていた縁は断ち切った。己はただの、地方都市のいち便利屋に戻ったのだ。もう自分とは、一切関わりの無い世界で生きる者のはずだ。

「お前がやらねばならんと思う事がある様に、あの娘にも遂げたいと願っている意志があるらしい。お前に対してな。
……折ってくれるなよ」

「……勝手な事、言いやがって」

噛み締めた奥歯が軋んで不快な音を鳴らした。握り締めた拳が震え、辛うじて絞り出したのは弱々しい悪態だった。汚泥の様な感情が渦巻く底で、それでも微かな光が灯るのを感じた。
あぁ、意識が回復したのか。良かった、と。それはほんの一握の、だが確かな安堵だった。
とうに縁を断ち切った者に対して、何故喜びが生まれるのか。断ち切るどころか固く縛られているのは未練か。ゼクティスは嘲るべき度し難さに目を伏せた。

「お互い様だ、この大馬鹿者」

ゼクティスの目から澱みが薄れたのを見て、エリザベートもまた安堵の混じった息を吐き出した。

「……黄泉域が腐蝕地帯として此方側に乗り上げ、簡易的な地獄門となっている。
しかし、そこに満ちる瘴気は人の干渉を阻む上に領域外にも拡がってゆく。そうだな?」

予め聞き及んでいた情報を改めて整理する為、エリザベートは己の記憶を反芻する。
ゼクティスは手袋の甲で滴る血を拭うと、疲れた様にベッドへ腰掛けた。

「あぁ、腐蝕地帯を退かせるにはその中の、黄泉域を引っ張って来れる程の自己領域能力を持った魔物を倒す必要がある。そいつは大抵深部に居て、俺は楔……アンカーって呼んでる」

「……もしかすると、あの軟体生物に似た巨大な魔物か」

「何だと?深部に進んでも居ねぇとは思ったが……あんな浅瀬に出たのか?」

領域の主を探すべくゼクティスはいつも通り深部へ進んだが、今回に限っては遭遇出来ていなかったのだと話す。乗り上げて来ているとはいえ腐蝕地帯は魔物の領域、内部の移動など自由自在だ。しかしその領域の主が容易く釣り出されて折角浮上させた黄泉域が沈んでしまっては意味が無い。原則的に奥底に留まっているのが常なのだが。
もしかすると、魔物の動きにまた新たな変化が起こっているのだろうか。眉間に皺を寄せて可能性を思案する。
だが、エリザベートには心当たりがあった。

「……もしかすると、レイが釣り出したのかも知れん」

「は?」

レイシェントは魔物化して姿を消したのではなかったのか。希望的観測にしては妙に冷静な呟きが尚のこと度し難かった。

「お前を眠らせた後、その……アンカーとやらに遭遇した私達はクルシュのレギオンや機銃を使って車輌内部から応戦したが力及ばず窮地に立たされた」

「……そうだな、上位の魔物は厄介な表皮を作りやがる。俺が殺る時も大抵は蒼洸で中から灼く」

腐蝕地帯の中で上位の魔物に挑む術は限られている。ある程度の武器を備えた軍用の装甲車でも時間稼ぎが関の山。どうやって難を逃れたというのか、ゼクティスは食い気味にエリザベートの言葉を待つ。

「魔物を屠ったのは、魔物だった。
姿は人型の魔物そのものだったが、あれはレイが魔物として暴走していた時の姿によく似ていた」

「ンな馬鹿な……」

「そいつはアンカーを屠ると直ぐに姿を消してしまった。……考えてみれば、奴が完全に魔物化しているとすれば黄泉域に潜っていたとしてもおかしくは無い」

アンカーを討った魔物の姿は車外カメラの記録映像にも残っていた。共に魔物態の姿を見ているユーリックに見せても、きっと同じ所感を抱くだろう。
画像としてプリントアウトした物をゼクティスへ差し出す。
大鎌を担いだ黒い影、異形のシルエットではあるものの、その佇まいは不思議とレイシェントの姿を想起させる。ゼクティスは知らず知らずに眉唾を飲み込んでいた。

「奴に人格や記憶が残っているかも判らんが……魔物になってもレイはレイ、なのだろう。あの中でお前ばかり戦っている訳じゃない」

「……」

共に戦っているのはクラレンスも同様だが、各々の目的は己自身の後始末や決着をつける事であり偶々討伐目標が同じと言うだけのこと。共有するのは情報のみで、互いの志など知る由もない。
ゼクティスの戦いは孤独の中にある、はずだったのだがそれすら思い上がりと言うのか。

「という事で、だ。本部へ報告を上げて軍の方からもお前のバックアップを行う様に交渉しているところだ。直接私の名を使っては通らんだろうし、体制が整うまでは時間が掛かるだろうが」

「……は?」

思わず間の抜けた声を上げるゼクティスにはお構い無しにエリザベートは説明を続けた。
軍の支援とは言っても実地に赴ける人物が限られている事に変わりは無い。恐らくは便利屋への調査依頼に対する活動費の援助や移動手段の補助が主になるだろうとの事だった。

「おい待て、何を勝手な……!」

「どうせ飯もろくに食っていないんだろう。鏡を見てみろ、酷い顔だぞ」

自分の世話も儘なっていない奴に反論する権利などくれてはやらないと、にべもなく遮った。
エリザベートは備え付けのデスクに行儀悪く腰を乗せると受話器を持ち上げ、宿の者へ食事の用意を言伝てる。

「……それに、これは個人の問題じゃない。本来なら我々が主体となって対応すべき事、何もしなければ軍の沽券に関わる。我々にも噛ませろ」

「……軍に戻った途端、ご立派な軍人様気取りかよ」

「気取るだと?言ってくれる。私は正真正銘、正義の味方──だッ」

ベッドに腰掛け、丁度良い位置にある黒い頭に拳を落としてやった。力一杯殴らずとも、コツさえ掴んでいれば充分な痛みを与える事は可能だ。
ゼクティスは声も無く頭を押さえ、力無くベッドに沈み転がった。こんな話になるなら腐蝕地帯でエリザベートを助けて早々に姿を眩ませておくべきだったかと、今更ながらに後悔した。

「ッつぅ……分かったよ、支援なりなんなり好きにしやがれ」

「それで結構」

『但し、俺は』と間髪入れずせめてもの我を通してやると目論んで口を挟もうと試みる。が、此方の眉間に人差し指を突き付けられ、無慈悲に遮られる。

「お前は以後勝手な行動はしてくれるなよ。取り敢えず数日中に腐蝕地帯調査の委任状を仮発行するからそれまでは動くな。身体を休めていろ。良いな」

「おいふざけんな!ンなの聞くと思って」

幾分険が和らいだなりに未だ青年は反抗的な態度を取る気でいるが、それは此方も承知の上。
その時、図っていたかの様にタイミング良くドアがノックされ、エリザベートが『入れ』と促す。
遠慮がちに入って来たのは、緑髪の少年──シージスだった。

「ええと、失礼します。ゼクトさんの見張りに来ました!」

「……っげ」

明らかに表情を苦めるゼクティスとは裏腹にシージスは、久し振りに言葉を交わせるのが嬉しいと混じりっけひとつ無い純な笑顔を見せた。

「覚悟して下さいゼクトさん、僕が来たからには絶対逃がしません!
因みに僕の隙を突けたとしても外にはクルシュのレギオンが控えてる。しっかり休んで貰いますよ!観念して下さい!」

「おぉ、頼もしいじゃないか。なぁゼクト?」

「だから、俺の話を……もう勘弁してくれ……」

エリザベート相手ならともかく、この少年相手に当たり散らすなど大恥だ。抵抗の気力も削がれたゼクティスはベッドに転がったまま、力無く顔を覆った。

─────

エリザベートより身勝手な行動は慎むよう厳命されたゼクティスであったが、街への外出は思いのほかあっさりと許された。但し、彼のみ武器の携行許可申請が出されていない上に見張り役としてシージスの同行が条件だった。それでも、ゼクティスがその気になればエリザベートらの手から逃がれる事は可能だろう。
その場合、第一関門であるシージスを撒くだけでも文字通りの意味も含め、骨を折る事になるだろうが。
ひとたびこの魔操士の標的となった際の容赦の無さは身を以て知っている。何より、己を逃したとなれば純真な少年は素直に自分自身を責めるだろう。此方が作った責で落ち込まれては、何と言うか、非常に後味が悪い。
つまるところ、シージスによる見張りは充分に拘束力を発揮していた。

新たな腐蝕地帯の座礁発生はどんなに早くとも約三日ほどの猶予がある。焦ったところでゼクティスも現状は動き様が無く、エリザベートが用意する委任状とやらの発行を待つには丁度良い余暇だった。

現在エリザベートらが駐留しているのは、聖都から北東に位置する派生都市ラトルス。訪れた事はあるが、街を見て回るのは初めてだった。

「──ってあれ、ゼクトさんってこの街に来た事があるんですか?」

「あぁ、レイと会った後にな。その後アルザラでカルミラ……駐留軍の連中に捕まって、レヴィアと一緒に聖都までしょっぴかれた。その時に寄ったのが此処だ」

立ち寄ったとは言え状況が状況である。しかも相手は傲岸不遜にして忠実なる軍の僕たるカルミラ・イングレンス、自由行動など許される訳がなかった。
派生都市内に幾つも流れる天然の川がこの街の特徴らしい。貴重な陽光を受けて煌めく川面は濁り少なく、養殖ではない天然の魚の影も見て取れる。
ゼクティスは川に掛かる橋の上で脚を止め、欄干に肘をついて身体を預けた。頭突きを食らった鼻頭に貼っている湿布の端が乾いたのか、痒みを感じて無意識に擦っている。

「あ〜……てっきり便利屋のお仕事かと……それは、大変でしたね」

「便利屋として請け負う仕事の範囲はジルバスから聖都までの間。それでも遠方まで広くやってた方だけど」

成り行きとは言え、思えば方々を渡ってきたものだ。観光をしていた訳では無いが、一つの都市から出ることも無く生涯を終える者も少なくないと思えば長大な歩みにも思える。然程月日を経てはいないが、既に懐かしくもあった。

