第十二章 黄泉の淵

 試しに開いてみた携帯端末のディスプレイの時計は機能障害を起こしているのか、〇〇時〇〇分を表示して固まったまま時を刻むことは無かった。
無論、通信回線状況は圏外。今のゼクティスに外部との繋がりは無い。
森へ踏み込んだ当初は未だ草なども生えてはいたが、奥へ奥へと進む内にそれすら無くなっていた。じっとりと湿気を孕んで纏わり付くような青霧が立ち込める周囲に見えるのは、腐りかけの枯木に岩と地面の土や泥のみ。
ひたすら真っ直ぐに進みはすれど、一向に変わる気配の無い景色に本当に正しく進んでいるのかと不安感さえ抱き始める。
そして、不審な点も有る。此処は既に境界の中。云わば魔物勢の巣窟で有るはずなのだが、今のところ一体たりとて出会してはいない。
視界も利かず、死角も多いこの環境ではいつ何処から飛び出してくるか判ったものではないと警戒をしていたのだが。
しかし魔物らしき気配を感じない訳ではない。姿無き〝何か〟が此方を見ている様な視線や、気配は絶えず感じているのだ。いずれも常に一定の距離を保ち、近付いて来たり追って来ている様子は無い。恐らくはただ、見ているだけ。此方に害を成さないようであれば最早気に留める事も無いのだろうが、薄気味悪いことこの上無い。
何にせよ頑として精神力を強く保たねばならない。此処は元より理を違えた領域、この場に完全に飲み込まれてしまえば境界の深みへ知らず知らずに引きずり込まれる可能性もある。

更に奥へと、代わり映えの無い景色をどれほど進み続けたろうか。
最初はただの折れた木の幹か、或いは周囲にいくらでも転がっている岩の影だろうと錯覚した。だがゼクティスの真っ直ぐ前方に佇む影の色は、周囲の障害物と比べると明らかに暗く、深い。

(魔物、か……?)

眼を凝らせばそれは柔らかなシルエットを描き、自然物などではなく明らかに人の形を模していた。身長は精々自分の腰辺り、普通の人間の子供程度の大きさである。
魔物かとも思ったが、それにしてはいやに挙動が大人しい。魔物と言うものは、此方の姿が見付かった時点で唸り声を上げながら容赦無く向かって来る、知性無き獣に近い挙動が一様にあるというもの。少なくともゼクティスが今まで数知れず屠ってきたものは、皆一つの例外無くそうであった。
ゼクティスはRequiemを構え、少しずつ距離を詰めてゆくも、まるで襲い掛かってくる様子は無い。此方の得物に気付いているのかすら怪しく、狼狽える事も逃げる素振りも無い。ただそこに佇んで待っているとでもいうのか。。
暇を持て余しているかの様な、シルエットそのままの子供の様に足で小石を蹴る仕草をしている。
もしかすると魔物ではないのだろうか、しかしそれならばあれは一体何なのか。ゼクティスにそんな疑問さえ浮かび始める。
立ち込める青霧に阻まれる事も無く姿が確認出来るまでに近付いたその時、小さな影はようやく此方を認識したのか。軽快に跳ねる様な駆け足で唐突に近付いて来た。ゼクティスは反射的に構えていた剣を突き出すが、そのまま影法師を突き刺すには至らなかった。
漆黒に塗り潰されていた姿がざぁ、とまるで墨を洗い流されたかの様に一瞬にして取り払われたのだ。全く予想だにしていなかったその素顔にゼクティスは驚き、眼を見開く。

「な——⁉︎ お前……」

見目は普通の人間の子供と全く変わらない。黒塗りの影法師だったはずの姿は一瞬にして十歳程の少女へと変わった。淡い赤髪に金色の眼を持った少女は、此方とはまるで真反対に害意の欠片も無く屈託の無い笑顔で、絶句したままのゼクティスの顔を見上げている。
この剣を下ろすべきか、それとも無慈悲に斬り払い無かった事として葬るべきなのか。悔やむべき事だが、咄嗟にその判断を下すことは出来なかった。その顔が知ったものでなければ、或いはとうに忘れてしまったものであれば良かったのにとゼクティスは思わずにいられなかった。

「先生が言ってたお客さんって、ゼクティスお兄ちゃんの事だったんだね! 〝おかえりなさい〟! すっごい背が伸びてたからわかんなかった!」

少女は突き付けられた刃など気にも留めずに駆け寄る。それどころか刀身をひょいと押し退け、両手を拡げてゼクティスの腰回りに抱き付き、歓迎した。

「これ、先生からもらってた剣だよね? ちゃんと似合ってる!」

数年ぶりの再会を喜び、少女はにこにこと無邪気な笑顔を浮かべている。対して真逆に苦々しく表情を歪めたゼクティスは、諦めた様に刃を下ろす。そして呻き声にも似た声で辛うじて彼女の名を絞り出した。

「〝ネイエ〟……〝ネイエリエ〟、何でお前が此処に居る……!」

ネイエリエと呼ばれた少女は一瞬きょとんと眼を丸めて首を傾げたが、直ぐに得心したとばかりに早口で説明する。

「いつもは〝お家〟から離れちゃ駄目って言われてるけど、今日は先生から『お客さんを迎えに行ってあげなさい』っておつかいを頼まれたの。勝手に此処まで来たんじゃないんだよ。でも先生いじわるだよね、ゼクティスお兄ちゃんが帰って来るならそうだって言ってくれれば良いのに、秘密にするなんて」

