08

「それじゃあ、また当分は戻って来れないんですね」

「あぁ、“特務准将”として任を賜ったからには働きを以て応えねばならない。済まないな、お前には心細い思いをさせてしまう」

心からの謝意を込めて眉尻を下げるのは幼馴染たる女軍人──エリザベートだ。
詫びる台詞とは裏腹に一か月前に話した時よりも声色は明るさを取り戻している様に思え、レヴィアはゆるやかに安堵の笑みを浮かべた。

「いえ、大変なのはエリザの方です。やっと帰って来たのにまた直ぐ出立なんて……。
でも、聖都と第壱都市を繋ぐなんてすごく大事な役目ですし。私の事は心配しないでください。ミリアさん達も凄く良くしてくれていますから」

「……そうか、そうだな。お前も順調に回復している様で嬉しいよ。こんなに早く声が聞ける様になるなんて驚いた」

レヴィアと並んでベッドに腰掛けたエリザベートは、少女の頭から爪先までを視線でなぞる。髪は誰にやってもらったのか左側に編み込みを作られ、使い込まれた薄紅のリボンがひらりと揺れている。分け目を作られた前髪は少女の輪廓を少しだけ大人びて見せていた。
そして服装は治療の為の病院着ではなく、真新しい私服。病室を出る準備は万端に整えられていた。

最初にレヴィアの意識が戻って早ひと月。
さすがは聖都の医療技術と評すべきか。失われた左腕は已む無しにしろ、イルミリアらの手厚い手当により身に負った外傷や内部の損傷は順調に、むしろ驚くべき早さで回復しつつあった。
但し肩から脇腹に掛けて斬られた傷はうっすらと残ってしまったが、光使いの力で塞がれていなければ致命傷に至るもの。綺麗に塞がっただけでも驚異的だ。とは言え、瘴気に侵された身体へのダメージは根深く、完治とは言い難い。
電磁網を被った様に全身に重く纏わりつく痺れや幻肢痛から解放されるには今しばらくの時間が掛かるだろう。

「……まだまだこれから、ですけどね。
私も頑張りますから、エリザも頑張って。それと……」

口にしようとしてつい躊躇ってしまい、瞳が揺れる。だが、取り落とした言葉尻を掴み直し喉奥から引き出した。

「その、ゼクトのこと、有難うございます。エリザが助けてくれてるって聞いて安心しました」

「奴からではなくお前から礼を言われるとはな」

「……そっか。意地っ張りなところ、変わってないんですね」

心底からの安堵と喜びで覆い隠しているつもりなのろうが、紫瞳の奥には寂しさの尾が覗いていた。幼馴染たる少女の気持ちは理解しているつもり。エリザベートは苦笑を滲ませる。

「常に無茶な突っ走り方をする奴の首根っこを追い駆けて捕まえるのは難儀する……。言いたいことがあるなら次に会った時にでも伝えておくが?」

エリザベートの申し出に「いいえ」とレヴィアは静かに首を横に振る。

「今の私じゃ、ほんとに足手まといになっちゃいますから」

伝えたいこと、言わなければならないことは山ほどある。だが、立って歩くことがやっとの自分の存在は青年の支えになどなりはせず、いたずらに気を割かせてしまうばかりだろう。例え当人が傍に居なくとも。
今、彼が思い遣るべきは自分などではない。

「大丈夫です。言いたいことは……、ちゃんと伝えに行きます。私自身の力でゼクトの元に辿り着ける様になったら」

思いは今にも溢れんばかりに募らせるものの、その先頭にあるのは彼を傷付けた事への贖罪。これは自分自身の手で払拭しなければならないものであり、これを差し置いて何も進めはしない。握り締めた手は微かに震え、胸に押し当てられている。それでもレヴィアは『大丈夫』だと笑みを絶やしはしなかった。

「そうか」

エリザベートは応え、小さく頷いた。これ以上の口出しは不要だろうと。
エリザベートはおもむろに立ち上がり、窓に近付く。外を見遣れば急速に元の姿を取り戻しつつある聖都の風景が広がっている。多くのものを失った事実に変わりは無く、未だ夜に支配されたままであるが、それでも中枢都市としての栄光に輝く日は必ず訪れる。誰しもが前を向くことさえ諦めなければ。
時計を確認すれば、出立の時間が刻々と迫りつつあると気付いて嘆息した。エリザベートははたと何事か思い出したかのようにレヴィアを振り返り、懐を探る。

「済まない、大事な物を忘れるところだった。此処で暮らす上で必要なお前の住民登録証だ、無くすなよ」

手渡された真新しい手帖を開くと、そこにはレヴィアの顔写真の入ったIDカード。その名前の欄には『Revia・Ⅹ・Endulance』と刻まれていた。
職務をこなしつつ、聖都に戻って来た合間を縫って一連の手続きを済ませるのは骨が折れたろうが、軍附属の病院を出る日に間に合わせる様にエリザベートは見事に全て終わらせていたらしい。
今朝、久し振りに病室を訪れたエリザベートからこの一件を聞いた時には驚いたが「こんなに喜ばしい仕事が捗らないはずが無い」と答えた時の嬉々とした表情を思い返して微笑んだ。

この話に至るには、エリザベートが導師護送の任を受ける前まで時を遡る。
人柱として本来担うべきであった役割を無くしたレヴィアのその後の処遇について、最早軍の上層もとやかく口出ししてくる事は無かった。
光使いとして持ち得た優れた戦力を利用しない事を惜しむ声もあった様だが、理に反した光使いの存在が一般に露呈させれば軍への不要な反発を生む事になる。復興途上の聖都の中で、無用な争いの火種など望ましく無い。
しかし一番に危惧すべきは、今回の一件を引き起こした一番の要因がレヴィアにあると考える者が居ると言う事。難癖じみているとは思うが、それは誤解でも間違いでも無く、むしろ道理とも言える。レヴィアが本来の役割に従って人柱となっていれば、数多の犠牲は生まれなかったと言われれば否定は出来ない。
聖都の再建計画の議論に際して幾度と無く開かれた会議にて『今回の件に関して負うべき責任と、その力の危険性を省みても早急に処分すべき』と言う意見が出たのだ。
どこからともなく話を聞き付けたエリザベートの強い反論が無ければそのまま承諾されていてもおかしくはなかった。彼女自身、どうせ処分されるのだと形振り構わず捨て鉢の反抗であった。だと言うのに、己の発言が通ったことに驚きを隠せなかった。
そして後々、彼女をまた軍に引き戻そうとカーライルが必死に手を回していた事を知るに至った訳だが。
それに加え、レヴィアの処遇に関しては意外な方面からの助け船もあったらしい。
技術開発部の代表として当然ながら会議に居合わせたユーリックが『能力を危険視するならそれを押さえ込む術は有る。手元に置いておきたいなら御し易い者の監視下に置けば良いのでは?』と提案したのだ。まるで“隅から隅まで事情を知り尽くした他人”の様な口振りで。
制作者である本人が身元の引き受けに名乗りを上げず、傍観の立場を示した。それ即ち『光使いに利用価値は残っていない』と言っている様なもの。
以後は反論する者も無く、そのままレヴィアの処遇はその通りに決定された。