「僕もゼクトさん達と会う前までは色んなところに行ったんですよ。古そうな街の遺構とか遺跡も見付けたし……まぁ、そこが一体何処なのかも判ってませんでしたが」

「行ったっつうか、彷徨ってたんだろ。よく生き延びて来れたよな」

「えっへへ」

天性の方向音痴話を話半分に聞き流しながらも、相変わらず暢気な笑いに気の抜けた溜息が洩れる。

「何でそんなに嬉しそうなんだよ」

「気付いてませんでしたか。ゼクトさん、ずっと恐ろしい顔をしてましたよ。でも話してるといつものゼクトさんで、根っこは変わらないままで安心しました」

シージスは人差し指を眉間に押し当て、此方の顔真似をして見せる。妙に再現性の高そうな不機嫌満面の澱み顔に『そんな顔してたか?』と怒る気も起きない。目に余るうらぶれ振りであったのはエリザベートの言葉からも既に明らかだ。

「人間も木も一緒。根が腐れちゃお終いだって、その通りだと思います。しっかり寝てご飯を食べたお陰ですね」

「ソレ、誰の言葉だ」

「……僕のおばあちゃんです。“僕ら”の生き字引で、厳しいけど優しい人でした」

今は亡き者を語るシージスの顔には寂情が滲んではいたが、笑顔は穏やかなもの。川面に目を遣りつつも『俺も同感だ』独り言ちの様に呟いた。

「ノクサスさんの元でお世話になる様になってから、おばあちゃんの声やふるさとの臭いが僕の中からどんどん消えいってしまっているのが判ります。
けど多分、僕の核になっているものはけして消えない」

「……焦るなって言いてぇのか?」

「う、うぅん?そう、かな……そうかも……?」

シージスとしては単に自身の心情を吐露したに過ぎないのだが。しかし目の前の青年の状況を顧みれば、かつての自分自身と重なる部分もある様に思えた。

「以前は復讐さえ出来ればもうどうなったって良いやって投げやりでしたが、今となっては踏み留まれて良かったと思ってます。
それに、そう聞こえたって事はゼクトさん自身がそう思ってるんじゃないですか?」

「……だろうな」

力づくではあるが休養を強いられ、思考の余白が生まれた今になってようやく気付いたのだ。自身の焦燥によってすっかり思考を焼かれていたことに。
冷静になって省みて、丸裸になった愚かさが我ながら痛ましく、重たげに頭を抱えた。

「お前に説教しておいてこの様じゃ、笑い話にもならねぇな」

「あはは、しょうがないですよ。僕だって気持ちは解りますし……って言うか、師匠もゼクトさんの側に居ながら放ったらかしなんて酷いなぁ」

「ん、師匠?」

聞き間違いでなければそう言ったはず。ぐったりと肩を落としていたゼクティスも弾かれた様に顔を上げ、目を丸めた。少なくとも此方の師を指したのでは無いだろうし、だとしてもこの少年が師と称する人物の存在など初耳だった。

「はい、クランさん。ゼクトさんと一緒に行動してるんでしょ?」

「『クランさん』ってクラレンスの事か?
そうだけど……あいつが師匠?お前の?何で?」

疑問符塗れのゼクティスの顔を見てようやく困惑を察したのか「あれ、話してませんでしたっけ?」と悪気無く小首を傾げる。

「あれは確か……第壱都市内の初巡回任務のお手伝いの時に助けて貰ったんです。で、都外警備班の方だって聞いて度々稽古をお願いしに行ってたんです。
僕が勝手に押し掛けてただけだけど」

「そんな面倒見の良い奴には見えねぇけど……へぇ、意外だな。つか、何であいつなんだ?」

稽古なら自分やレイシェントでも良かったのでは。方向音痴の少年が毎回都市外縁部まで向かった上に、気配の薄いあの男を探すのは苦労したのでは。

「教団内は人目に付き易いじゃないですか。ほら僕、外部の人間だし、魔操士だし。それに……」

「……それに?」

「かっこよかったんです……!僕を颯爽と助けてくれた師匠が……!!それにほら、同じ双剣使いだし!」

「え、あー……そう」

建前は色々あるにしろ、彼を慕うに当たって最大率を占める理由は実に判り易かった。
ゼクティス自身、あの男の戦闘技術は認めている。むしろそれ以外に好感を抱くところなど無いのだが、シージスくらいの年頃からすればクラレンスの様な歴戦の男というのは憧憬の対象に映り易いのかも知れない。

「師匠のお陰で気配を見分けるのも辿るのも凄く上手くなったんですよ!知ってる人なら半径十mくらいまで判るかな……って、噂をすれば」

「あ?」

シージスが振り返った視線の先を追って其方を見遣ると、今し方話題の中心人物として据えられていたクラレンスが姿を見せていた。
ゼクティスでも視界に捉えていなければ確信出来ないほどに朧気な存在感だと言うのに、よく気付いたものだ。少年の探知能力はとうに自分を飛び越えている事が判る。もしかすると魔操士由来の能力なのかも知れない。

「師匠ぉ〜!お久し」

「俺は弟子なんぞ取った憶えは無い。何度言えば解るこの緑小僧が」

「あう」

どうやらこの師弟関係はシージスからの片想いである様だ。半分想定内ではあったが、この男の存在が少年の成長を促しているのも事実だろう。
欄干から離れ、ついでに哀しげに落とされた少年の肩を叩いた。

「だろうと思った。
で、どうしたよ。わざわざツッコミ入れに来た訳じゃねぇんだろ」

「……導師の様子を見に行ったらお前を呼ぶよう頼まれた」

「あぁ、あんたはノクサスが雇い主になるんだったか」

ゼクティスの現雇われ先が聖都軍であるように、クラレンスの雇用先は教団──ノクサスの意向の元にある。魔物誘引剤である自分が軍に連れられて街に入れば、彼が外に居る理由は無い。ゼクティスが遭遇した軍が導師の輸送隊と知り、雇い主の安否確認に来ていたのだろう。

「言伝は伝えたぞ。……解っていると思うが、二日以上街に留まるなよ」

「分かってる。言われるまでもねぇよ」

直接街に現れずとも腐蝕地帯が街付近に座礁すれば、洩れ出す魔物や瘴気による被害が発生するだろう。クラレンスは用件だけ伝え終えると、また直ぐに立ち去るべく踵を返した。

「あ、ちょっと!もう行っちゃうんですか師匠!久し振りの稽古チャンス、逃しはしません!
僕は師匠を追いますのでゼクトさんは宿に戻って下さい!」

「おい待て!俺の見張りがお前の仕事だろうが!」

言うが早いか、虚像の様に姿を眩ませたクラレンスを追うべくシージスは全速力で駆け出していた。成程、ああやって気配探知の技術を磨いていったのか。妙な納得を得ながらゼクティスは溜息を吐き出した。
人の指示に従うばかりは癪だが、今更逃げる方が馬鹿馬鹿しい。ゼクティスは往路よりも幾分軽くなった足を宿へと向けた。

─────

宿に戻るとエントランスにて待機していたクルシュケイトに案内され、ノクサスが滞在する部屋に通された。導師が腰掛けるソファからテーブルを挟んで向かいのソファにゼクティスも腰を下ろした。

「あはは、それでシージス君は白鴉を追い駆けて行っちゃったと。元気だね」

「ったく、犬の散歩も満足に出来ないとか。また後で説教しなきゃじゃん」

「あぁ、って誰が犬だ。相変わらず口悪ぃなお前」

エリザベートが率いる輸送隊はごく少人数と言う事もあり、導師の客室はゼクティスの部屋の隣。然して広くもなく、貴人に宛てがうには余りに質素な部屋だが本人曰く『色んな物に手が届く広さで丁度いい』との事だった。
“眼”を使えば視界は開くが、日常生活レベルの事を一々眼に負荷をかけて機嫌を窺いながら行うなど煩わしい。盲目状態に慣れる方が早いと、ノクサスは少しずつ訓練も積んでいる様だ。常に共に居るクルシュケイトの補助もあり、不便は無さそうだ。

「君も、聞いていたより元気になったみたいで何よりだよ。さて、クルシュ」

「はいよ」

ゼクティスを呼んだ本題に入るべくノクサスは側仕えの少女へ顔を向けると、指示を口にするまでもなく動く。ノクサスが使用しているらしいベッドの下を探ると、子供の身長ほどもあるジュラルミンケースを引っ張り出した。
それを導師の脇に置くと、手探りにケースのロックを外す。やけに厳重な、と眺めていたが中から現れた物の正体に気付けば瞠目した。

「は……?おい待て、何であんたがソレを……月詠を持って来てんだ」

一瞬レプリカでは無いのかとも疑ったが、わざわざこの様に手の込んだ悪戯を仕込む意味は無い。
ケース内に収められた宝剣を食い入る様に見詰め、やはりかつてジェノブロウの元に返したそれと相違無いと認める。

「技術開発局の方で解析にかけてもこの剣を冒す“穢れ”を除く方法は掴めなかったそうで。歴史資料の調査も兼ねて此方の方で預かる事にしたんだよ」

無論、ジェノブロウとは争ったが聖都の中で施せる術が見付からないのであれば別の手段を取らざるを得ない。神器を預かっていると知っているのはこの場の三人とエリザベート含めた四人のみ。
内緒話をする様にノクサスは身を乗り出して屈め、声をひそめる。

「神話に則れば、月詠は一度深い穢れに冒されたもののまっさらな状態で人の手に降ろされている。そして神器を人の手にもたらしたのは初代導師ノクサス。ならきっと、うちに手掛かりが眠っているはずだ」

「それにあたし(死霊使い)が見た感じ、ホントに皇后様の魂が未だに入ってるかどうか疑わしいし」

「……それは解った。けどよ、何だって俺に伝える?」

無関係ではないものの自分が直接関わる案件では無いし、不用意に口外すべきでないのでは。考えあっての事とは承知の上、眼帯に覆われた導師の顔を見据えて怪訝に訊ねる。
だが、ゼクティスの反応が心底意外だったのか眼帯越しの目で此方を凝視して「あれ、解らない?」と頬を掻く。

「月詠が力を失っているこの状況下では此方と黄泉域は接続し放題な訳だ。勿論、座礁させるには引っ張って来れるだけの力を持つ魔物を用意する必要があるから無尽蔵にって訳にはいかないけど」