「そう言う事を訊いてんじゃあ無ぇ‼︎」

ゼクティスは余りに度し難い状況に対面している苛立ちをそのまま叩き付ける様に、怒声を放つ。そんな呑気な応えを求めている訳では無いと。

「何でお前が此処に……境界の中に居るのかって、そう訊いてんだ!」

突然声を荒げたゼクティスに少女はびくりと身を縮こませ、何故怒鳴られたのかと訳が判らず茫然と眼を見開いて此方を見上げている。

「おにいちゃん、なんでそんなこわい顔で怒るの……ネイは知らないよ……境界ってなに? ひどい、せっかく迎えに来てあげたのに……」

ゼクティスの剣幕に気圧されて、金色の眼にみるみる涙が盛り上がる。
本当に何も解ってないのか、とゼクティスは思わず舌打ちを洩らす。この様子からして、ネイエリエから情報を訊き出して状況を掴む事は難しいだろう。
今のこの邂逅だけでまた余計な疑問が生まれてしまったではないか。
そもそもこのネイエリエと言う少女。元はゼクティスがリオの下で世話になっていた時に、この少女が『お家』と呼ぶ孤児院で同居していた複数人の子供の一人である。
ゼクティス自身、リオの下で三年ほど孤児院の周囲のみで過ごしてはいたが、まさか境界の中に居たなどと言う認識は有ろうはずも無い。記憶を辿れど、この様に陰気な森が広がっていた憶えは無く、既視感すらないのだ。
そして何より、この少女自身が今のゼクティスにとっては最も不可解な存在となっていた。先ず、瘴気に満たされた境界内で何故平然としていられるのか。
そしてゼクティスが孤児院を出て約四、五年は経つ。だと言うのにその外見は最後に見た時の記憶のまま、全く変化をしていないのだ。本来ならばレヴィアと同年程度に成長しているはず。外見の変化も無く、それ故に直ぐ〝ネイエリエ〟と言う名前も記憶から掘り起こすまでもなくすんなりと出て来たのだ。
彼女の様子を見る限り、精神年齢も当時のままなのだろう。
リオの正体が魔物の上位種の様なものであった事を改めて省みれば、その庇護を受けていた子供たちがどの様な存在であったのか。そう考えると、むしろ〝得体の知れない者〟であった方が自然なのかも知れない。無論、ゼクティス自身も含めて。
忌々しく表情を歪め、爪が食い込むほどに左手を握り締める。

(……わざわざ迎えを寄越すか。嫌味なくらい御丁寧なこった)

だとするとネイエリエは本当にただの手駒、リオの遣いっ走りをしているだけに過ぎないのだろうか。己自身のこの狼狽を見て、リオが嘲笑う様子が眼に浮かぶ様だった。
俯いてしゃくりをあげながら泣いている少女を、ゼクティスは飽くまで冷然と見下ろす。
かつては同じ屋根の下で寝食共にした仲ではある。この少女にほんの少しの情も抱かないでもないが、リオに悉く裏切られた今となっては素直に同情は出来なかった。出来るなら筋違いに恨みを募らせ、今この場で始末してしまう事も有り得たかもしれない。
尤も、流石にそれではゼクティス自身の人間性の器が知れると言うものだが。

(ならコッチも思惑通りに使わせて貰うか)

ゼクティスは軽く額を掻くと、溜め息を一つ吐き出してどうにか気を落ち着かせる。
「……お前、本当にネイエなんだな?」と確認すると、少女はすっかり不貞腐れた顔でそっぽを向く。

「そうだよ、ネイのこと忘れちゃった?」

「ああいや、悪かった。さっきのは……八つ当たり、だった。……長旅で疲れて大分苛々してたんだよ」

「ゼクティスお兄ちゃんてば、もっとお兄ちゃんになってもそういうとこ変わらないんだね」

険を解いていくらか穏やかな語調に戻し、詫びを告げるゼクティスに安心したのか。泣き止みはしたものの、少女はやはり変わらず不機嫌顔で此方を睨んでいる。御機嫌取りなど面倒ではあるが、リオが差し向けて来たものであるならば慎重に扱った方が良いだろう。
更に言えば、前以てリオ側の状況も訊き出しておきたいところ。その為にも此方に対する敵意は出来る限り削いでおかなければ。
眼前の少女に対して淡々と、冷徹な思考を巡らせている奥で苦いものが拡がってゆく。曇りかける表情を移ろわせまいと感情を平坦に押し潰す。