エリザベートの監視下とは言うものの、その実生活をする上で特別な制約や禁則事項などはほとんど無い。但し未成年が親権者も無しに聖都に居住権を得る事は出来ない為、エリザベートの養子として扶養下に入り聖都に留まることになったのだ。
因みに、この聖都を始め主要都市に居住権を得られればその居住権は附属の派生都市でも有効となる。

「“レヴィア・セイン・エンデュランス”……って何だか不思議な感じです」

元より家族も同然の幼馴染みではあるが、エリザベートと同姓になるというのは何とも不思議な気分だと、新しい名前を読み上げながらレヴィアは照れたようにはにかんだ。そもそも同姓の者が居ると言う経験自体、今までに無かったのだ。

「私も最初はそうだった。なに、じきに慣れるさ」

そして、それはかつてのエリザベートも同じであった。かつて少年兵として戦場を渡った過去は生家の名を彼女から剥ぎ取った。それまで使っていた“エリス”と言うファーストネームも“エリザ”と改め、エンデュランスの家に養子に入るに当たって格式と共に得た名が“エリザベート・エンデュランス”であったのだ。
再び孤児院の様な施設で縁の無い者と暮らす可能性もあった事を考えれば気心の知れたエリザベートと家族となれるのはレヴィアとて嬉しいことこの上無い。しかし、気になることが一つ。

「……あの、ほんとにエリザのお家に御挨拶には行かなくて良いんですか?名前を使わせて貰うのに」

「あー……良い、と言うか行けない。無理だ」と即座に首を横に振る。眉間に皺を寄せ、首筋を掻いて口ごもらせながらも続ける。

「養子に引き取られて間も無くに士官学校に入ったせいで養父母とは話をすることもほとんど無くてな……。学校の休暇もお前に会いにサラトガに行ったりしていたし、軍に入ったら忙しくて実家になんか帰れやしない。
それでますます疎遠になったところで軍の離反なんてのをやらかしたんだ」

エリザベートの離反は秘匿事項として軍関係者でも知り得ない者が多いが、流石に本人の実家となれば捜査が及ばない訳も無く。大きな家でないとは言え、厳格な軍門であることに変わりはない。となれば後の想像は容易いだろう。
迷惑を被らせ、恩を仇で返したまま軍に戻れはしない。筋を通しておかねばと家に戻ったものの、エリザベートでさえ震撼する雷が落ちてきたのだった。
しかしながら『当分敷居を跨ぐな』とは言われたが、何故勘当されなかったのか不思議なほど。エリザベートは遥か彼方の遠くを見詰め、長い長い溜め息を吐いた。

「あの家の人達は薄情だとか人でなしとか、そう言う訳じゃない。むしろその逆ではあるんだよ」

咎められたのは軍に離反したからではなく、正道を放棄した為。安易な道を選び、人の規範となるべき理性を捨てて自ら秩序を乱した為だ。

「という訳で、今は非常にまずい。お前が悪い訳じゃ無いんだが……お前が今顔を出せば火に油を注ぐようなものだ。それだけは避けたい」

エリザベートが勘当されなかったのは養父母のせめてもの情けであり、彼女の行動に理解を示そうする歩み寄りの表れだろう。今、要らぬ波風を立てるのは利口ではない。
とにかく、当分はエリザベートの実家には近付けそうには無いらしい。

「全ては私自身が決めて私がやった行いだ。悔いてはいない……が、本音を言うと多少はつらい」

「すみません、エリザ……有難うございます」

「なに、いつかきっと解ってくれると信じている。信じるに値する人たちだ。
とにかく今はお前が不自由無く暮らせるようになるのが、一番の励みだよ」

何たる僥倖に恵まれていることか。皮肉も半分に苦笑しつつ、レヴィアが持つ住民登録証が入ったカードポケットを捲る。そこには部屋番号が刻印されたカードキーが収まっていた。

「第二階層E-十二地区の軍営マンションに私の部屋がある。と言っても、二年近く放ったらかしなんだが……まぁ、お前の好きにしてくれて良い」

軍の高官として相応の居室が与えられてはいたものの、聖都を離れていた時期を除いてもほとんど帰れていなかったのだと言う。そしてそれは以後も、いや尚更帰れない事に変わりは無いだろう。表向き同居人にはなるものの、一人暮らしも同然だ。

「一応週三でハウスキーパーを入れる様に手配しているが、本当に一人で大丈夫なのか?
此処から家に向かうのだって、結構な道程だぞ」

「なんだかんだで片手だけっていうのにも慣れてきましたし、良いリハビリです。
それに、私だってもう小さい子供じゃないんですから、ね?」

長い袖に隠されてはいるが、肘から先の中身が空っぽの左袖をレヴィアはひらひら振って見せる。

「しかし、しかしな……。ああもう一緒に行ってやれないのが心配でならないが……そう、そうだな。
これからの練習だと思って頑張って向かってみてくれ。行き方や地図はこないだ渡したその端末で見られる。判らなくなったらちゃんと確認する様に」

エリザベートはレヴィアの膝の上に乗っている二つ折りの携帯端末を指差して念押しする。

「人や物にぶつからない様に気を付けるんだぞ。端末を見る時はちゃんと端に避けて……」

「もうエリザ、言い出したらキリがないですよ。お仕事をすっぽかすつもりですか?」

大丈夫とは言うものの、やはり心配は拭えないのだろう。エリザベートから再三注意を促され、レヴィアはとうとう困った顔で笑いだす。
エリザベートの言うマンションは、彼女と同じ様に軍高官や執政官が利用する居住区画とあって階層間を繋ぐエレベーターの近くに有るらしく、徒歩で行ったとしても一時間と掛からないとの事エレベーターまでは以前に比べれば本数が減ったものの、現在は三十分に一度の頻度で公共車両が運行している。
伝えるべきことを全て伝え終え、ようやく肩に入った力が緩む。再会の間のほんの一時を惜しむ様に、そして最後にささやかな願いをひとつ告げる為に、少女の身体を抱き寄せた。