「あぁ、まぁそうなるか……」

「月詠の力が戻らない限りあちらさんはやりたい放題。その上、此方は君を含め数える程度の人間しか対応は出来ない。
あちらが圧倒的優位にあるって言うのに、わざわざ首魁が本気で君の相手をしに来てくれると思うかい?」

「それ、は……」

いくら魔物とはいえ人並みに知性を持った相手である。たかが因縁一つで易々と釣られてくれるなら苦労はしない。むしろ此方を嬲れるならばいくらでも焦らし、精神から摩耗させようと考えるだろう。先日前までのゼクティスがその通りであった様に。
座礁する腐蝕地帯を虱潰しにしていけばその内ネイエリエを炙り出せるだろうと思っていたのだが、またも露わになった己の見通しの甘さにゼクティスは閉口した。

「いやー、何ていうかさ……便利屋なりに一所懸命に考えてやってたんじゃね?」

「……何も言うな。更に惨めになるから」

ここまで来るといっそ哀れと言うか、クルシュケイトですら罵倒の一つも投げられなかった。
しょぼくれて落ち込むゼクティスの両肩を励ます様に、ノクサスは力強く二度叩いて今一度顔を上げさせる。
眼帯で目を隠してなお彼の表情は判り易いもので、困った顔で笑いながら首を横に振っていた。

「違う違う、ゼクティス君の行動が無駄だって言いたいんじゃないんだよ。むしろそのまま続けていて欲しいって頼みたいんだ」

「そりゃどう言う……」

「“俺たち”がどうにかして月詠の権限を復活させるまでの間、君には何としても時間稼ぎをしてもらわなくちゃいけない。
首魁が釣り出せないと判っていても、座礁して来る腐蝕地帯を放置する訳にはいかないからね。
……無茶を頼んでいるのは、承知の上だ」

闇雲であったかも知れないが、ゼクティスが懸命に戦ってきたこの一ヶ月間を無駄とは思わない。都市外で発生し始めた黄泉の座礁と言い、彼がもたらした詳細な情報は紛れも無く有意なもの。ノクサスの口元に浮かぶ笑みは青年への労いが込められていた。

「……いや、全く終わりが見えないって訳じゃねぇって判っただけでも充分だ。あいつの事は俺が止めるって端から決めてるしな。……任せてくれ」

「事が動けば此方からも連絡する。どうかそれまで、頼んだよ。くれぐれも気を付けて」

「今度は死体で再会とか、ちょっと気不味いしね」

ノクサスの肩越しに顔を出したクルシュケイトが揶揄混じりに付け足した。「ちょっと気不味い程度かよ」と言葉を返すが、すっかりいつもの調子に戻っている様にも思えた。
おもむろにノクサスは此方に寄って頭を下げる様にと軽く手招きする。訝しみながらもゼクティスは従うままにソファを寄せて頭を垂れると、その額に向けて閉じた掌を水平に差し向ける。

「邪気に向かうこの者の見出す道が堅き光に護られんことを。囲う氷牢無き事を、この者に思し召されませ」

静やかに守護の祝詞を唱えると差し向けていた掌を自身の顔の前に立て、沈黙の後に膝に下ろした。

「頑張る君に導師の祝福だ。サービスしておいてあげるよ」

「……どうも。しかし敬虔な信徒でもねぇのに効くもんかね」

祝福を受けるなど初めてのこと。ゼクティスは苦笑混じりにわざとらしく首を傾げて見せるが、聖職者らしく説法するでもなく「こう言うのは気持ちが大事なんだよ」とノクサスはごくシンプルな答えを返した。

気付けば陽はまた闇に呑まれていた。
話は終わり、また月詠が仕舞い込まれるのを見届けてゼクティスはソファから立ち上がる。

「一度繋がった縁はそう簡単には消せない。俺たちは未だ、繋がったままだ。どうか、努々忘れぬように」

「……分かった」

ゼクティスは小さく、だが確かな頷きを返して導師の部屋を後にした。

ゼクティスが次に目を覚ましたのは、全く見覚えの無いベッドの上だった。ゆっくりと視線を見巡らせると、素朴だが清潔感のある部屋の内装が見て取れた。
突然の意識の浮上により先程まで視ていたであろう夢の内容は記憶から全て溶け消えてしまったが、思い出すまでもなくきっとひどい夢だったのだろう。浮かんだ汗で顔に張り付く髪が鬱陶しい。自身の右手は胸の辺りの服を掴んだまま固まり、ろくに動かない左手は細かに震えていた。

「随分魘されていたな。悪い夢でも視ていたか?」

意識の外から声が投げ掛けられる。
部屋の入口の方からだろうか。其方を改めて見遣れば、濃紺の外套を纏う女軍人──エリザベートがドアに寄り掛かって立っていた。

「……忘れた。が、悪夢なんざほぼ毎日だ。大方境界と長いこと繋がってるせいだろうが……それより」

重い体をベッドから引き剥がして起き上がる。目覚めたばかりの身体は中々言う事を聞いてはくれないが、睡眠を取ったお陰で思考を阻害する靄は無い。
ゼクティスはエリザベートに向かって歩み寄ると、彼女が背を預けるドアに手をついて逃れよう無く追い詰める。

「てめぇ、俺に何をしやがった」

「くたびれた野良犬の有様が目に余ったもので、一服盛って保護してやったまでのこと。感謝されこそすれそんな目で睨まれる筋合いは無い」

獣じみた剥き出しの敵意を隠そうともせずにエリザベートに迫る。だが、エリザベートは飽くまでも冷徹に一切の動揺も無く答えた。それがゼクティスの沸き上がる憤怒を一層に煽る。

「俺がやらなきゃなんねぇってのはあんたも解ってんだろうが!呑気に寝てる暇なんざ無ぇんだ!」

「どうやらお前は知らないらしいが、人間というのは休息無しで活動出来るほど都合良く出来てはいない。
……らしくないな、いつも保守派のお前が無謀な下策をとるなど。あのまま活動を続けていたらどうなっていた事か」

「……どうなろうと知った事かよ。あいつを引き摺り出して殺せりゃソレで、終いなんだ」

吐き捨てる様なゼクティスの台詞に、エリザベートは頭の中で何かが切れる音を聞いた。気が付いた時には丁度良い位置にある青年の胸ぐらを掴み、顔面目掛けて頭突きを入れていた。
ろくに反応も出来ずもろに食らったゼクティスは鼻頭を押さえ、大きくよろけてたたらを踏む。青年の手の内から血が流れていたのが見えたが、そんな事などお構い無し。今度は襟首を捕まえ、鳩尾目掛けて膝を突き入れた。

「なッ、に……しやが……!」

「本当はもう一発、その腑抜けた面に叩き込んでやりたいところだが右手が未だ治ってなくてな。
悪化させようものならミリア殿に叱られてしまう」

咳と呻き声の中から此方を睨み上げるゼクティスへ、エリザベートは冷ややかな眼差しで睥睨する。間欠泉の様に噴出した激昂を誤魔化す様に、口調は努めて悠々としていた。

「そんな様でよくも私に大口を叩けたものだ。私の動きが全く見えていないじゃないか」

不意打ちとは言え、真正面からの攻撃に対して防御行動を取るどころか反応すら出来ずまともに食らうとは。青年の不調が更に浮き彫りになる。
身体をくの字に折り曲げるゼクティスの肩を荒く鷲掴み、顔を此方へ向けさせる。

「いつまでも不貞腐れるな糞餓鬼!辛いのが自分だけだと思ってるんじゃあない!!」

「……あ?誰が不貞腐れてるって?」

あの戦いで誰もが傷付いた。そんな事など百も承知、億も承知だ。だからこそ己が成すべき事を遂げねばと躍起になっているのだ。自分以外何も犠牲にすること無く完全に、無欠で。
恐らくそれが、己に赦された唯一の報い。だが、エリザベートは強く首を横に振る。

「困るんだよ、お前がそんなんじゃあ。私は“あの娘”がこれ以上悲しむのは、見たくない」

「な──、」

名を出さずとも、互いに思い浮かべる人物は一致している。唐突に持ち出された存在に完全に不意を突かれたゼクティスは、明らかな動揺を見せる。言葉を詰まらせながらもぎこちなく言葉を紡ぎ出す。

「なんで……今“あいつ”が、出て来る」

かの少女、かの光使いの護衛役はとうに終わった。二人の間に繋がっていた縁は断ち切った。己はただの、地方都市のいち便利屋に戻ったのだ。もう自分とは、一切関わりの無い世界で生きる者のはずだ。

「お前がやらねばならんと思う事がある様に、あの娘にも遂げたいと願っている意志があるらしい。お前に対してな。
……折ってくれるなよ」

「……勝手な事、言いやがって」

噛み締めた奥歯が軋んで不快な音を鳴らした。握り締めた拳が震え、辛うじて絞り出したのは弱々しい悪態だった。汚泥の様な感情が渦巻く底で、それでも微かな光が灯るのを感じた。
あぁ、意識が回復したのか。良かった、と。それはほんの一握の、だが確かな安堵だった。
とうに縁を断ち切った者に対して、何故喜びが生まれるのか。断ち切るどころか固く縛られているのは未練か。ゼクティスは嘲るべき度し難さに目を伏せた。

「お互い様だ、この大馬鹿者」

ゼクティスの目から澱みが薄れたのを見て、エリザベートもまた安堵の混じった息を吐き出した。

「……黄泉域が腐蝕地帯として此方側に乗り上げ、簡易的な地獄門となっている。
しかし、そこに満ちる瘴気は人の干渉を阻む上に領域外にも拡がってゆく。そうだな?」

予め聞き及んでいた情報を改めて整理する為、エリザベートは己の記憶を反芻する。
ゼクティスは手袋の甲で滴る血を拭うと、疲れた様にベッドへ腰掛けた。

「あぁ、腐蝕地帯を退かせるにはその中の、黄泉域を引っ張って来れる程の自己領域能力を持った魔物を倒す必要がある。そいつは大抵深部に居て、俺は楔……アンカーって呼んでる」