「だから、その……悪かったって。機嫌直せよ。……それで、先生はこの先に居んのか? 今どうしてる」

ネイエリエは首を捻って少し考える素振りをする。

「ちょっと出掛けてたんだけどいつの間にか帰ってきてたみたい。お部屋から出てきてネイにお遣いをたのんだの」

「その時、先生と一緒に誰か居なかったか? お前らの知らない奴とか」

リオがこの先に在ると言う家に帰還したならば、そこにレヴィアも共に居る可能性が高いだろう。しかしネイエリエはふるふると首を横に振り「わからない」と言う。

「でも先生のお部屋から声は話し声は聞こえたよ。それで先生が帰ってきたのかなってわかったの」

「……そうか」

以前の記憶にあった孤児院が変わり無く有るのだとして、リオの部屋は基本的に誰であろうと許可無く入る事は許されていない。他の子供達は入った事が有るのかは知り得る所ではないが、少なくともゼクティスは立ち入りを許された事は一度たりとて無かった。
その部屋で〝誰かと話をしていた〟となれば十中八九そこにレヴィアが居ると見て間違いは無いだろう。直ぐ人柱の交換が出来るなら一度部屋に隠す等という手間を掛ける必要はない。どうやら間に合ったか、とゼクティスは僅かばかりに安堵する。

「他の連中はどうしてる。孤児院に居るのか?」

「他の……?」

昔から人付き合いが不得手なのは変わらず、孤児院の子供達とそこまで親しかった訳では無い。だがそれでも曖昧ながらゼクティスが記憶する限り、少なくとも他に五人前後の子供達が居た覚えがある。
しかしどう言うことなのか。ネイエリエはきょとんと目を丸め、首を傾げている。

「他って……〝だれ〟のこと?」

「おいおい何とぼけてんだ、お前の他にも世話になってんのが何人か居たろ」

ゼクティスは朧げながら思い出せる限りの名を指折り数えながら連ねてみるが、少女はやはり首を傾げるばかりで本当に何一つ思い当たる事も無い様子。この期に及んでふざけているのだろうかと怪訝に眉をひそめる。

「ゼクティスおにいちゃんが居なくなってから、お家はネイと先生の二人きり。ほかの子なんていない」

「馬鹿言え、んな訳……」

「いないよ。やだな、変なこと言わないでよお兄ちゃん」

少女は言葉を重ねて頑なに否定を強める。
何かの冗談ではないのかと疑いたくなるが、この少女は思った事は直ぐ口に出る質《たち》で、隠し事は出来ない性格。何よりその目が一切の嘘偽り無い事を物語っている。ゼクティスは否定しかけた口を噤んだ。仮に嘘を言っていたとして、見破るのは容易いしそもそもこの程度の嘘で謀った所で何の利が有ろうものか。

「おにいちゃんが居なくなってから先生の他はネイひとりになっちゃってさ……。おにいちゃんは帰ってこないし……ずっと寂しかったんだよ?」

(どういう、事だ……? こいつ以外の連中は居なくなってる……いや若しくは〝居なかったことにされてる〟ってところ……か?)

ふと思い浮かんだ仮説として、孤児院と言うのは名ばかりであの場はリオが子供達を保護ではなく手駒として利用する為に囲い込む環境として存在していたのならば。都合良く記憶を歪められていたとして、その可能性は十分に有り得るのではないだろうか。
吐き気を催す仮説だが、リオの話した苛烈な行動原理を思い返せばその程度の所業を躊躇いはしないだろうしやってのけるだろう。

「……ごめんね、でも本当にわかんないの。嘘じゃないよ」と謝るネイエリエの様子に軽く溜息を吐く。何れにせよ、これ以上は己が自身の眼で確めるしか無いかとゼクティスは仕方無しに諦めた。

「……いや、ならもういい。先生のとこまで案内してくれねぇか? お前も先生から言われてんだろ、俺を連れて来いって」

「うん、任せて!」

溌剌とした笑顔で胸を張って見せるネイエリエにゼクティスも唇の端を持ち上げて笑って見せた。尤も、それはけして親愛などではなく、少女への憐憫の情から来るものではあったが。

(こいつも俺も、結局は全部あの人の良い様に掌で踊らされてたって訳か。……成る程、さぞ滑稽だったろうな、先生)

「お兄ちゃん、ほら早く!」

先を駆け行くネイエリエの背を追いつつ間も無くして、これも何処まで本物かは判らないが森に生気の宿った景色が再び現れた。
空は相変わらず霧掛かっており、上方の様子は不明瞭だが周囲の青霧は一変して晴れている。この光景は確と見覚えが有った。
その一変した土地の中心には、廃墟にも見える古びた建物が建っていた。眼前に現れた光景はかつて世話になっていた孤児院とその周辺の景色そのままであった。先程までの枯れ森は、謂わば此処を隠す為のカモフラージュの様なものだったのだろうか。

「お兄ちゃんがここに戻ってきたの、本当に久し振りだよね。でも、あんまり変わってないでしょ?」

「……いや、変わっちまったよ。何もかもな」

かつて此処で過ごしていた時とはまるで裏表を返した様に、真反対に変わってしまったかつては剣を収めるべき場所であったが、今となっては抜かなければならない場になるとは考えもしていなかった。
しかしゼクティスの呟いた言葉がどういう意図かなど解る訳も無く、立ち止まったネイエリエは「え?」と此方を振り向いて眼を丸める。