「レヴィア、私の愛しき光。私は行くが、次にお前の元に帰る時にはどうか笑顔で迎えておくれ」

「……はい、エリザもちゃんと元気に帰って来てくださいね。それが条件です」

「ふ、分かったよ。善処する」

出来ることなら約束したいところだが、軍職の身で求めるには酷であるのはお互い承知の上。『善処』に留めて頷き合った。
腕を解いて時間を確認すれば、いよいよ刻限が猶予無く差し迫っていることに気付く。「しまった、もうこんな時間か」と焦る声には落胆も混じる。慌ただしく寝台から立ち上がって濃紺の外套を引っ掴み、立ち上がった勢いのまま足早にドアへと向かう。そして幼馴染は、笑顔で手を振りながら病室を後にした。

─────

エリザベートを見送ってからレヴィアは斜め掛けの鞄を肩に掛け「よし」と意を決して寝台から立ち上がる。
長らく世話になった病室を出ようとすると、エリザベートと入れ替わる様にイルミリアが現れた。
病室で過ごした二ヶ月間、彼女にとっては仕事の内とはいえ何かにつけて世話になり通しだったし、挨拶くらいしておかなければと思っていたところ。丁度良かったと頭を下げて礼を告げる。

「あ、ミリアさん!よかった、丁度挨拶に行こうと思ってたんです。今までお世話になりました」

「私も、お見送りに間に合ったようで何より。
でも、万全になるまで居てくれても良かったのですけどね……寂しくなりますわ」

いつもこの時間は別の仕事をしているはずなのだが、どうやらイルミリアの方からわざわざ出向いて来たらしかった。

「もうすっかり、自分で歩ける様になりましたから。ただでさえ貴重なベッドを占領しておいて、いつまでも甘える訳にはいきませんし」

担当医として光使いであるレヴィアの事情は概要のみ把握している。軍生まれの実験体の彼女の気持ちを考えれば、病棟とは言え軍施設内の居心地が良いとは思えない。此方に信を置いてくれてはいるのだろうが、それとこれとは別問題。入院が必要な治療も終了したのであれば引き留める理由も無かった。
数多く居る患者の一人に過ぎずとも、イルミリアとしては親戚の娘の様な気持ちで接していたつもり。かつての生気を取り戻した少女の姿に目を細めた。

「ふふ、寂しがるよりも医者なら元気になった事を喜ぶべき、ですわね」

「ええ、お陰様で、です」

これまではエリザベートを除いて聖都の軍服を纏う者には正直な所余り良い印象を抱いていなかったが、光使いではなくレヴィアをただの一個人、飽くまで患者の一人として掛け値無く接してくれるイルミリアには心を許していた。
軍に従う医師でありながら、彼女に対してはエリザベートが敬語を用いるのも納得出来る気がする。

「あっ、と。いけない、言伝を預かっていたのを忘れるところでしたわ」

「言伝……エリザからですか?」

此処を出る際の注意事項は昨日までに聞いていた筈であったが、何か連絡漏れでもあったのだろうかと首を傾げる。しかし、イルミリアの口から聞かされたのは意外な人物の名であった。

「いいえ、エイレンフェレス技術総監からです。『迎えを寄越すので、此処を出る前に研究棟へ立ち寄る様に』との事ですわ」

「エイれ……ユーリック、さんが……ですか」

『エイレンフェレス技術総監』、つまりユーリックの名を聞いて思わずレヴィアの表情が強張る。
目を覚ますまでは度々病室に訪れていたとの話を聞いていたし、レヴィアの処遇が論議された際はまるで擁護する様な態度であったらしいが未だ直接合って言葉を交わしたわけではない。正直、あの男に対する印象は以前と変わらず『冷徹な科学者』のままだ。
素直に頷くべきと解っていても、僅かに躊躇った。自由の身と言えど、感情ひとつで拒否出来る立場には無いのだ。
『分かりました』と言葉を絞り出そうとしたその時。ドアの陰から「あの」と白衣姿の男がひょっこりと顔を覗かせ、軽く会釈しつつ病室へ入って来た。

「僕がその迎え、なんですがー……レヴィア君、準備もう大丈夫?」

「あら、もういらしてましたのね!え、えぇと……」

咄嗟に名前が出てこないイルミリアの様子を察してか、男は「どうも。技術局のハルタミアです」自ら名乗る。

「そう、ハルタミア技術大佐!失礼致しました」

イルミリアは手を叩くと、名を思い出せなかった非礼を詫びる。しかし当のハルタミアは慣れっこのなのか、ゆるい愛想笑いを浮かべ「あはは、ハルで良いです」と頭を掻いた。
気にしている風でもないが、肩書きに反して中々顔を覚えて貰えない程度には凡庸な雰囲気を纏っている自覚は有るのだろう。

「あ、私の準備は……大丈夫、です」

レヴィアは歯切れ悪く応えつつ、何とか頷いて見せる。ハルタミアは特に訝しむ様子も無くイルミリアに「それじゃあ、後は此方で」と短い会話を交わしレヴィアを引き連れ病室を後にした。

両手を白衣のポケットに入れたまま前を歩くハルタミアは窓の外や壁に貼られた注意書のポスターなど、適当に視線を遊ばせ流し見している様だがわざわざレヴィアを振り返る様子は無い。そも、そんなものは毎日飽くほど見ているはず。とすれば、それとなくレヴィアの歩調を計ってのことだろう。重たげな足取りでついて行くレヴィアが置き去りになるような事は無かった。

十分ほど歩いていただろうか。
「レヴィア君」と不意に名を呼ばれ、もう着いたのだろうかと俯き気味だった顔を慌てて上げた。いつの間にかハルタミアとは距離が離され、随分と先の方に立っていた。レヴィアは足を早めてハルタミアの元へと追い付く。
研究棟内ではあるが周囲にそれらしい部屋は見当たらず、どう考えても未だ廊下の途中。何かあると言えば小休止用のベンチと飲み物の自動販売機くらいだった。
「何でしょう?」とレヴィアは小首を傾げつつハルタミアに問う。男は目の前の明かりの灯った自販機を指差す。