「……もしかすると、あの軟体生物に似た巨大な魔物か」

「何だと?深部に進んでも居ねぇとは思ったが……あんな浅瀬に出たのか?」

領域の主を探すべくゼクティスはいつも通り深部へ進んだが、今回に限っては遭遇出来ていなかったのだと話す。乗り上げて来ているとはいえ腐蝕地帯は魔物の領域、内部の移動など自由自在だ。しかしその領域の主が容易く釣り出されて折角浮上させた黄泉域が沈んでしまっては意味が無い。原則的に奥底に留まっているのが常なのだが。
もしかすると、魔物の動きにまた新たな変化が起こっているのだろうか。眉間に皺を寄せて可能性を思案する。
だが、エリザベートには心当たりがあった。

「……もしかすると、レイが釣り出したのかも知れん」

「は?」

レイシェントは魔物化して姿を消したのではなかったのか。希望的観測にしては妙に冷静な呟きが尚のこと度し難かった。

「お前を眠らせた後、その……アンカーとやらに遭遇した私達はクルシュのレギオンや機銃を使って車輌内部から応戦したが力及ばず窮地に立たされた」

「……そうだな、上位の魔物は厄介な表皮を作りやがる。俺が殺る時も大抵は蒼洸で中から灼く」

腐蝕地帯の中で上位の魔物に挑む術は限られている。ある程度の武器を備えた軍用の装甲車でも時間稼ぎが関の山。どうやって難を逃れたというのか、ゼクティスは食い気味にエリザベートの言葉を待つ。

「魔物を屠ったのは、魔物だった。
姿は人型の魔物そのものだったが、あれはレイが魔物として暴走していた時の姿によく似ていた」

「ンな馬鹿な……」

「そいつはアンカーを屠ると直ぐに姿を消してしまった。……考えてみれば、奴が完全に魔物化しているとすれば黄泉域に潜っていたとしてもおかしくは無い」

アンカーを討った魔物の姿は車外カメラの記録映像にも残っていた。共に魔物態の姿を見ているユーリックに見せても、きっと同じ所感を抱くだろう。
画像としてプリントアウトした物をゼクティスへ差し出す。
大鎌を担いだ黒い影、異形のシルエットではあるものの、その佇まいは不思議とレイシェントの姿を想起させる。ゼクティスは知らず知らずに眉唾を飲み込んでいた。

「奴に人格や記憶が残っているかも判らんが……魔物になってもレイはレイ、なのだろう。あの中でお前ばかり戦っている訳じゃない」

「……」

共に戦っているのはクラレンスも同様だが、各々の目的は己自身の後始末や決着をつける事であり偶々討伐目標が同じと言うだけのこと。共有するのは情報のみで、互いの志など知る由もない。
ゼクティスの戦いは孤独の中にある、はずだったのだがそれすら思い上がりと言うのか。

「という事で、だ。本部へ報告を上げて軍の方からもお前のバックアップを行う様に交渉しているところだ。直接私の名を使っては通らんだろうし、体制が整うまでは時間が掛かるだろうが」

「……は?」

思わず間の抜けた声を上げるゼクティスにはお構い無しにエリザベートは説明を続けた。
軍の支援とは言っても実地に赴ける人物が限られている事に変わりは無い。恐らくは便利屋への調査依頼に対する活動費の援助や移動手段の補助が主になるだろうとの事だった。

「おい待て、何を勝手な……!」

「どうせ飯もろくに食っていないんだろう。鏡を見てみろ、酷い顔だぞ」

自分の世話も儘なっていない奴に反論する権利などくれてはやらないと、にべもなく遮った。
エリザベートは備え付けのデスクに行儀悪く腰を乗せると受話器を持ち上げ、宿の者へ食事の用意を言伝てる。

「……それに、これは個人の問題じゃない。本来なら我々が主体となって対応すべき事、何もしなければ軍の沽券に関わる。我々にも噛ませろ」

「……軍に戻った途端、ご立派な軍人様気取りかよ」

「気取るだと?言ってくれる。私は正真正銘、正義の味方──だッ」

ベッドに腰掛け、丁度良い位置にある黒い頭に拳を落としてやった。力一杯殴らずとも、コツさえ掴んでいれば充分な痛みを与える事は可能だ。
ゼクティスは声も無く頭を押さえ、力無くベッドに沈み転がった。こんな話になるなら腐蝕地帯でエリザベートを助けて早々に姿を眩ませておくべきだったかと、今更ながらに後悔した。

「ッつぅ……分かったよ、支援なりなんなり好きにしやがれ」

「それで結構」

「但し、俺は」と間髪入れずせめてもの我を通してやると目論んで口を挟もうと試みる。が、此方の眉間に人差し指を突き付けられ、無慈悲に遮られる。

「お前は以後勝手な行動はしてくれるなよ。取り敢えず数日中に腐蝕地帯調査の委任状を仮発行するからそれまでは動くな。身体を休めていろ。良いな」

「おいふざけんな!ンなの聞くと思って」

幾分険が和らいだなりに未だ青年は反抗的な態度を取る気でいるが、それは此方も承知の上。
その時、図っていたかの様にタイミング良くドアがノックされ、エリザベートが「入れ」と促す。
遠慮がちに入って来たのは、緑髪の少年──シージスだった。

「ええと、失礼します。ゼクトさんの見張りに来ました!」

「……っげ」

明らかに表情を苦めるゼクティスとは裏腹にシージスは、久し振りに言葉を交わせるのが嬉しいと混じりっけひとつ無い純な笑顔を見せた。

「覚悟して下さいゼクトさん、僕が来たからには絶対逃がしません!
因みに僕の隙を突けたとしても外にはクルシュのレギオンが控えてる。しっかり休んで貰いますよ!観念して下さい!」

「おぉ、頼もしいじゃないか。なぁゼクト?」

「だから、俺の話を……もう勘弁してくれ……」

エリザベート相手ならともかく、この少年相手に当たり散らすなど大恥だ。抵抗の気力も削がれたゼクティスはベッドに転がったまま、力無く顔を覆った。

─────

エリザベートより身勝手な行動は慎むよう厳命されたゼクティスであったが、街への外出は思いのほかあっさりと許された。但し、彼のみ武器の携行許可申請が出されていない上に見張り役としてシージスの同行が条件だった。それでも、ゼクティスがその気になればエリザベートらの手から逃がれる事は可能だろう。
その場合、第一関門であるシージスを撒くだけでも文字通りの意味も含め、骨を折る事になるだろうが。
ひとたびこの魔操士の標的となった際の容赦の無さは身を以て知っている。何より、己を逃したとなれば純真な少年は素直に自分自身を責めるだろう。此方が作った責で落ち込まれては、何と言うか、非常に後味が悪い。
つまるところ、シージスによる見張りは充分に拘束力を発揮していた。

新たな腐蝕地帯の座礁発生はどんなに早くとも約三日ほどの猶予がある。焦ったところでゼクティスも現状は動き様が無く、エリザベートが用意する委任状とやらの発行を待つには丁度良い余暇だった。

現在エリザベートらが駐留しているのは、聖都から北東に位置する派生都市ラトルス。訪れた事はあるが、街を見て回るのは初めてだった。

「──ってあれ、ゼクトさんってこの街に来た事があるんですか?」

「あぁ、レイと会った後にな。その後アルザラでカルミラ……駐留軍の連中に捕まって、レヴィアと一緒に聖都までしょっぴかれた。その時に寄ったのが此処だ」

立ち寄ったとは言え状況が状況である。しかも相手は傲岸不遜にして忠実なる軍の僕たるカルミラ・イングレンス、自由行動など許される訳がなかった。
派生都市内に幾つも流れる天然の川がこの街の特徴らしい。貴重な陽光を受けて煌めく川面は濁り少なく、養殖ではない天然の魚の影も見て取れる。
ゼクティスは川に掛かる橋の上で脚を止め、欄干に肘をついて身体を預けた。頭突きを食らった鼻頭に貼っている湿布の端が乾いたのか、痒みを感じて無意識に擦っている。

「あ〜……てっきり便利屋のお仕事かと……それは、大変でしたね」

「便利屋として請け負う仕事の範囲はジルバスから聖都までの間。それでも遠方まで広くやってた方だけど」

成り行きとは言え、思えば方々を渡ってきたものだ。観光をしていた訳では無いが、一つの都市から出ることも無く生涯を終える者も少なくないと思えば長大な歩みにも思える。然程月日を経てはいないが、既に懐かしくもあった。

「僕もゼクトさん達と会う前までは色んなところに行ったんですよ。古そうな街の遺構とか遺跡も見付けたし……まぁ、そこが一体何処なのかも判ってませんでしたが」

「行ったっつうか、彷徨ってたんだろ。よく生き延びて来れたよな」

「えっへへ」

天性の方向音痴話を話半分に聞き流しながらも、相変わらず暢気な笑いに気の抜けた溜息が洩れる。

「何でそんなに嬉しそうなんだよ」

「気付いてませんでしたか。ゼクトさん、ずっと恐ろしい顔をしてましたよ。でも話してるといつものゼクトさんで、根っこは変わらないままで安心しました」

シージスは人差し指を眉間に押し当て、此方の顔真似をして見せる。妙に再現性の高そうな不機嫌満面の澱み顔に『そんな顔してたか?』と怒る気も起きない。目に余るうらぶれ振りであったのはエリザベートの言葉からも既に明らかだ。

「人間も木も一緒。根が腐れちゃお終いだって、その通りだと思います。しっかり寝てご飯を食べたお陰ですね」

「ソレ、誰の言葉だ」

「……僕のおばあちゃんです。“僕ら”の生き字引で、厳しいけど優しい人でした」

今は亡き者を語るシージスの顔には寂情が滲んではいたが、笑顔は穏やかなもの。川面に目を遣りつつも「俺も同感だ」独り言ちの様に呟いた。

「ノクサスさんの元でお世話になる様になってから、おばあちゃんの声やふるさとの臭いが僕の中からどんどん消えいってしまっているのが判ります。
けど多分、僕の核になっているものはけして消えない」

「……焦るなって言いてぇのか?」

「う、うぅん?そう、かな……そうかも……?」

シージスとしては単に自身の心情を吐露したに過ぎないのだが。しかし目の前の青年の状況を顧みれば、かつての自分自身と重なる部分もある様に思えた。

「以前は復讐さえ出来ればもうどうなったって良いやって投げやりでしたが、今となっては踏み留まれて良かったと思ってます。
それに、そう聞こえたって事はゼクトさん自身がそう思ってるんじゃないですか?」