「……なんかお兄ちゃん、今日はなんだか変だよ。さっきも疲れてるって言ってたけど……もしかして気分悪い?」

だが、ゼクティスは応えず一瞥のみを寄越すと歩みを早める。ネイエリエを追い越し、先を行く。

「おにいちゃん……?」

着実に建物は目の前に迫りつつある。幻ではないかと錯覚しかねないほどに、己の記憶の中にある姿そのままだ。傍らの少女と同じく。
おもむろにRequiemの柄に手を掛け鞘からゆったり引き抜いた。そして、左手に携える。
剣を握る左手に雷光にも似た鮮烈な光が弾けたかと思えば一瞬にして激しく迸り、大剣が蒼い光を纏う。

「気分……気分、だ? ——ンなもん、端ッから最悪だ‼︎」

建物の扉までは残り五mほど。
ゼクティスはそのまま突っ込まんばかり、一挙動に駆け出した。加速度を乗せ、加重の増した剣を振り上げる。下ろす先は元より耐久性の落ちた木造扉である。大剣の破壊力と蒼洸の解体性能に些かも抵抗出来る訳がない。
扉は二度と本来の役目を全うする事が出来無いほど無惨に、派手な粉塵を吐き出し周囲の壁ごと悉くに吹っ飛ばされた。もうもうと舞い上がる埃が視界を阻むが、収まる間ももどかしい。そのまま先へと足を踏み入れる
粉塵に隔たれた向こう側、微かに虫の羽音に似た音を聞いた。鋭利な殺意を持った何かが一身に注がれる気配を具に感じ取ったが、此処まで来て退く事は許し難かった。
視界も開けないまま、構わず前方へ踏み込んで横凪ぎの剣を斬り込ませた。注がれるはずであった実体の無い斬撃の雨は悉くに弾かれ、Requiemの刃から赤橙色の火花が迸った。
火花が途切れたのを攻撃を凌ぎ切った合図と見て、更に追撃とばかりに上段から剣を降り下ろす。だがこの一撃は何も捉えず虚しく空振り。雷にも似た蒼い光が古びた床板に穴を穿っただけに終わった。
ゼクティスは顔を上げ、前方を見据える。先程の剣戟によって粉塵は払われ、視界を確保出来るまでになっていた。
建物内の様子は頭の中にある記憶と比べ年数の経過を思わせるものの、孤児院として過ごしていた頃と何ら変わらぬ姿であった。偶像や絵画と言った拝すべき対象が何一つ存在しないが、礼拝堂に似た造りの内装になっておりその奥には数段上って祭壇が設けられている。
その前に佇む人影を見紛うはずもあろうことか。ゼクティスは蒼い瞳を細め、無意識に口角を吊り上げていた。

「久し振りに帰ってみれば酷ぇ埃じゃねぇか、先生。掃除はしてたのかよ?」

「生憎と、身内以外で此処に来る者をもてなして歓迎する気はありませんのでね。手間を掛けて整える必要も無いと思いますが?」

壇上には、鈍く光を弾く漆黒の鎧を身に纏った竜騎士が得物の長刀を携えて佇んでいた。兜はゼクティスが破壊し割られたまま、濁った金の魔物の眼が覗いている。

「貴方の方が来るとはね……〝あの男〟ももう少し利口な人間かと思っていましたが……。あれもまた夢に囚われた亡者でしかなかった、と言う事でしたか」

竜騎士──リオは溜め息混じりに「まぁ、良いでしょう」と呟きつつ、静かに空いている方の左手を此方に差し出す。

「〝お遣い〟、ご苦労様でしたね。鍵を持って来てくれるのを待っていました。さぁゼクティス、貴方はその月詠を先生に渡して早々に帰りなさい。……折角拾った命を無駄にしたくは無いでしょう?」

「……あんた、そんな詰まらねぇ冗談言う様な人じゃ無ぇだろ。正気で言ってんのか? 俺が何の為にこんなとこまで出張って来たと思ってる」

「貴方こそ、そこまで状況が見えない愚か者でしたか? 悪い事を言っているつもりはありませんがね、先生の言う事は大人しく聞くものですよ」

話したところで埒が明かない、とゼクティスは大剣を構え直しつつ周囲をざっと見巡らす。が、やはり見える範囲には〝居ない〟かと眉をひそめる。
その時、背後から瓦礫を踏み締める小さな足音が聞こえた。後方を一瞥すれば、破壊された入り口には未だ捌けきれない粉塵が立ち上っている。その中に小さな人影が現れていた。気は進まないが、この期に及んで手段を選んでも居られない。密かに舌打ちを一つ鳴らした。剣を構えたまま。ゼクティスは後方へと大きく飛び退く。

「何を……」

「先生、大丈夫⁉︎ あの、お兄ちゃんがね、──あ」

小さな人影は、ゼクティスの後を追って建物へ入って来たネイエリエであった。ゼクティスは容易く少女の背後を取ると即座に両手首を後ろ手に纏めて掴み、首筋に刃を添わせた。

「あ、ぇ……? ──ひッ!」

少女の喉奥から引き攣った悲鳴が洩れる。何が起きているのか、訳が判らないと言った風に少女は只々両の眼を見開き、ぎこちなく首を動かして此方の顔を見上げた。
自分が今どんな顔をしているのかなど、判る筈も無いがネイエリエの表情を見る限り、恐らくその眼には悪の権化の様に写っているのだろう。
全く以ってその通り。この様な方法を選ばなければ歯牙にも掛けられぬであろう己の非力と浅慮が疎ましい。