「好きなの、選んでどうぞ」

「は、え?えっと……」

ユーリックが待っているのではないか、とレヴィアはこの男の意図が判らず戸惑っているとハルタミアは頭を掻きつつ自販機のボタンを先に押す。
がしゃん、と取り出し口に転がり出たコーヒーの缶を拾い上げるとカード読取り部にカードを翳し「はい、今度こそ君の」とまた自販機を指で指し示す。
特に喉が乾いている、と言う訳でも無いのだが。仕方無くレヴィアは紅茶の見本が入った位置のボタンを押した。
ハルタミアはごろんと出てきたボトルを取り出し、そのまま此方に渡しかけたところでレヴィアの空の片袖が目に留まったのか「あ、そっか」と呟くと御丁寧にキャップの封を開けてから改めて差し出した。

「えっと、有難うございます……?」

目の前の男の考えが汲めないままにボトルを受け取ると彼は踵を返し、傍にあったベンチに悠長に腰掛けて自身の缶のリングプルを起こして開けて飲み始めた。

「あの、ユーリックさんが待ってるんじゃ」

「大丈夫、僕らが直ぐに来るだなんて思ってないよ、あの人。君も座って飲んだら?」

とは言うものの。
レヴィアは躊躇ったが、何れにせよ案内役のハルタミアが缶の中身を空にするまでどうすることも出来ない。レヴィアもまた大人しくベンチに腰を下ろすと、程好く温まっているボトルの中身を消費し始めた。

「まぁ、心の準備が出来てない子を総監に会わす訳にもいかないからねぇ」

ぼんやりと呟くハルタミアの台詞にレヴィアはぎくりと身を竦ませる。そろりと男を省みるが、分厚い眼鏡越しの視線は何処かを見ており声音は独り言の様だった。だが、明らかにレヴィアへ向けた言葉である事に間違いない。
この男、見た目によらず案外聡いらしい。
「すみません……」とそんな言葉がつい口を突いて漏れ出す。

「私の処遇についてユーリックさんが口添えしてくれたこととか、色々聞いてはいるんですけど……どうしても、その」

「最後に直接話したのは確か……君らが少佐に捕まって聖都に来たとき、それきりだっけ?
君の意識が戻ってからはあの人、確か面会に行ってなかったものな」

レヴィアは目を伏せ、ぎこちなく頷く。
だがハルタミアはレヴィアの様子とは裏腹にあはは、気の抜ける笑い声をあげる。

「そりゃあ、会いづらいのも解るよ。あの時、結構総監に向かって色々とキツいこと言ってたものなぁ」

「な、何で知ってるんですか!?」

「だってあの時、僕も部屋の前に居たから」とハルタミアは悪びれもせずあっけらかんと答えるが、他人に聞かれて居るとは思っていなかったレヴィアにしてみれば恥じ入ってしまうというもの。

「あの時の総監、ちょっと参ってたな。僕は一応知らん振りしてたけどあんなに動揺してる総監を見るのは久し振りだった」

「全然そうには見えませんでしたけど……」

「そりゃそうだ、他人に易々弱味を見せる様な人じゃないし。意地っ張りって言うか何て言うか。その割に独りで背負い込みたがる……」

ハルタミアはふと何処か遠くへ視線を投げ「カルミラはそう言うとこが総監と似ちゃった気がするなぁ……」と中身が半分以下になったコーヒーの缶をくるくる回しながら呟いた。

「お兄ちゃん……」

「……あの子、いや、“イングレンス少佐”は自らの意志で自分が見出だした本当の使命を全うした。命を賭すに値する、本当の使命に。
君がそんな顔をするのは筋違いだろ」

缶を持つ手の人差し指を此方へ突きつける。責めると言うよりは、些細なミスを指摘する教師の様だ。

「みんなが皆、己にとって最善と思うことをやった。何が最善だとかも判らず、選択すら出来ない者もいた中では、きっと幸福だよ。……多分」

欺瞞じみた考えだが、この男は恐らくその理屈で自身を納得させているのだろう。ハルタミアの言葉の端々からは、自分の知り得ない義兄への理解が窺える。

「その、イングレンス少佐が確かに私のお兄ちゃんだと解っていても、私の中にある記憶は数えるほどしかありません。それなのに、私は負えるでしょうか。負う資格が……あるでしょうか、あの人に託された人生を」

兄は自分を救う為に黄泉の縁まで馳せて、遂には境界を越えて逝ってしまった。掬い上げられてしまったのならば、彼が歩むはずであった人生をも負わねばならない。それがせめてもの責務。
客観として理解はしているものの、自分はカルミラの思いも人生もろくに知り得ていない。
脆く非力な自分が、もう一人の光使いの人生を抱えて歩ける自信は無かった。
レヴィアの沈痛な表情とは裏腹に、缶を空にしたハルタミアは「そうだねぇ」と呑気な思案の台詞と共に立ち上がる。

「レヴィア君はさ、カルミラのことどう思う?自分と比べて、とかではなく一個人として」

「どうって、立派な人だと思います。あんな若さで人を率いる立場に立つだなんて、とてつもない努力をして重責を抱えてるのに背景を見せないくらい毅然としていた」

軍人として振る舞うカルミラは恐ろしくもあったが、これが義兄の今の姿なのだと思うと畏れも生じていた。彼を思えば幾つもの疑問が生まれるが、客観的な人物評を問われれば先述の答えに落ち着いた。
ハルタミアはレヴィアの答えに然したる反応は示さず、空になった缶をぽいとダストボックスへ投げる。気のせいだろうか、心持ちその横顔から窺える口角が持ち上がっているように見えた。

「良いんじゃない、それで」

「え?」

「『立派な兄』だって認めてくれるなら充分だと思うよ。別に妹に責任を負い被せようなんて思ってないさ。カルミラってほら、格好付けたがりだから」

手に持つ紅茶はすっかり冷めてしまっていた。残った中身を飲み干して、空になったボトルを同じようにダストボックスへ収めた。
四面四角でいかにも型に嵌った軍人気質なカルミラを『格好付けたがり』などと。義兄の虚栄が見えていたこの男はカルミラと親しかったのだろうか。
硬く分厚い鉄のカーテンで覆い隠された人物像を知らぬままに死に別れたことが、今更ひどく惜しくなった。
男は特に此方を促すでもなくゆるりと踵を回し、また歩き始める。

「因みに僕は『ハル兄さん』と呼ばれてました。“君たち”からね」

「そう、でしたか」

そう言えば、“主任”からの小言が特に多かった研究員が居たことを思い出す。内容などろくに解っていなかったが、小言への愚痴を幼い兄妹に訴える姿は何とも大人気なくて可笑しかったと。
再び追い始めた白衣の背はもう遠くはなかった。