「……だろうな」

力づくではあるが休養を強いられ、思考の余白が生まれた今になってようやく気付いたのだ。自身の焦燥によってすっかり思考を焼かれていたことに。
冷静になって省みて、丸裸になった愚かさが我ながら痛ましく、重たげに頭を抱えた。

「お前に説教しておいてこの様じゃ、笑い話にもならねぇな」

「あはは、しょうがないですよ。僕だって気持ちは解りますし……って言うか、師匠もゼクトさんの側に居ながら放ったらかしなんて酷いなぁ」

「ん、師匠?」

聞き間違いでなければそう言ったはず。ぐったりと肩を落としていたゼクティスも弾かれた様に顔を上げ、目を丸めた。少なくとも此方の師を指したのでは無いだろうし、だとしてもこの少年が師と称する人物の存在など初耳だった。

「はい、クランさん。ゼクトさんと一緒に行動してるんでしょ?」

「『クランさん』ってクラレンスの事か?
そうだけど……あいつが師匠?お前の?何で?」

疑問符塗れのゼクティスの顔を見てようやく困惑を察したのか「あれ、話してませんでしたっけ?」と悪気無く小首を傾げる。

「あれは確か……第壱都市内の初巡回任務のお手伝いの時に助けて貰ったんです。で、都外警備班の方だって聞いて度々稽古をお願いしに行ってたんです。
僕が勝手に押し掛けてただけだけど」

「そんな面倒見の良い奴には見えねぇけど……へぇ、意外だな。つか、何であいつなんだ?」

稽古なら自分やレイシェントでも良かったのでは。方向音痴の少年が毎回都市外縁部まで向かった上に、気配の薄いあの男を探すのは苦労したのでは。

「教団内は人目に付き易いじゃないですか。ほら僕、外部の人間だし、魔操士だし。それに……」

「……それに?」

「かっこよかったんです……!僕を颯爽と助けてくれた師匠が……!!それにほら、同じ双剣使いだし!」

「え、あー……そう」

建前は色々あるにしろ、彼を慕うに当たって最大率を占める理由は実に判り易かった。
ゼクティス自身、あの男の戦闘技術は認めている。むしろそれ以外に好感を抱くところなど無いのだが、シージスくらいの年頃からすればクラレンスの様な歴戦の男というのは憧憬の対象に映り易いのかも知れない。

「師匠のお陰で気配を見分けるのも辿るのも凄く上手くなったんですよ!知ってる人なら半径十mくらいまで判るかな……って、噂をすれば」

「あ?」

シージスが振り返った視線の先を追って其方を見遣ると、今し方話題の中心人物として据えられていたクラレンスが姿を見せていた。
ゼクティスでも視界に捉えていなければ確信出来ないほどに朧気な存在感だと言うのに、よく気付いたものだ。少年の探知能力はとうに自分を飛び越えている事が判る。もしかすると魔操士由来の能力なのかも知れない。

「師匠ぉ〜!お久し」

「俺は弟子なんぞ取った憶えは無い。何度言えば解るこの緑小僧が」

「あう」

どうやらこの師弟関係はシージスからの片想いである様だ。半分想定内ではあったが、この男の存在が少年の成長を促しているのも事実だろう。
欄干から離れ、ついでに哀しげに落とされた少年の肩を叩いた。

「だろうと思った。
で、どうしたよ。わざわざツッコミ入れに来た訳じゃねぇんだろ」

「……導師の様子を見に行ったらお前を呼ぶよう頼まれた」

「あぁ、あんたはノクサスが雇い主になるんだったか」

ゼクティスの現雇われ先が聖都軍であるように、クラレンスの雇用先は教団──ノクサスの意向の元にある。魔物誘引剤である自分が軍に連れられて街に入れば、彼が外に居る理由は無い。ゼクティスが遭遇した軍が導師の輸送隊と知り、雇い主の安否確認に来ていたのだろう。

「言伝は伝えたぞ。……解っていると思うが、二日以上街に留まるなよ」

「分かってる。言われるまでもねぇよ」

直接街に現れずとも腐蝕地帯が街付近に座礁すれば、洩れ出す魔物や瘴気による被害が発生するだろう。クラレンスは用件だけ伝え終えると、また直ぐに立ち去るべく踵を返した。

「あ、ちょっと!もう行っちゃうんですか師匠!久し振りの稽古チャンス、逃しはしません!
僕は師匠を追いますのでゼクトさんは宿に戻って下さい!」

「おい待て!俺の見張りがお前の仕事だろうが!」

言うが早いか、虚像の様に姿を眩ませたクラレンスを追うべくシージスは全速力で駆け出していた。成程、ああやって気配探知の技術を磨いていったのか。妙な納得を得ながらゼクティスは溜息を吐き出した。
人の指示に従うばかりは癪だが、今更逃げる方が馬鹿馬鹿しい。ゼクティスは往路よりも幾分軽くなった足を宿へと向けた。

─────

宿に戻るとエントランスにて待機していたクルシュケイトに案内され、ノクサスが滞在する部屋に通された。導師が腰掛けるソファからテーブルを挟んで向かいのソファにゼクティスも腰を下ろした。

「あはは、それでシージス君は白鴉を追い駆けて行っちゃったと。元気だね」

「ったく、犬の散歩も満足に出来ないとか。また後で説教しなきゃじゃん」

「あぁ、って誰が犬だ。相変わらず口悪ぃなお前」

エリザベートが率いる輸送隊はごく少人数と言う事もあり、導師の客室はゼクティスの部屋の隣。然して広くもなく、貴人に宛てがうには余りに質素な部屋だが本人曰く『色んな物に手が届く広さで丁度いい』との事だった。
“眼”を使えば視界は開くが、日常生活レベルの事を一々眼に負荷をかけて機嫌を窺いながら行うなど煩わしい。盲目状態に慣れる方が早いと、ノクサスは少しずつ訓練も積んでいる様だ。常に共に居るクルシュケイトの補助もあり、不便は無さそうだ。

「君も、聞いていたより元気になったみたいで何よりだよ。さて、クルシュ」

「はいよ」

ゼクティスを呼んだ本題に入るべくノクサスは側仕えの少女へ顔を向けると、指示を口にするまでもなく動く。ノクサスが使用しているらしいベッドの下を探ると、子供の身長ほどもあるジュラルミンケースを引っ張り出した。
それを導師の脇に置くと、手探りにケースのロックを外す。やけに厳重な、と眺めていたが中から現れた物の正体に気付けば瞠目した。

「は……?おい待て、何であんたがソレを……月詠を持って来てんだ」

一瞬レプリカでは無いのかとも疑ったが、わざわざこの様に手の込んだ悪戯を仕込む意味は無い。
ケース内に収められた宝剣を食い入る様に見詰め、やはりかつてジェノブロウの元に返したそれと相違無いと認める。

「技術開発局の方で解析にかけてもこの剣を冒す“穢れ”を除く方法は掴めなかったそうで。歴史資料の調査も兼ねて此方の方で預かる事にしたんだよ」

無論、ジェノブロウとは争ったが聖都の中で施せる術が見付からないのであれば別の手段を取らざるを得ない。神器を預かっていると知っているのはこの場の三人とエリザベート含めた四人のみ。
内緒話をする様にノクサスは身を乗り出して屈め、声をひそめる。

「神話に則れば、月詠は一度深い穢れに冒されたもののまっさらな状態で人の手に降ろされている。そして神器を人の手にもたらしたのは初代導師ノクサス。ならきっと、うちに手掛かりが眠っているはずだ」

「それにあたし(死霊使い)が見た感じ、ホントに皇后様の魂が未だに入ってるかどうか疑わしいし」

「……それは解った。けどよ、何だって俺に伝える?」

無関係ではないものの自分が直接関わる案件では無いし、不用意に口外すべきでないのでは。考えあっての事とは承知の上、眼帯に覆われた導師の顔を見据えて怪訝に訊ねる。
だが、ゼクティスの反応が心底意外だったのか眼帯越しの目で此方を凝視して「あれ、解らない?」と頬を掻く。

「月詠が力を失っているこの状況下では此方と黄泉域は接続し放題な訳だ。勿論、座礁させるには引っ張って来れるだけの力を持つ魔物を用意する必要があるから無尽蔵にって訳にはいかないけど」

「あぁ、まぁそうなるか……」

「月詠の力が戻らない限りあちらさんはやりたい放題。その上、此方は君を含め数える程度の人間しか対応は出来ない。
あちらが圧倒的優位にあるって言うのに、わざわざ首魁が本気で君の相手をしに来てくれると思うかい?」

「それ、は……」

いくら魔物とはいえ人並みに知性を持った相手である。たかが因縁一つで易々と釣られてくれるなら苦労はしない。むしろ此方を嬲れるならばいくらでも焦らし、精神から摩耗させようと考えるだろう。先日前までのゼクティスがその通りであった様に。
座礁する腐蝕地帯を虱潰しにしていけばその内ネイエリエを炙り出せるだろうと思っていたのだが、またも露わになった己の見通しの甘さにゼクティスは閉口した。

「いやー、何ていうかさ……便利屋なりに一所懸命に考えてやってたんじゃね?」

「……何も言うな。更に惨めになるから」

ここまで来るといっそ哀れと言うか、クルシュケイトですら罵倒の一つも投げられなかった。
しょぼくれて落ち込むゼクティスの両肩を励ます様に、ノクサスは力強く二度叩いて今一度顔を上げさせる。
眼帯で目を隠してなお彼の表情は判り易いもので、困った顔で笑いながら首を横に振っていた。

「違う違う、ゼクティス君の行動が無駄だって言いたいんじゃないんだよ。むしろそのまま続けていて欲しいって頼みたいんだ」

「そりゃどう言う……」

「“俺たち”がどうにかして月詠の権限を復活させるまでの間、君には何としても時間稼ぎをしてもらわなくちゃいけない。
首魁が釣り出せないと判っていても、座礁して来る腐蝕地帯を放置する訳にはいかないからね。
……無茶を頼んでいるのは、承知の上だ」

闇雲であったかも知れないが、ゼクティスが懸命に戦ってきたこの一ヶ月間を無駄とは思わない。都市外で発生し始めた黄泉の座礁と言い、彼がもたらした詳細な情報は紛れも無く有意なもの。ノクサスの口元に浮かぶ笑みは青年への労いが込められていた。