「せ、せんせぇ……」

縋る様な声が中途半端に開いた口から洩れる。ネイエリエの大きく見開いた眼には涙が溜まり、ぼろぼろと頬を伝って流れ出す。

「……何のつもりですか、ゼクティス」

表情こそ判らないが、低く押さえられたその声は一層に冷たさを帯びる。
彼女に人質が通用するとは然して期待していなかったが、少なからず効果は有ったらしい。

「……見ての通り、使える手を使わせて貰っているまでだ。こんな真似でもしなきゃ碌に取り合ってもくれねぇだろ。いい加減、適当にあしらわれるのは勘弁だ」

これは飽くまでも此方の要求を耳に入れさせる為の行為であり、この様な下衆い真似はゼクティスとて本意ではない。

「……つまり?」

「あいつ……レヴィアを返せ。知らないとは言わせねぇ」

「……やはりあれに拘りますか。懲りませんね」

ゼクティスの眼に一層深く蒼が渦巻くが、対するリオはやれやれと呆れた様に首を横に振る。そして、真っ直ぐ此方に人差指を差し向けた。

「一つ忠告をしてあげましょう。ゼクティス、今直ぐその子を離しなさい。でないと……」

「い──イイイギいいイい痛い痛ッい痛イノでおしオキシないとオオォアおおぉぉ! タクサんたくさンイっぱい真ァッ赤ニナルるまでえエッええぇぇエェぇ‼︎」

「なに──!」

リオの言葉が終わるのを待たず、突然ネイエリエより禍々しい発狂の叫び声が上がった。何事かと視線を落とすと、ごりごりと不快な音をたてながら少女の背骨から次々に黒々とした突起物が生え出す。
直感的に不味いと察し、半ばその躯を突き飛ばす様に距離を取った。拘束から開放されたネイエリエは身体をくの字に折り曲げ、苦しげに頭を抱える。

「セ……せん……せん先生のぉ言ウ言うこトハキかなぎャダめいケマセぇン……あ、が……わワわ悪いこぅにはオシオき痛いおしおきィ……わわワ、わるッひっギギッヒヒヒ……」

「ネイエ……?」

言語も覚束《おぼつか》ず、とても正気を保っている様には見えない。少女であった時の原形を留めようともせず、変化を続ける本体の背から生え出した十数本の突起は長く伸びる。それは骨を継ぎ合わせた鞭の様にしなると、本体から先行して此方に次々に襲い掛かって来た。
少女の姿は見る影も無く、体長は三m〜四m程であろうか。四つ足で這い回る骸骨の骸の様な魔物の有り様となっていた。
彼女も人ならざる者と予想してはいたものの、まさかこの様な醜悪極まりない姿になり果てるとは。趣味が悪いにもほどがある。知らずに叫ぶ声は悲嘆に似ていた。

「このッ……お前もやっぱり化物かよ!」

初撃、次撃と見極め蒼洸を纏わせた大剣で容易く切り伏せる。しかし更に追撃ちと三本に纏めた鞭が畳み掛けて来た攻撃は、上手くいなし切れずに防御体勢が崩される。その隙に振りかぶった前脚に弾き飛ばされた。
ゼクティスは長椅子や机を巻き込み、またも粉塵を湧き上げて背から壁に叩き付けられる。
受け止め切れるものでもなかったが、避け様もないのなら。と刹那の判断が利き、痛手は最小限に抑えたものの、それでも巻き込んだ障害物から這い出るのに少しばかり手こずる。面倒だとばかりに蒼い剣を半円描く様に振り抜けば、長椅子や机は木の葉の様に呆気なく砕かれた。
だが、間髪置かず向けられていた骨継ぎ鞭の爪先が眼前に迫る。ほぼ脊髄反射で首を捻って避けるが、予想外にもそれは突然軌道を逸れ、ゼクティスの脇をすり抜けて床を穿った。

「……?」

余りの不自然さにわざと外したのかと一瞬訝しんだが、直ぐに気付いた。それよりも〝優先すべきもの〟が有ったのだと。
ゼクティスを無視して巻き戻って行く鞭の爪には、月詠が提げられていたのだ。
弾き飛ばされ、背を打ち付けた衝撃で鞘の固定が外れてしまったのか。碌に言葉を紡ぐ事も儘ならない様な化物の有様でありながら、この判断が出来た事に驚く。
咄嗟に鞭の途中から切り飛ばすが、宙を舞った剣を捉えるには届かず。それを阻む様に纏まった鞭が反対方向から襲い来て、やむ無くゼクティスはそちらを対応せざるを得なくなる。

「邪魔をッ……しやがって……!」

「──ゼクティス」

少しでも気を抜けば受け止めている剣をすり抜けて身を貫かれてしまうだろう。余裕無い所に声を掛けられ、それでも眼だけ動かして声の主を見遣る。やはり、と言うべきか。リオの空いていた左手には装飾剣が握られていた。忌々しく彼女を睨み据え、奥歯を噛む。