「それじゃあ、また当分は戻って来れないんですね」

「あぁ、“特務准将”として任を賜ったからには働きを以て応えねばならない。済まないな、お前には心細い思いをさせてしまう」

心からの謝意を込めて眉尻を下げるのは幼馴染たる女軍人──エリザベートだ。
詫びる台詞とは裏腹に一か月前に話した時よりも声色は明るさを取り戻している様に思え、レヴィアはゆるやかに安堵の笑みを浮かべた。

「いえ、大変なのはエリザの方です。やっと帰って来たのにまた直ぐ出立なんて……。
でも、聖都と第壱都市を繋ぐなんてすごく大事な役目ですし。私の事は心配しないでください。ミリアさん達も凄く良くしてくれていますから」

「……そうか、そうだな。お前も順調に回復している様で嬉しいよ。こんなに早く声が聞ける様になるなんて驚いた」

レヴィアと並んでベッドに腰掛けたエリザベートは、少女の頭から爪先までを視線でなぞる。髪は誰にやってもらったのか左側に編み込みを作られ、使い込まれた薄紅のリボンがひらりと揺れている。分け目を作られた前髪は少女の輪廓を少しだけ大人びて見せていた。
そして服装は治療の為の病院着ではなく、真新しい私服。病室を出る準備は万端に整えられていた。

最初にレヴィアの意識が戻って早ひと月。
さすがは聖都の医療技術と評すべきか。失われた左腕は已む無しにしろ、イルミリアらの手厚い手当により身に負った外傷や内部の損傷は順調に、むしろ驚くべき早さで回復しつつあった。
但し肩から脇腹に掛けて斬られた傷はうっすらと残ってしまったが、光使いの力で塞がれていなければ致命傷に至るもの。こうして再び綺麗に皮膚が繋がっただけでも驚異的だ。とは言え、瘴気に侵された身体へのダメージは根深く、完治とは言い難い。
電磁網を被った様に全身に重く纏わりつく痺れや幻肢痛から解放されるには今しばらくの時間が掛かるだろう。

「……まだまだこれから、ですけどね。
私も頑張りますから、エリザも頑張って。それと……」

口にしようとしてつい躊躇ってしまい、瞳が揺れる。だが、取り落とした言葉尻を掴み直し喉奥から引き出した。

「その、ゼクトのこと、有難うございます。エリザが助けてくれてるって聞いて安心しました」

「奴からではなくお前から礼を言われるとはな」

「……そっか。意地っ張りなところ、相変わらずなんですね」

心底からの安堵と喜びで覆い隠しているつもりなのろうが、紫瞳の奥には寂しさの尾が覗いていた。幼馴染たる少女の気持ちは理解しているつもり。エリザベートは苦笑を滲ませる。

「常に無茶な突っ走り方をする奴の首根っこを追い駆けて捕まえるのは難儀する……。言いたいことがあるなら次に会った時にでも伝えておくが?」

エリザベートの申し出に「いいえ」とレヴィアは静かに首を横に振る。

「今の私じゃ、ほんとに足手まといになっちゃいますから。きっと心配させちゃいます」

伝えたいこと、言わなければならないことは山ほどある。だが、立って歩くことがやっとの自分の存在は青年の支えになどなりはせず、いたずらに気を割かせてしまうばかりだろう。例え当人が傍に居なくとも。
今、彼が思い遣るべきは自分などではない。

「大丈夫です。言いたいことは……、ちゃんと伝えに行きます。私自身の力でゼクトの元に辿り着ける様になったら」

思いは今にも溢れんばかりに募らせるものの、その先頭にあるのは彼を傷付けた事への贖罪。これは自分自身の手で払拭しなければならないものであり、これを差し置いて何も進めはしない。握り締めた手は微かに震え、胸に押し当てられている。それでもレヴィアは『大丈夫』だと笑みを絶やしはしなかった。

「そうか」

エリザベートは応え、小さく頷いた。これ以上の口出しは不要だろうと。
エリザベートはおもむろに立ち上がり、窓に近付く。外を見遣れば急速に元の姿を取り戻しつつある聖都の風景が広がっている。多くのものを失った事実に変わりは無く、未だ夜に支配されたままであるが、それでも中枢都市としての栄光に輝く日は必ず訪れる。誰しもが前を向くことさえ諦めなければ。
時計を確認すれば、出立の時間が刻々と迫りつつあると気付いて嘆息した。エリザベートははたと何事か思い出したかのようにレヴィアを振り返り、懐を探る。

「済まない、大事な物を忘れるところだった。此処で暮らす上で必要なお前の住民登録証だ、無くすなよ」

手渡された真新しい手帖を開くと、そこにはレヴィアの顔写真の入ったIDカード。その名前の欄には『Revia・Ⅹ・Endulance』と刻まれていた。
職務をこなしつつ、聖都に戻って来た合間を縫って一連の手続きを済ませるのは骨が折れたろうが、軍附属の病院を出る日に間に合わせる様にエリザベートは見事に全て終わらせていたらしい。
今朝、久し振りに病室を訪れたエリザベートからこの一件を聞いた時には驚いたが「こんなに喜ばしい仕事が捗らないはずが無い」と答えた時の嬉々とした表情を思い返して微笑んだ。

この話に至るには、エリザベートが導師護送の任を受ける前まで時を遡る。
人柱として本来担うべきであった役割を無くしたレヴィアのその後の処遇について、最早軍の上層もとやかく口出ししてくる事は無かった。
光使いとして持ち得た優れた戦力を利用しない事を惜しむ声もあった様だが、理に反した光使いの存在が一般に露呈させれば軍への不要な反発を生む事になる。復興途上の聖都の中で、無用な争いの火種など望ましく無い。
しかし一番に危惧すべきは、今回の一件を引き起こした一番の要因がレヴィアにあると考える者が居ると言う事。難癖じみているとは思うが、それは誤解でも間違いでも無く、むしろ道理とも言える。レヴィアが本来の役割に従って人柱となっていれば、数多の犠牲は生まれなかったと言われれば否定は出来ない。
聖都の再建計画の議論に際して幾度と無く開かれた会議にて『今回の件に関して負うべき責任と、その力の危険性を省みても早急に処分すべき』と言う意見が出たのだ。
どこからともなく話を聞き付けたエリザベートの強い反論が無ければそのまま承諾されていてもおかしくはなかった。彼女自身、どうせ処分されるのだと形振り構わず捨て鉢の反抗であった。だと言うのに、己の発言が通ったことに驚きを隠せなかった。
そして後々、彼女をまた軍に引き戻そうとカーライルが必死に手を回していた事を知るに至った訳だが。
それに加え、レヴィアの処遇に関しては意外な方面からの助け船もあったらしい。
技術開発部の代表として当然ながら会議に居合わせたユーリックが『能力を危険視するならそれを押さえ込む術は有る。手元に置いておきたいなら御し易い者の監視下に置けば良いのでは?』と提案したのだ。まるで“隅から隅まで事情を知り尽くした他人”の様な口振りで。
制作者である本人が身元の引き受けに名乗りを上げず、傍観の立場を示した。それ即ち『光使いに利用価値は残っていない』と言っている様なもの。
以後は反論する者も無く、そのままレヴィアの処遇はその通りに決定された。