「……いや、全く終わりが見えないって訳じゃねぇって判っただけでも充分だ。あいつの事は俺が止めるって端から決めてるしな。……任せてくれ」

「事が動けば此方からも連絡する。どうかそれまで、頼んだよ。くれぐれも気を付けて」

「今度は死体で再会とか、ちょっと気不味いしね」

ノクサスの肩越しに顔を出したクルシュケイトが揶揄混じりに付け足した。「ちょっと気不味い程度かよ」と言葉を返すが、すっかりいつもの調子に戻っている様にも思えた。
おもむろにノクサスは此方に寄って頭を下げる様にと軽く手招きする。訝しみながらもゼクティスは従うままにソファを寄せて頭を垂れると、その額に向けて閉じた掌を水平に差し向ける。

「邪気に向かうこの者の見出す道が堅き光に護られんことを。囲う氷牢無き事を、この者に思し召されませ」

静やかに守護の祝詞を唱えると差し向けていた掌を自身の顔の前に立て、沈黙の後に膝に下ろした。

「頑張る君に導師の祝福だ。サービスしておいてあげるよ」

「……どうも。しかし敬虔な信徒でもねぇのに効くもんかね」

祝福を受けるなど初めてのこと。ゼクティスは苦笑混じりにわざとらしく首を傾げて見せるが、聖職者らしく説法するでもなく「こう言うのは気持ちが大事なんだよ」とノクサスはごくシンプルな答えを返した。

気付けば陽はまた闇に呑まれていた。
話は終わり、また月詠が仕舞い込まれるのを見届けてゼクティスはソファから立ち上がる。

「一度繋がった縁はそう簡単には消せない。俺たちは未だ、繋がったままだ。どうか、努々忘れぬように」

「……分かった」

ゼクティスは小さく、だが確かな頷きを返して導師の部屋を後にした。

ゼクティスが次に目を覚ましたのは、全く見覚えの無いベッドの上だった。ゆっくりと視線を見巡らせると、素朴だが清潔感のある部屋の内装が見て取れた。
突然の意識の浮上により先程まで視ていたであろう夢の内容は記憶から全て溶け消えてしまったが、思い出すまでもなくきっとひどい夢だったのだろう。浮かんだ汗で顔に張り付く髪が鬱陶しい。自身の右手は胸の辺りの服を掴んだまま固まり、ろくに動かない左手は細かに震えていた。

「随分魘されていたな。悪い夢でも視ていたか?」

意識の外から声が投げ掛けられる。
部屋の入口の方からだろうか。其方を改めて見遣れば、濃紺の外套を纏う女軍人──エリザベートがドアに寄り掛かって立っていた。

「……忘れた。が、悪夢なんざほぼ毎日だ。大方境界と長いこと繋がってるせいだろうが……それより」

重い体をベッドから引き剥がして起き上がる。目覚めたばかりの身体は中々言う事を聞いてはくれないが、睡眠を取ったお陰で思考を阻害する靄は無い。
ゼクティスはエリザベートに向かって歩み寄ると、彼女が背を預けるドアに手をついて逃れよう無く追い詰める。

「てめぇ、俺に何をしやがった」

「くたびれた野良犬の有様が目に余ったもので、一服盛って保護してやったまでのこと。感謝されこそすれそんな目で睨まれる筋合いは無い」

獣じみた剥き出しの敵意を隠そうともせずにエリザベートに迫る。だが、エリザベートは飽くまでも冷徹に一切の動揺も無く答えた。それがゼクティスの沸き上がる憤怒を一層に煽る。

「俺がやらなきゃなんねぇってのは、あんたも解ってんだろうが!呑気に寝てる暇なんざ無ぇんだよ!」

「どうやらお前は知らないらしいが、人間というのは休息無しで活動出来るほど都合良く出来てはいない。
……らしくないな、いつも保守派のお前が無謀な下策をとるなど。あのまま活動を続けていたら、どうなっていた事か」

「……どうなろうと知った事かよ。あいつを引き摺り出して殺せりゃソレで、終いなんだ」

吐き捨てる様なゼクティスの台詞に、エリザベートは頭の中で何かが切れる音を聞いた。気が付いた時には丁度良い位置にある青年の胸ぐらを掴み、顔面目掛けて頭突きを入れていた。
ろくに反応も出来ずもろに食らったゼクティスは鼻頭を押さえ、大きくよろけてたたらを踏む。青年の手の内から血が流れていたのが見えたが、そんな事などお構い無し。今度は襟首を捕まえ、鳩尾目掛けて膝を突き入れた。

「なッ、に……しやが……!」

「本当はもう一発、その腑抜けた面に叩き込んでやりたいところだが右手が未だ治ってなくてな。
悪化させようものならミリア殿に叱られてしまう」

咳と呻き声の中から此方を睨み上げるゼクティスへ、エリザベートは冷ややかな眼差しで睥睨する。間欠泉の様に噴出した激昂を誤魔化す様に、口調は努めて悠々としていた。

「そんな様でよくも私に大口を叩けたものだ。私の動きが全く見えていないじゃないか」

不意打ちとは言え、真正面からの攻撃に対して防御行動を取るどころか反応すら出来ずまともに食らうとは。青年の不調が更に浮き彫りになる。
身体をくの字に折り曲げるゼクティスの肩を荒く鷲掴み、顔を此方へ向けさせる。

「いつまでも不貞腐れるな糞餓鬼!辛いのが自分だけだと思ってるんじゃあない!!」

「……あ?誰が不貞腐れてるって?」

あの戦いで誰もが傷付いた。そんな事など百も承知、億も承知だ。だからこそ己が成すべき事を遂げねばと躍起になっているのだ。自分以外何も犠牲にすること無く完全に、無欠で。
恐らくそれが、己に赦された唯一の報い。だが、エリザベートは強く首を横に振る。

「困るんだよ、お前がそんなんじゃあ。私は“あの娘”がこれ以上悲しむのは、見たくない」

「な──、」

名を出さずとも、互いに思い浮かべる人物は一致している。唐突に持ち出された存在に完全に不意を突かれたゼクティスは、明らかな動揺を見せる。言葉を詰まらせながらもぎこちなく言葉を紡ぎ出す。

「なんで……今“あいつ”が、出て来る」

かの少女、かの光使いの護衛役はとうに終わった。二人の間に繋がっていた縁は断ち切った。己はただの、地方都市のいち便利屋に戻ったのだ。もう自分とは、一切関わりの無い世界で生きる者のはず。
だと言うに、かの金髪の少女の顔が網膜の裏に浮かび上がる。最後に聖都で見たあの、屍人形の冷たい面立ちが。
細まる喉で閊える呼吸が、肺腑を締め上げる。

「お前がやらねばならんと思う事がある様に、あの娘にも遂げたいと願っている意志があるらしい。お前に対してな。
……折ってくれるなよ」

「俺なんかに、何があるって……っか、勝手な事、言いやがって」

噛み締めた奥歯が軋んで不快な音を鳴らした。握り締めた拳が震え、辛うじて絞り出したのは弱々しい悪態だった。汚泥の様な感情が渦巻く底で、それでも微かな光が灯るのを感じた。
あぁ、意識が回復したのか。良かった、と。それはほんの一握の、だが確かな安堵だった。
とうに縁を断ち切った者に対して、何故喜びが生まれるのか。断ち切るどころか固く縛られているのは未練か。ゼクティスは嘲るべき度し難さに目を伏せた。

「お互い様だ、この大馬鹿者」

ゼクティスの目から澱みが薄れたのを見て、エリザベートもまた安堵の混じった息を吐き出した。

「……黄泉域が腐蝕地帯として此方側に乗り上げ、簡易的な地獄門となっている。
しかし、そこに満ちる瘴気は人の干渉を阻む上に領域外にも拡がってゆく。そうだな?」

予め聞き及んでいた情報を改めて整理する為、エリザベートは己の記憶を反芻する。
ゼクティスは手袋の甲で滴る血を拭うと、疲れた様にベッドへ腰掛けた。

「あぁ、腐蝕地帯を退かせるにはその中の、黄泉域を引っ張って来れる程の自己領域能力を持った魔物を倒す必要がある。そいつは大抵深部に居て、俺は楔……アンカーって呼んでる」

「……もしかすると、あの軟体生物に似た巨大な魔物か」

「何だと?深部に進んでも居ねぇとは思ったが……あんな浅瀬に出たのか?」

領域の主を探すべくゼクティスはいつも通り深部へ進んだが、今回に限っては遭遇出来ていなかったのだと話す。乗り上げて来ているとはいえ腐蝕地帯は魔物の領域、内部の移動など自由自在だ。しかしその領域の主が容易く釣り出されて折角浮上させた黄泉域が沈んでしまっては意味が無い。原則的に奥底に留まっているのが常なのだが。
もしかすると、魔物の動きにまた新たな変化が起こっているのだろうか。眉間に皺を寄せて可能性を思案する。
だが、エリザベートには心当たりがあった。

「……もしかすると、レイが釣り出したのかも知れん」

「は?」

レイシェントは魔物化して姿を消したのではなかったのか。希望的観測にしては妙に冷静な呟きが尚のこと度し難かった。

「お前を眠らせた後、その……アンカーとやらに遭遇した私達はクルシュのレギオンや機銃を使って車輌内部から応戦したが力及ばず窮地に立たされた」

「……そうだな、上位の魔物は厄介な表皮を作りやがる。俺が殺る時も大抵は蒼洸で中から灼く」

腐蝕地帯の中で上位の魔物に挑む術は限られている。ある程度の武器を備えた軍用の装甲車でも時間稼ぎが関の山。どうやって難を逃れたというのか、ゼクティスは食い気味にエリザベートの言葉を待つ。

「魔物を屠ったのは、魔物だった。
姿は人型の魔物そのものだったが、あれはレイが魔物として暴走していた時の姿によく似ていた」

「ンな馬鹿な……」

「そいつはアンカーを屠ると直ぐに姿を消してしまった。……考えてみれば、奴が完全に魔物化しているとすれば黄泉域に潜っていたとしてもおかしくは無い」

アンカーを討った魔物の姿は車外カメラの記録映像にも残っていた。共に魔物態の姿を見ているユーリックに見せても、きっと同じ所感を抱くだろう。
画像としてプリントアウトした物をゼクティスへ差し出す。
大鎌を担いだ黒い影、異形のシルエットではあるものの、その佇まいは不思議とレイシェントの姿を想起させる。ゼクティスは知らず知らずに眉唾を飲み込んでいた。