「はいこの通り、月詠は没収です。ということでいい加減、諦めてとっとと帰って欲しいのですが……」

「馬鹿言え!」

脳に上がった血が、耳奥で呻っている。
ゼクティスは苛立ちをそのままぶつけるかの様に、ギチギチと不快な音をたてながら押し潰そうとする鞭を弾き返す。共に蒼洸を纏わせた剣によって、それは半分の長さにまで粉微塵に破壊される。
魔物の姿となったネイエリエは苦し気な呻きをあげながら、急速に後ずさっていった。

「あぁ何と酷いことを。魔物の姿になり、耐久性や回復力が上がったとしても身を砕かれる痛みを無くす事は出来ないのですよ。そこまでやりますか」

口先で非難はすれど、どこか他人事にすら聞こえる。

「何言ってやがる、俺もこいつも……あんたを慕ってた連中も散々利用しておいて……あんた、どこまで下衆いんだ」

兜の裏側で薄ら嗤う気配と共に、リオは飄々と「どこまでも」と応えた。

「まぁでも……確かに。折角の里帰りにも関わらず手土産も無しにとんぼ帰りと言うのも、お寂しいものですかね」

「あ?」

怪訝に眉をひそめるゼクティスへ、リオはおもむろに祭壇の影から布に包まれた物を取り出すと軽く此方に投げて寄越した。それは放物線を描いてゼクティスの足元、ほんの一m先に落ちる。どん、と落下する音から大きさに反して重量と弾性もあるのか、大して転がる事無くその場に留まった。
それを覆う布地はほつれて穴が空き、一見するとただのぼろの様にしか見えない、元々白に近い色だったのだろうが、殆どが深い赤色に染まっている。だが、何故か既視感を覚えてしまう。
舞い上がる埃の臭いの隙間に、仄かに鉄の臭いが混じって漂い鼻腔をつく。

「……! まさか」

血が凍るような錯覚を覚え、生理的な吐き気を催し呼吸が乱れ始める。軟弱にも血の臭いに当てられた、と言う訳ではない。ただ単に察し、理解したのだ。
ゼクティスの経験則から、その中身が何であるかを想像するのは容易かった。頑として最も否定したい可能性ではあった。だがそれは無情にも、眼に見える形で確と証明してくれていた。
布の間からは、白い指が僅かに覗いていたのだ。

「私とした事がうっかりしてまして、その辺りはすっかり傷んでしまったもので。それで良ければ差し上げましょう。字面通りの〝手土産〟……如何です?」

そう嘯くリオの顔は表情を作る物など無いはずであるが、それでも酷く歪んで見えた。
気が付けばゼクティスは一層激しく蒼洸を迸らせる剣を携え、唸りとも叫びともつかない声を発しながら放たれた矢の如く駆け出していた。

「死にッ晒せこの外道がァ‼︎」

リオは避ける素振りを見せない。そして既に壇上への階段に脚を掛け、差し詰めたこの間合いならば充分に蒼洸の射程範囲内に入っている。彼女の逃げ場は無いに等しい。このまま剣を振り抜けば必殺させる迄は敵わずとも、リオに重篤な痛手を与えられる事は必定。 しかし、リオの前を阻む様に突如として人影が現れた。

「——!」

それが何者であれ、邪魔をするのならば纏めて斬り潰すつもりであった。
だが、ゼクティスの刃は見えない壁にでも阻まれたかの様にぴたりと止まる。刃先が震える。一瞬、心臓が止まった様な錯覚さえ覚えた。

「おや意外な、未だ理性が残っていましたか」

「……レヴィア、か……?」

随分呆けたその声が自分のものだと理解するまでに、数秒の間が必要であった。
首筋を掴まれ、眼前に差し出されていたのは確かにレヴィアであったが、ほんの数時間振りに再見したその身体は余りに変わり果てた物であった。白基調の衣服は肩から袈裟懸けに裂かれて深い血色に染まり、左腕など長さが足りていない。蒼白に温度を落とした肌に跳ねた血はすっかり乾き、固まっていた。
一見すれば眼を閉じて眠る陶器人形の様にも見える。趣味の悪い作り物であってくれと願わずに居られないが、血臭を纏うそれは作り物にしては余りに生々しかった。
レヴィアのその有り様は正に死人のそれではないか。一体何があったのか、などと憶測を巡らせる事さえ悍しく、ゼクティスは反射的に右手を伸ばしていた。

「おっと危ない」

それより速くリオは玩具を取り上げる様に少女を背後へ引っ込め、邪魔だとばかりにぞんざいにそのまま床へと放る。
右手に携えたDIABOLOSが弾かれる様に跳ね、上段へと斬り上げる。剣同士が擦れ合い、金属を引っ掻く不快な音と共に激しく火花を撒き散らした。
剣圧に押され、後方へと重心を崩された為、体勢を整えようと一旦降り立つ為に階段を蹴って跳ぶ。だが、狙い澄ましたタイミングでネイエリエの鞭ががら空きの背を打ち、引き攣れる様な痛みが走る。背に負った鞘によって深手にこそならなかったが、更に平衡を崩されたゼクティスは無様に床へと叩き付けられた。
ただでさえ既に傷だらけの身。新しく刻まれた痛みに表情を歪ませながらも腕を支えに起き上がる。