エリザベートの監視下とは言うものの、その実生活をする上で特別な制約や禁則事項などはほとんど無い。但し未成年が親権者も無しに聖都に居住権を得る事は出来ない為、エリザベートの養子として扶養下に入り聖都に留まることになったのだ。
因みに、この聖都を始め主要都市に居住権を得られればその居住権は附属の派生都市でも有効となる。

「“レヴィア・セイン・エンデュランス”……って何だか不思議な感じです」

元より家族も同然の幼馴染みではあるが、エリザベートと同姓になるというのは何とも不思議な気分だと、新しい名前を読み上げながらレヴィアは照れたようにはにかんだ。そもそも同姓の者が居ると言う経験自体、今までに無かったのだ。

「私も最初はそうだった。なに、じきに慣れるさ」

そして、それはかつてのエリザベートも同じであった。かつて少年兵として戦場を渡った過去は生家の名を彼女から剥ぎ取った。それまで使っていた“エリス”と言うファーストネームも“エリザ”と改め、エンデュランスの家に養子に入るに当たって格式と共に得た名が“エリザベート・エンデュランス”であったのだ。
再び孤児院の様な施設で縁の無い者と暮らす可能性もあった事を考えれば気心の知れたエリザベートと家族となれるのはレヴィアとて嬉しいことこの上無い。しかし、気になることが一つ。

「……あの、ほんとにエリザのお家に御挨拶には行かなくて良いんですか?名前を使わせて貰うのに」

「あー……良い、と言うか行けない。無理だ」と即座に首を横に振る。眉間に皺を寄せ、首筋を掻いて口ごもらせながらも続ける。

「養子に引き取られて間も無くに士官学校に入ったせいで養父母とは話をすることもほとんど無くてな……。学校の休暇もお前に会いにサラトガに行ったりしていたし、軍に入ったら忙しくて実家になんか帰れやしない。
それでますます疎遠になったところで軍の離反なんてのをやらかしたんだ」

エリザベートの離反は秘匿事項として軍関係者でも知り得ない者が多いが、流石に本人の実家となれば捜査が及ばない訳も無く。大きな家でないとは言え、厳格な軍門であることに変わりはない。となれば後の想像は容易いだろう。
迷惑を被らせ、恩を仇で返したまま軍に戻れはしない。筋を通しておかねばと家に戻ったものの、エリザベートでさえ震撼する雷が落ちてきたのだった。
しかしながら『当分敷居を跨ぐな』とは言われたが、何故勘当されなかったのか不思議なほど。エリザベートは遥か彼方の遠くを見詰め、長い長い溜め息を吐いた。

「あの家の人達は薄情だとか人でなしとか、そう言う訳じゃない。むしろその逆ではあるんだよ」

咎められたのは軍に離反したからではなく、正道を放棄した為。安易な道を選び、人の規範となるべき理性を捨てて自ら秩序を乱した為だ。

「という訳で、今は非常にまずい。お前が悪い訳じゃ無いんだが……お前が今顔を出せば火に油を注ぐようなものだ。それだけは避けたい」

エリザベートが勘当されなかったのは養父母のせめてもの情けであり、彼女の行動に理解を示そうする歩み寄りの表れだろう。今、要らぬ波風を立てるのは利口ではない。
とにかく、当分はエリザベートの実家には近付けそうには無いらしい。

「全ては私自身が決めて私がやった行いだ。悔いてはいない……が、本音を言うと多少はつらい」

「すみません、エリザ……有難うございます」

「なに、いつかきっと解ってくれると信じている。信じるに値する人たちだ。
とにかく今はお前が不自由無く暮らせるようになるのが、一番の励みだよ」

何たる僥倖に恵まれていることか。皮肉も半分に苦笑しつつ、レヴィアが持つ住民登録証が入ったカードポケットを捲る。そこには部屋番号が刻印されたカードキーが収まっていた。

「第二階層E-十二地区の軍営マンションに私の部屋がある。と言っても、二年近く放ったらかしなんだが……まぁ、お前の好きにしてくれて良い」

軍の高官として相応の居室が与えられてはいたものの、聖都を離れていた時期を除いてもほとんど帰れていなかったのだと言う。そしてそれは以後も、いや尚更帰れない事に変わりは無いだろう。表向き同居人にはなるものの、一人暮らしも同然だ。

「一応週三でハウスキーパーを入れる様に手配しているが、本当に一人で大丈夫なのか?
此処から家に向かうのだって、結構な道程だぞ」

「なんだかんだで片手だけっていうのにも慣れてきましたし、良いリハビリです。
それに、私だってもう小さい子供じゃないんですから、ね?」

長い袖に隠されてはいるが、肘から先の中身が空っぽの左袖をレヴィアはひらひら振って見せる。

「しかし、しかしな……。ああもう一緒に行ってやれないのが心配でならないが……そう、そうだな。
これからの練習だと思って頑張って向かってみてくれ。行き方や地図はこないだ渡したその端末で見られる。判らなくなったらちゃんと確認する様に」

エリザベートはレヴィアの膝の上に乗っている二つ折りの携帯端末を指差して念押しする。

「人や物にぶつからない様に気を付けるんだぞ。端末を見る時はちゃんと端に避けて……」

「もうエリザ、言い出したらキリがないですよ。お仕事をすっぽかすつもりですか?」

大丈夫とは言うものの、やはり心配は拭えないのだろう。エリザベートから再三注意を促され、レヴィアはとうとう困った顔で笑いだす。
エリザベートの言うマンションは、彼女と同じ様に軍高官や執政官が利用する居住区画とあって階層間を繋ぐエレベーターの近くに有るらしく、徒歩で行ったとしても一時間と掛からないとの事エレベーターまでは以前に比べれば本数が減ったものの、現在は三十分に一度の頻度で公共車両が運行している。
伝えるべきことを全て伝え終え、ようやく肩に入った力が緩む。再会の間のほんの一時を惜しむ様に、そして最後にささやかな願いをひとつ告げる為に、少女の身体を抱き寄せた。