「奴に人格や記憶が残っているかも判らんが……魔物になってもレイはレイ、なのだろう。あの中でお前ばかり戦っている訳じゃない」

「……」

共に戦っているのはクラレンスも同様だが、各々の目的は己自身の後始末や決着をつける事であり偶々討伐目標が同じと言うだけのこと。共有するのは情報のみで、互いの志など知る由もない。
ゼクティスの戦いは孤独の中にある、はずだったのだがそれすら思い上がりと言うのか。

「という事で、だ。本部へ報告を上げて軍の方からもお前のバックアップを行う様に交渉しているところだ。直接私の名を使っては通らんだろうし、体制が整うまでは時間が掛かるだろうが」

「……は?」

思わず間の抜けた声を上げるゼクティスにはお構い無しにエリザベートは説明を続けた。
軍の支援とは言っても実地に赴ける人物が限られている事に変わりは無い。恐らくは便利屋への調査依頼に対する活動費の援助や移動手段の補助が主になるだろうとの事だった。

「おい待て、何を勝手な……!」

「どうせ飯もろくに食っていないんだろう。鏡を見てみろ、酷い顔だぞ」

自分の世話も儘なっていない奴に反論する権利などくれてはやらないと、にべもなく遮った。
エリザベートは備え付けのデスクに行儀悪く腰を乗せると受話器を持ち上げ、宿の者へ食事の用意を言伝てる。

「……それに、これは個人の問題じゃない。本来なら我々が主体となって対応すべき事、何もしなければ軍の沽券に関わる。我々にも噛ませろ」

「……軍に戻った途端、ご立派な軍人様気取りかよ」

「気取るだと?言ってくれる。私は正真正銘、正義の味方──だッ」

ベッドに腰掛け、丁度良い位置にある黒い頭に拳を落としてやった。力一杯殴らずとも、コツさえ掴んでいれば充分な痛みを与える事は可能だ。
ゼクティスは声も無く頭を押さえ、力無くベッドに沈み転がった。こんな話になるなら腐蝕地帯でエリザベートを助けて早々に姿を眩ませておくべきだったかと、今更ながらに後悔した。

「ッつぅ……分かったよ、支援なりなんなり好きにしやがれ」

「それで結構」

「但し、俺は」と間髪入れずせめてもの我を通してやると目論んで口を挟もうと試みる。が、此方の眉間に人差し指を突き付けられ、無慈悲に遮られる。

「お前は以後勝手な行動はしてくれるなよ。取り敢えず数日中に腐蝕地帯調査の委任状を仮発行するからそれまでは動くな。身体を休めていろ。良いな」

「おいふざけんな!ンなの聞くと思って」

幾分険が和らいだなりに未だ青年は反抗的な態度を取る気でいるが、それは此方も承知の上。
その時、図っていたかの様にタイミング良くドアがノックされ、エリザベートが「入れ」と促す。
遠慮がちに入って来たのは、緑髪の少年──シージスだった。

「ええと、失礼します。ゼクトさんの見張りに来ました!」

「……っげ」

明らかに表情を苦めるゼクティスとは裏腹にシージスは、久し振りに言葉を交わせるのが嬉しいと混じりっけひとつ無い純な笑顔を見せた。

「覚悟して下さいゼクトさん、僕が来たからには絶対逃がしません!
因みに僕の隙を突けたとしても外にはクルシュのレギオンが控えてる。しっかり休んで貰いますよ!観念して下さい!」

「おぉ、頼もしいじゃないか。なぁゼクト?」

「だから、俺の話を……もう勘弁してくれ……」

エリザベート相手ならともかく、この少年相手に当たり散らすなど大恥だ。抵抗の気力も削がれたゼクティスはベッドに転がったまま、力無く顔を覆った。

─────

エリザベートより身勝手な行動は慎むよう厳命されたゼクティスであったが、街への外出は思いのほかあっさりと許された。但し、彼のみ武器の携行許可申請が出されていない上に見張り役としてシージスの同行が条件だった。それでも、ゼクティスがその気になればエリザベートらの手から逃がれる事は可能だろう。
その場合、第一関門であるシージスを撒くだけでも文字通りの意味も含め、骨を折る事になるだろうが。
ひとたびこの魔操士の標的となった際の容赦の無さは身を以て知っている。何より、己を逃したとなれば純真な少年は素直に自分自身を責めるだろう。此方が作った責で落ち込まれては、何と言うか、非常に後味が悪い。
つまるところ、シージスによる見張りは充分に拘束力を発揮していた。

新たな腐蝕地帯の座礁発生はどんなに早くとも約三日ほどの猶予がある。焦ったところでゼクティスも現状は動き様が無く、エリザベートが用意する委任状とやらの発行を待つには丁度良い余暇だった。

現在エリザベートらが駐留しているのは、聖都から北東に位置する派生都市ラトルス。訪れた事はあるが、街を見て回るのは初めてだった。

「──ってあれ、ゼクトさんってこの街に来た事があるんですか?」

「あぁ、レイと会った後にな。その後アルザラでカルミラ……駐留軍の連中に捕まって、レヴィアと一緒に聖都までしょっぴかれた。その時に寄ったのが此処だ」

立ち寄ったとは言え状況が状況である。しかも相手は傲岸不遜にして忠実なる軍の僕たるカルミラ・イングレンス、自由行動など許される訳がなかった。
派生都市内に幾つも流れる天然の川がこの街の特徴らしい。貴重な陽光を受けて煌めく川面は濁り少なく、養殖ではない天然の魚の影も見て取れる。
ゼクティスは川に掛かる橋の上で脚を止め、欄干に肘をついて身体を預けた。頭突きを食らった鼻頭に貼っている湿布の端が乾いたのか、痒みを感じて無意識に擦っている。

「あ〜……てっきり便利屋のお仕事かと……それは、大変でしたね」

「便利屋として請け負う仕事の範囲はジルバスから聖都までの間。それでも遠方まで広くやってた方だけど」

成り行きとは言え、思えば方々を渡ってきたものだ。観光をしていた訳では無いが、一つの都市から出ることも無く生涯を終える者も少なくないと思えば長大な歩みにも思える。然程月日を経てはいないが、既に懐かしくもあった。

「僕もゼクトさん達と会う前までは色んなところに行ったんですよ。古そうな街の遺構とか遺跡も見付けたし……まぁ、そこが一体何処なのかも判ってませんでしたが」

「行ったっつうか、彷徨ってたんだろ。よく生き延びて来れたよな」

「えっへへ」

天性の方向音痴話を話半分に聞き流しながらも、相変わらず暢気な笑いに気の抜けた溜息が洩れる。

「何でそんなに嬉しそうなんだよ」

「気付いてませんでしたか。ゼクトさん、ずっと恐ろしい顔をしていましたよ。でも話してるといつものゼクトさんだし、根っこは変わらないままで安心しました」

シージスは人差し指を眉間に押し当て、此方の顔真似をして見せる。妙に再現性の高そうな不機嫌満面の澱み顔に『そんな顔してたか?』と怒る気も起きない。目に余るうらぶれ振りであったのはエリザベートの言葉からも既に明らかだ。

「人間も木も一緒。根が腐れちゃお終いだって、その通りだと思います。しっかり寝てご飯を食べたお陰ですね」

「ソレ、誰の言葉だ」

「……僕のおばあちゃんです。“僕ら”の生き字引で、厳しいけど優しい人でした」

今は亡き者を語るシージスの顔には寂情が滲んではいたが、笑顔は穏やかなもの。川面に目を遣りつつも「俺も同感だ」独り言ちの様に呟いた。

「ノクサスさんの元でお世話になる様になってから、おばあちゃんの声やふるさとの臭いが僕の中からどんどん消えいってしまっているのが判ります。
けど多分、僕の核になっているものはけして消えない」

「……焦るなって言いてぇのか?」

「う、うぅん?そう、かな……そうかも……?」

シージスとしては単に自身の心情を吐露したに過ぎないのだが。しかし目の前の青年の状況を顧みれば、かつての自分自身と重なる部分もある様に思えた。

「以前は復讐さえ出来ればもうどうなったって良いやって投げやりでしたが、今となっては踏み留まれて良かったと思ってます。
それに、そう聞こえたって事はゼクトさん自身がそう思ってるんじゃないですか?」

「……だろうな」

力づくではあるが休養を強いられ、思考の余白が生まれた今になってようやく気付いたのだ。自身の焦燥によってすっかり思考を焼かれていたことに。
冷静になって省みて、丸裸になった愚かさが我ながら痛ましく、重たげに頭を抱えた。

「お前に説教しておいてこの様じゃ、笑い話にもならねぇな」

「あはは、しょうがないですよ。僕だって気持ちは解りますし……って言うか、師匠もゼクトさんの側に居ながら放ったらかしなんて酷いなぁ」

「ん、師匠?」

聞き間違いでなければそう言ったはず。ぐったりと肩を落としていたゼクティスも弾かれた様に顔を上げ、目を丸めた。少なくとも此方の師を指したのでは無いだろうし、だとしてもこの少年が師と称する人物の存在など初耳だった。

「はい、クランさん。ゼクトさんと一緒に行動してるんでしょ?」

「『クランさん』ってクラレンスの事か?
そうだけど……あいつが師匠?お前の?何で?」

疑問符塗れのゼクティスの顔を見てようやく困惑を察したのか「あれ、話してませんでしたっけ?」と悪気無く小首を傾げる。

「あれは確か……第壱都市内の初巡回任務のお手伝いの時に助けて貰ったんです。で、都外警備班の方だって聞いて度々稽古をお願いしに行ってたんです。
僕が勝手に押し掛けてただけだけど」

「そんな面倒見の良い奴には見えねぇけど……へぇ、意外だな。つか、何であいつなんだ?」

稽古なら自分やレイシェントでも良かったのでは。方向音痴の少年が毎回都市外縁部まで向かった上に、気配の薄いあの男を探すのは苦労したのでは。

「教団内は人目に付き易いじゃないですか。ほら僕、外部の人間だし、魔操士だし。それに……」

「……それに?」

「かっこよかったんです……!僕を颯爽と助けてくれた師匠が……!!それにほら、同じ双剣使いだし!」

「え、あー……そう」

建前は色々あるにしろ、彼を慕うに当たって最大率を占める理由は実に判り易かった。
ゼクティス自身、あの男の戦闘技術は認めている。むしろそれ以外に好感を抱くところなど無いのだが、シージスくらいの年頃からすればクラレンスの様な歴戦の男というのは憧憬の対象に映り易いのかも知れない。