「……だから言ったでしょう、帰りなさいと。もう貴方まで無駄に傷付く事も無かったのに」

「何でだ……あんたはそいつが必要だからって連れてったんじゃあ無ぇのか! 何でッ……」

「まぁまぁそう慌てずとも、安心なさい。〝これ〟は今、光使いの防御機能が働き仮死状態になっているまで」

「仮死……だと……?」

呻く様なゼクティスの呟きに「死んではいません。が、生きてもいませんけどね」と事も無げに言い捨てる。

「……だとしても! あんたは‼︎」

リオは壇上からゼクティスを冷厳に見下ろしながらも、視界の端に再び骨接ぎ鞭を構えるネイエリエに気付き制する様に左手を挙げる。やはり正気では無いにしろ、ネイエリエに対するリオの指示は絶対であるらしい。

「何故、か。……うふ、ふふ……あは……はッ……私とて、大事な代替え品を手荒に扱うつもりは有りませんでしたとも。しかし……しかしね、これが余りに不愉快な事を、宣ってくれるもので。使われるしか能の無い屑の……屑木偶の分際で……! 感情を共有し得る他者と共に生きるなど……真っ当に人としての生を望むなど! 全く分相応ではありませんか!」

リオは左手で顔を覆うと、回顧した脳裏に巡るもの全てを否定してやりたいとばかりにに大仰に頭を振った。

「ああ実に穢らわしい……実に醜い……実に哀れにして惨めたらしい……反吐が出る。それはそれはもう、聞くに耐えませんでしたよ」

「だから……だからあんたは、黙らせたって事か?」

そこまで聞けば、リオの次ぐ言葉を予測するのは容易かった。リオは「よく解っているじゃないですか」と嘲笑した。

「それに、聞いたはずです。例え普通に生きたとて、後十年程度しか保たない事に変わり無いと」

「んなの、関係有るか……!」

「まぁまぁ良いではありませんか、境界に組み込まれれれば欠陥製品なりにも立派に世界の役に立てる。無様に生き恥を晒すより、余程価値があると言うものです」

「ふざけんな! 生きる価値を他人如きに決められて堪るか! あんた何様のつもりだ! 筋違いにも程がある‼︎」

「筋違いも何も」とリオは不可解だとでも言う様にわざとらしく、こてんと首を傾げる。

「その筋違いな価値観を押し付けておきながら、最終的に無為に還そうとしているのは〝そちら側〟ではないですか。私はただ、貴方がたがしてきた事を報復と言う形で再現しているのみです」

「再現……だと?」

「そう、再現」とリオは一つ言い置く。

「彼は……No.0は力を持ち得たが故に、この世の救主として君臨せざるを得ず。それ以外に生きる価値無く。己が使命を全うしました。
……ですが、最終的にはどうです。周囲からお仕着せられた使命のまま人柱になったにも関わらず、今の今まで忘却されていたかと思えば……不都合になったからと切り捨てられようとしている」

そしてゼクティスを真っ直ぐに見据えると「貴方も、あの男の写しならば|No.0《ゼロ》が元々無機物でない事くらい認識出来ていたでしょう」と差し詰める。

「今度は、此方が切り捨てさせて貰う側です」

リオは此方に向かって手を伸ばし、まるで自身こそがこの世の采審者だとでも言わんばかりに弁を述べる。

「元より人間なんてものは歯車の擦れた世界の中で、その不備を誤魔化しながらも千何百年と長い間、意地汚く生き延びてきた。業深い貴方がたが得たとしては飽くほどに余り有る僥倖、もう十分噛み締めたでしょう」

くるりと踵を返して身を屈めると、再びレヴィアを持ち上げ今度は肩に担ぐ。そして最後に、もう一度振り返った。

「人の世はどうなっても構いませんが……此処はあの人が身を擲ってまで守った世界です。ほんの僅かでも延命出来るならそうしてやりたいと言う情くらいは、私にもあります。せめて最期くらい、人には役に立って貰わなければ」

「おい、レヴィアを——!」

させじと駆け出すが、行く手を阻むかの様に黒色の骨を接いだ鞭がギチギチと幾重にも軋んだ音を伴って眼前に躍る。
ネイエリエの制止を解いたのか。ゼクティスは忌々しげに一層強く歯噛みする。

「己が業を練り固めた象徴を献じて、早々にこの世から退出願います。他者に蹂躙され、安寧を害され、命を蝕まれる恐怖を最期の最後まで味わいながら脳髄の芯まで刻み付けてね」

魔物特有の錆びた唸り声の向こうから聞こえる、リオの声。

「さぁゼクティス、お帰りなさい。此処より先、貴方にはもう指一本の手出しも許しません。私が貴方に望むのはただ一つ。貴方が少しでも長く、最期の時を穏やかに過ごす事です」