「レヴィア、私の愛しき光。私は行くが、次にお前の元に帰る時にはどうか笑顔で迎えておくれ」

「……はい、エリザもちゃんと元気に帰って来てくださいね。それが条件です」

「ふ、分かったよ。善処する」

出来ることなら約束したいところだが、軍職の身で求めるには酷であるのはお互い承知の上。『善処』に留めて頷き合った。
腕を解いて時間を確認すれば、いよいよ刻限が猶予無く差し迫っていることに気付く。「しまった、もうこんな時間か」と焦る声には落胆も混じる。慌ただしく寝台から立ち上がって濃紺の外套を引っ掴み、立ち上がった勢いのまま足早にドアへと向かう。そして幼馴染は、笑顔で手を振りながら病室を後にした。

─────

エリザベートを見送ってからレヴィアは斜め掛けの鞄を肩に掛け「よし」と意を決して寝台から立ち上がる。
長らく世話になった病室を出ようとすると、エリザベートと入れ替わる様にイルミリアが現れた。
病室で過ごした二ヶ月間、彼女にとっては仕事の内とはいえ何かにつけて世話になり通しだったし、挨拶くらいしておかなければと思っていたところ。丁度良かったと頭を下げて礼を告げる。

「あ、ミリアさん!よかった、丁度挨拶に行こうと思ってたんです。今までお世話になりました」

「私も、お見送りに間に合ったようで何より。
でも、万全になるまで居てくれても良かったのですけどね……寂しくなりますわ」

いつもこの時間は別の仕事をしているはずなのだが、どうやらイルミリアの方からわざわざ出向いて来たらしかった。

「もうすっかり、自分で歩ける様になりましたから。ただでさえ貴重なベッドを占領しておいて、いつまでも甘える訳にはいきませんし」

担当医として光使いであるレヴィアの事情は概要のみ把握している。軍生まれの実験体の彼女の気持ちを考えれば、病棟とは言え軍施設内の居心地が良いとは思えない。此方に信を置いてくれてはいるのだろうが、それとこれとは別問題。入院が必要な治療も終了したのであれば引き留める理由も無かった。
数多く居る患者の一人に過ぎずとも、イルミリアとしては親戚の娘の様な気持ちで接していたつもり。かつての生気を取り戻した少女の姿に目を細めた。

「ふふ、寂しがるよりも医者なら元気になった事を喜ぶべき、ですわね」

「ええ、お陰様で、です」

これまではエリザベートを除いて聖都の軍服を纏う者には正直な所余り良い印象を抱いていなかったが、光使いではなくレヴィアをただの一個人、飽くまで患者の一人として掛け値無く接してくれるイルミリアには心を許していた。
軍に従う医師でありながら、彼女に対してはエリザベートが敬語を用いるのも納得出来る気がする。

「あっ、と。いけない、言伝を預かっていたのを忘れるところでしたわ」

「言伝……エリザからですか?」

此処を出る際の注意事項は昨日までに聞いていた筈であったが、何か連絡漏れでもあったのだろうかと首を傾げる。しかし、イルミリアの口から聞かされたのは意外な人物の名であった。

「いいえ、エイレンフェレス技術総監からです。『迎えを寄越すので、此処を出る前に研究棟へ立ち寄る様に』との事ですわ」

「エイれ……ユーリック、さんが……ですか」

『エイレンフェレス技術総監』、つまりユーリックの名を聞いて思わずレヴィアの表情が強張る。
目を覚ますまでは度々病室に訪れていたとの話を聞いていたし、レヴィアの処遇が論議された際はまるで擁護する様な態度であったらしいが未だ直接合って言葉を交わしたわけではない。正直、あの男に対する印象は以前と変わらず『冷徹な科学者』のままだ。
素直に頷くべきと解っていても、僅かに躊躇った。自由の身と言えど、感情ひとつで拒否出来る立場には無いのだ。
『分かりました』と言葉を絞り出そうとしたその時。ドアの陰から「あの」と白衣姿の男がひょっこりと顔を覗かせ、軽く会釈しつつ病室へ入って来た。

「僕がその迎え、なんですがー……レヴィア君、準備もう大丈夫?」

「あら、もういらしてましたのね!え、えぇと……」

咄嗟に名前が出てこないイルミリアの様子を察してか、男は「どうも。技術局のハルタミアです」自ら名乗る。

「そう、ハルタミア技術大佐!失礼致しました」

イルミリアは手を叩くと、名を思い出せなかった非礼を詫びる。しかし当のハルタミアは慣れっのなのか、ゆるい愛想笑いを浮かべ「あはは、ハルで良いです」と頭を掻いた。
気にしている風でもないが、肩書きに反して中々顔を覚えて貰えない程度には凡庸な雰囲気を纏っている自覚は有るのだろう。

「あ、私の準備は……大丈夫、です」

レヴィアは歯切れ悪く応えつつ、何とか頷いて見せる。ハルタミアは特に訝しむ様子も無くイルミリアに「それじゃあ、後は此方で」と短い会話を交わしレヴィアを引き連れ病室を後にした。

両手を白衣のポケットに入れたまま前を歩くハルタミアは窓の外や壁に貼られた注意書のポスターなど、適当に視線を遊ばせ流し見している様だがわざわざレヴィアを振り返る様子は無い。そも、そんなものは毎日飽くほど見ているはず。とすれば、それとなくレヴィアの歩調を計ってのことだろう。重たげな足取りでついて行くレヴィアが置き去りになるような事は無かった。

十分ほど歩いただろうか。
「レヴィア君」と不意に名を呼ばれ、もう着いたのだろうかと俯き気味だった顔を慌てて上げた。いつの間にかハルタミアとは距離が離され、随分と先の方に立っていた。レヴィアは足を早めてハルタミアの元へと追い付く。
研究棟内ではあるが周囲にそれらしい部屋は見当たらず、どう考えても未だ廊下の途中。何かあると言えば小休止用のベンチと飲み物の自動販売機くらいだった。
「何でしょう?」とレヴィアは小首を傾げつつハルタミアに問う。男は目の前の明かりの灯った自販機を指差す。