「師匠のお陰で気配を見分けるのも辿るのも凄く上手くなったんですよ!知ってる人なら半径十mくらいまで判るかな……って、噂をすれば」

「あ?」

シージスが振り返った視線の先を追って其方を見遣ると、今し方話題の中心人物として据えられていたクラレンスが姿を見せていた。
ゼクティスでも視界に捉えていなければ確信出来ないほどに朧気な存在感だと言うのに、よく気付いたものだ。少年の探知能力はとうに自分を飛び越えている事が判る。もしかすると魔操士由来の能力なのかも知れない。

「師匠ぉ〜!お久し」

「俺は弟子なんぞ取った憶えは無い。何度言えば解るこの緑小僧が」

「あう」

どうやらこの師弟関係はシージスからの片想いである様だ。半分想定内ではあったが、この男の存在が少年の成長を促しているのも事実だろう。
欄干から離れ、ついでに哀しげに落とされた少年の肩を叩いた。

「だろうと思った。
で、どうしたよ。わざわざツッコミ入れに来た訳じゃねぇんだろ」

「……導師の様子を見に行ったらお前を呼ぶよう頼まれた」

「あぁ、あんたはノクサスが雇い主になるんだったか」

ゼクティスの現雇われ先が聖都軍であるように、クラレンスの雇用先は教団──ノクサスの意向の元にある。魔物誘引剤である自分が軍に連れられて街に入れば、彼が外に居る理由は無い。ゼクティスが遭遇した軍が導師の輸送隊と知り、雇い主の安否確認に来ていたのだろう。

「言伝は伝えたぞ。……解っていると思うが、二日以上街に留まるな」

「分かってる。言われるまでもねぇよ」

直接街に現れずとも腐蝕地帯が街付近に座礁すれば、洩れ出す魔物や瘴気による被害が発生するだろう。クラレンスは用件だけ伝え終えると、また直ぐに立ち去るべく踵を返した。

「あ、ちょっと!もう行っちゃうんですか師匠!久し振りの稽古チャンス、逃しはしません!
僕は師匠を追いますのでゼクトさんは宿に戻って下さい!」

「おい待て!俺の見張りがお前の仕事だろうが!」

言うが早いか、虚像の様に姿を眩ませたクラレンスを追うべくシージスは全速力で駆け出していた。成程、ああやって気配探知の技術を磨いていったのか。妙な納得を得ながらゼクティスは溜息を吐き出した。
人の指示に従うばかりは癪だが、今更逃げる方が馬鹿馬鹿しい。ゼクティスは往路よりも幾分軽くなった足を宿へと向けた。

─────

宿に戻るとエントランスにて待機していたクルシュケイトに案内され、ノクサスが滞在する部屋に通された。導師が腰掛けるソファからテーブルを挟んで向かいのソファにゼクティスも腰を下ろした。

「あはは、それでシージス君は白鴉を追い駆けて行っちゃったと。元気だね」

「ったく、犬の散歩も満足に出来ないとか。また後で説教しなきゃじゃん」

「あぁ、って誰が犬だ。相変わらず口悪ぃのな、お前」

エリザベートが率いる輸送隊はごく少人数と言う事もあり、導師の客室はゼクティスの部屋の隣。然して広くもなく、貴人に宛てがうには余りに質素な部屋だが本人曰く『色んな物に手が届く広さで丁度いい』との事だった。
“眼”を使えば視界は開くが、日常生活レベルの事を一々眼に負荷をかけて機嫌を窺いながら行うなど煩わしい。盲目状態に慣れる方が早いと、ノクサスは少しずつ訓練も積んでいる様だ。常に共に居るクルシュケイトの補助もあり、不便は無さそうだ。

「君も、聞いていたより元気になったみたいで何よりだよ。さて、クルシュ」

「はいよ」

ゼクティスを呼んだ本題に入るべくノクサスは側仕えの少女へ顔を向けると、指示を口にするまでもなく動く。ノクサスが使用しているらしいベッドの下を探ると、子供の身長ほどもあるジュラルミンケースを引っ張り出した。
それを導師の脇に置くと、手探りにケースのロックを外す。やけに厳重な、と眺めていたが中から現れた物の正体に気付けば瞠目した。

「は……?おい待て、何であんたがソレを……月詠を持って来てんだ」

一瞬レプリカでは無いのかとも疑ったが、わざわざこの様に手の込んだ悪戯を仕込む意味は無い。
ケース内に収められた宝剣を食い入る様に見詰め、やはりかつてジェノブロウの元に返したそれと相違無いと認める。

「技術開発局の方で解析にかけてもこの剣を冒す“穢れ”を除く方法は掴めなかったそうで。歴史資料の調査も兼ねて此方の方で預かる事にしたんだよ」

無論、ジェノブロウとは争ったが聖都の中で施せる術が見付からないのであれば別の手段を取らざるを得ない。神器を預かっていると知っているのはこの場の三人とエリザベート含めた四人のみ。
内緒話をする様にノクサスは身を乗り出して屈め、声をひそめる。

「神話に則れば、月詠は一度深い穢れに冒されたもののまっさらな状態で人の手に降ろされている。そして神器を人の手にもたらしたのは初代導師ノクサス。ならきっと、うちに手掛かりが眠っているはずだ」

「それにあたし(死霊使い)が見た感じ、ホントに皇后様の魂が未だに入ってるかどうか疑わしいし」

「……それは解った。けどよ、何だって俺に伝える?」

無関係ではないものの自分が直接関わる案件では無いし、不用意に口外すべきでないのでは。考えあっての事とは承知の上、眼帯に覆われた導師の顔を見据えて怪訝に訊ねる。
だが、ゼクティスの反応が心底意外だったのか眼帯越しの目で此方を凝視して「あれ、解らない?」と頬を掻く。

「月詠が力を失っているこの状況下では此方と黄泉域は接続し放題な訳だ。勿論、座礁させるには引っ張って来れるだけの力を持つ魔物を用意する必要があるから無尽蔵にって訳にはいかないけど」

「あぁ、まぁそうなるか……」

「月詠の力が戻らない限りあちらさんはやりたい放題。その上、此方は君を含め数える程度の人間しか対応は出来ない。
あちらが圧倒的優位にあるって言うのに、わざわざ首魁が本気で君の相手をしに来てくれると思うかい?」

「それ、は……」

いくら魔物とはいえ人並みに知性を持った相手である。たかが因縁一つで易々と釣られてくれるなら苦労はしない。むしろ此方を嬲れるならばいくらでも焦らし、精神から摩耗させようと考えるだろう。先日前までのゼクティスがその通りであった様に。
座礁する腐蝕地帯を虱潰しにしていけばその内ネイエリエを炙り出せるだろうと思っていたのだが、またも露わになった己の見通しの甘さにゼクティスは閉口した。

「いやー、何ていうかさ……便利屋なりに一所懸命に考えてやってたんじゃね?」

「……何も言うな。更に惨めになるから」

ここまで来るといっそ哀れと言うか、クルシュケイトですら罵倒の一つも投げられなかった。
しょぼくれて落ち込むゼクティスの両肩を励ます様に、ノクサスは力強く二度叩いて今一度顔を上げさせる。
眼帯で両目を隠してなお彼の表情は判り易いもので、困った顔で笑いながら首を横に振っていた。

「違う違う、ゼクティス君の行動が無駄だって言いたいんじゃないんだよ。むしろそのまま続けていて欲しいって頼みたいんだ」

「そりゃどう言う……」

「“俺たち”がどうにかして月詠の権限を復活させるまでの間、君には何としても時間稼ぎをしてもらわなくちゃいけない。
首魁が釣り出せないと判っていても、座礁して来る腐蝕地帯を放置する訳にはいかないからね。
……無茶を頼んでいるのは、承知の上だ」

闇雲であったかも知れないが、ゼクティスが懸命に戦ってきたこの一ヶ月間を無駄とは思わない。都市外で発生し始めた黄泉の座礁と言い、彼がもたらした詳細な情報は紛れも無く有意なもの。ノクサスの口元に浮かぶ笑みは青年への労いが込められていた。

「……いや、全く終わりが見えないって訳じゃねぇって判っただけでも充分だ。あいつの事は俺が止めるって端から決めてるしな。……任せてくれ」

「事が動けば此方からも連絡する。どうかそれまで、頼んだよ。くれぐれも気を付けて」

「今度は死体で再会とか、ちょっと気不味いしね」

ノクサスの肩越しに顔を出したクルシュケイトが揶揄混じりに付け足した。「ちょっと気不味い程度かよ」と言葉を返すが、すっかりいつもの調子に戻っている様にも思えた。
おもむろにノクサスは此方に寄って頭を下げる様にと軽く手招きする。訝しみながらもゼクティスは従うままにソファを寄せて頭を垂れると、その額に向けて閉じた掌を水平に差し向ける。

「混沌深き邪気に向かうこの者の見出す道が、堅き光華に護られんことを。囲う氷牢無き事を、この者に思し召されませ」

静やかに守護の祝詞を唱えると差し向けていた掌を自身の顔の前に立て、沈黙の後に膝に下ろした。

「頑張る君に導師の祝福だ。サービスしておいてあげるよ」

「……どうも。しかし、敬虔な信徒でもねぇのに効くもんかね」

祝福を受けるなど初めてのこと。ゼクティスは苦笑混じりにわざとらしく首を傾げて見せるが、聖職者らしく説法するでもなく「こう言うのは気持ちが大事なんだよ」とノクサスはごくシンプルな答えを返した。

気付けば陽はまた闇に呑まれていた。
話は終わり、また月詠が厳重に仕舞い込まれるのを見届けてゼクティスはソファから立ち上がる。

「一度繋がった縁はそう簡単には消せない。俺たちは未だ、繋がったままだ。どうか、努々忘れぬように」

「……分かった」

ゼクティスは小さく、だが確かな頷きを返して導師の部屋を後にした。