「好きなの、選んでどうぞ」

「は、え?えっと……」

ユーリックが待っているのではないか、とレヴィアはこの男の意図が判らず戸惑っているとハルタミアは頭を掻きつつ自販機のボタンを先に押す。
がしゃん、と取り出し口に転がり出たコーヒーの缶を拾い上げるとカード読取り部にカードを翳し「はい、今度こそ君の」とまた自販機を指で指し示す。
特に喉が乾いている、と言う訳でも無いのだが。仕方無くレヴィアは紅茶の見本が入った位置のボタンを押した。
ハルタミアはごろんと出てきたボトルを取り出し、そのまま此方に渡しかけたところでレヴィアの空の片袖が目に留まったのか「あ、そっか」と呟くと御丁寧にキャップの封を開けてから改めて差し出した。

「えっと、有難うございます……?」

目の前の男の考えが汲めないままにボトルを受け取ると彼は踵を返し、傍にあったベンチに悠長に腰掛けて自身の缶のリングプルを起こして開けて飲み始めた。

「あの、ユーリックさんが待ってるんじゃ」

「大丈夫、僕らが直ぐに来るだなんて思ってないよ、あの人。君も座って飲んだら?」

とは言うものの。
レヴィアは躊躇ったが、何れにせよ案内役のハルタミアが缶の中身を空にするまでどうすることも出来ない。レヴィアもまた大人しくベンチに腰を下ろすと、程好く温まっているボトルの中身を消費し始めた。

「まぁ、心の準備が出来てない子を総監に会わす訳にもいかないからねぇ」

ぼんやりと呟くハルタミアの台詞にレヴィアはぎくりと身を竦ませる。そろりと男を省みるが、分厚い眼鏡越しの視線は何処かを見ており声音は独り言の様だった。だが、明らかにレヴィアへ向けた言葉である事に間違いない。
この男、見た目によらず案外聡いらしい。
「すみません……」とそんな言葉がつい口を突いて漏れ出す。

「私の処遇についてユーリックさんが口添えしてくれたこととか、色々聞いてはいるんですけど……どうしても、その」

「最後に直接話したのは確か……君らが少佐に捕まって聖都に来たとき、それきりだっけ?
君の意識が戻ってからはあの人、確か面会に行ってなかったものな」

レヴィアは目を伏せ、ぎこちなく頷く。
だがハルタミアはレヴィアの様子とは裏腹にあはは、気の抜ける笑い声をあげる。

「そりゃあ、会いづらいのも解るよ。あの時、結構総監に向かって色々とキツいこと言ってたものなぁ」

「な、何で知ってるんですか!?」

「だってあの時、僕も部屋の前に居たから」とハルタミアは悪びれもせずあっけらかんと答えるが、他人に聞かれて居るとは思っていなかったレヴィアにしてみれば恥じ入ってしまうというもの。

「あの時の総監、ちょっと参ってたな。僕は一応知らん振りしてたけどあんなに動揺してる総監を見るのは久し振りだった」

「全然そうには見えませんでしたけど……」

「そりゃそうだ、他人に易々弱味を見せる様な人じゃないし。意地っ張りって言うか何て言うか。その割に独りで背負い込みたがる……」

ハルタミアはふと何処か遠くへ視線を投げ「カルミラはそう言うとこが総監と似ちゃった気がするなぁ……」と中身が半分以下になったコーヒーの缶をくるくる回しながら呟いた。

「お兄ちゃん……」

「……あの子、いや、“イングレンス少佐”は自らの意志で自分が見出だした本当の使命を全うした。命を賭すに値する、本当の使命に。
君がそんな顔をするのは筋違いだろ」

缶を持つ手の人差し指を此方へ突きつける。責めると言うよりは、些細なミスを指摘する教師の様だ。

「みんなが皆、己にとって最善と思うことをやった。何が最善だとかも判らず、選択すら出来ない者もいた中では、きっと幸福だよ。……多分」

欺瞞じみた考えだが、この男は恐らくその理屈で自身を納得させているのだろう。ハルタミアの言葉の端々からは、自分の知り得ない義兄への理解が窺える。

「その、イングレンス少佐が確かに私のお兄ちゃんだと解っていても、私の中にある記憶は数えるほどしかありません。それなのに、私は負えるでしょうか。負う資格が……あるでしょうか、あの人に託された人生を」

兄は自分を救う為に黄泉の縁まで馳せて、遂には境界を越えて逝ってしまった。掬い上げられてしまったのならば、彼が歩むはずであった人生をも負わねばならない。それがせめてもの責務。
客観として理解はしているものの、自分はカルミラの思いも人生もろくに知り得ていない。
脆く非力な自分が、もう一人の光使いの人生を抱えて歩ける自信は無かった。
レヴィアの沈痛な表情とは裏腹に、缶を空にしたハルタミアは「そうだねぇ」と呑気な思案の台詞と共に立ち上がる。

「レヴィア君はさ、カルミラのことどう思う?自分と比べて、とかではなく一個人として」

「どうって、立派な人だと思います。あんな若さで人を率いる立場に立つだなんて、とてつもない努力をして重責を抱えてるのに背景を見せないくらい毅然としていた」

軍人として振る舞うカルミラは恐ろしくもあったが、これが義兄の今の姿なのだと思うと畏れも生じていた。彼を思えば幾つもの疑問が生まれるが、客観的な人物評を問われれば先述の答えに落ち着いた。
ハルタミアはレヴィアの答えに然したる反応は示さず、空になった缶をぽいとダストボックスへ投げる。気のせいだろうか、心持ちその横顔から窺える口角が持ち上がっているように見えた。

「良いんじゃない、それで」

「え?」

「『立派な兄』だって認めてくれるなら充分だと思うよ。別に妹に責任を負い被せようなんて思ってないさ。カルミラってほら、格好付けたがりだから」

手に持つ紅茶はすっかり冷めてしまっていた。残った中身を飲み干して、空になったボトルを同じようにダストボックスへ収めた。
四面四角でいかにも型に嵌った軍人気質なカルミラを『格好付けたがり』などと。義兄の虚栄が見えていたこの男はカルミラと親しかったのだろうか。
硬く分厚い鉄のカーテンで覆い隠された人物像を知らぬままに死に別れたことが、今更ひどく惜しくなった。
男は特に此方を促すでもなくゆるりと踵を回し、また歩き始める。

「因みに僕は『ハル兄さん』と呼ばれてました。“君たち”からね」

「そう、でしたか」

そう言えば、“主任”からの小言が特に多かった研究員が居たことを思い出す。内容などろくに解っていなかったが、小言への愚痴を幼い兄妹に訴える姿は何とも大人気なくて可笑しかったと。
再び追い始めた白衣の背はもう遠くはなかった。