雪崩を打つ様に襲い掛かる骨の隙間から、鈍い紫色を帯びた刃がまたしても振り上げられているのが見えた。
ネイエリエからの攻撃も容赦無く注ぎ、動きが制限された中であの刃を飛ばされたなら対応する術が無い。先程の様に蒼洸で薙ぎ払おうにも、その為の予備動作すら許されない。
だが、滅茶苦茶に振るわれていた鞭が突然何かに阻まれたかの様に一瞬動きが鈍った。
何が起こったのか。余裕の無いゼクティスには理解できなかったが、この一瞬の機を逃してはならない。思考の暇は無い。針の穴の様な間隙に蒼を迸らせた剣をリオに向かって叩き付ける様に振るった。
リオのDIABOLOSから発生した派生刃は弾かれ、またしても爆発的な粉塵が舞い上がる。ネイエリエの骨接ぎ鞭は粗方消し飛び、先程よりも激しく咆哮に近い叫びをあげている。
広くもない礼拝室とは言え、階段を巻き込んで祭壇は大きく破壊され、蒼洸の刃は奥の壁の一部が削られている。我ながら予想外ではあるが、どうやら斬撃はそこまで到達した様だった。
ゼクティスは直ぐ様、立ち込める粉塵も構わず崩れかけの階段を飛び越えて壇上へ登る。しかし何処にも隠れる場所など無いはずの壇上からはレヴィアは愚か、リオの姿さえ忽然と消えていた。
不意にずる、と僅かにぬるつくものに足が取られる感触に視線を落とす。そこにはたった今溢れたのであろう。真新しく赤黒い血痕が派手に散っていた。当てずっぽうに放った一撃でも、端を捉えられたのだろうか。だが、肝心の本体が無いとなれば何の成果も無いに等しい。
「クソが! 何処に行きやがった……!」

また逃げられたのか。遣り場の無い苛立ちに、ゼクティスは思わず握った拳を当てどなく振り下ろした。

「馬鹿が、後ろを見ろ!」

「⁉︎」

此処で聞こえる筈の無い声に反応し、ゼクティスは反射的に振り返る。だが声の主を探すに至らず、眼前には柵を乗り越えてネイエリエがじりじりと迫っていた。

「ネイエ……」

四足歩行の骸骨の化物の姿となり果て、声帯等の発声器官は持ち得ないはずであるが、それはぐすぐすと啜り泣きに似た呻き声を洩らし続けている。

「っひ、ぐギ……痛ぃイ…痛イよ……痛い、酷…いッ……! ヒヒヒド…… 信ジて……タノ…にぃ………。どウし……ギギッおにい、ちゃん……。ねイは……ネイはズッとおにイチゃンノこと……待っテタのに……! マタセンセイトイッジョニグラゼルッデジンジデダノニ‼︎」

更に空《から》の眼窩からは涙代わりにとでも言ったところか、漫ろに赤黒い血が流れ落ちぽたぽたと地に跳ねていた。
それは確かに醜悪極まりない魔物以外の何者でも無く、酷くおぞましい姿ではあった。だが、人と同じ様に恨痛を訴えて嘆く姿は最早哀れと言うより他無かった。

「……いい加減目ぇ覚ませ。良い様に使われてただけなんだよ……。俺も……お前も。恨むんなら、リオを……先生を恨むこった」

よもや言葉が届く理性が残っているとは思っていなかったが、ゼクティスの言葉に反応する様にネイエリエの脚が止まり、ぴくりと僅かに首が跳ねた。

「せんせ、先生ヲ……?」

やがてかたかたと小刻みに震えだしたかと思うとネイエリエは再び上方を仰いで咆哮をあげた。両手を組んで拳を作り、振り上げたそれを鉄槌の如く振り下ろす。

「ふふザケるるなアァぁアッァァあぁアアァーーーー‼︎」

悲嘆の声をあげながら、狙いすらも曖昧に何度も何度も拳を床へと叩き付ける。その出鱈目な攻撃は最奥の壁もぶち抜き、益々この建物を破壊に追いやっていた。

「先生は悪クナい! 先生は悪くない‼︎ 先生ハ悪くなぃ! 先生は悪クナイ‼︎ お前ノセいだ! 全部! オオオ前お前のオ前のッ——が…ぁ……かッ……は」

唐突に、耳障りな濁った声が途切れ、金槌の嵐の様な攻撃もぴたりと止んだ。急速に場が静まる。
それも程無くごしゃ、と言う鈍い音と共にネイエリエの頭部——頭蓋骨が虚しく落ち転がった。

「オニいちゃん……おに…い、ちゃん……お——……」

首を落とされて尚、有るはずの無い声帯から泣き声を漏らす。それも、容赦無く大剣が突き立てられ真っ二つに砕かれれば原形すらも失った。
ゼクティスはネイエリエの攻撃に巻き込まれる寸での所で空いた懐に潜り込み、下からネイエリエの首を剣で突き上げ頭を落としたのだった。
頭部を失った巨体躯がぐらりと大きく傾ぐと、均衡を欠いた躯は壇下へと仰向けに落下した。

「……」

このまま、その姿に見合った通りの骸になってくれれば。ゼクティスは形容し難いやりきれなさに苛まれ、渋面を浮かべていた。
だが、そう思った矢先。頭を落とされたはずの魔物の躯が再起した。統制を失った躯は先程よりも一層滅茶苦茶に、まるで歯車の狂ったぜんまいの玩具の様に暴れ狂っていた。躯だけの状態になっても、魔物としての生命力は未だ有り余っているとでも言うのか。
馬鹿な、とゼクティスは眼を見開く。反射的に大剣を構え直そうとしたが、何者かに背後から肩を掴まれ、引き留められた。
振り返った先に見た顔は、余りに予想外のものであった。

「……カルミラ……?」

顔の下半分を黒色のガスマスクで覆ってはいたが、淡青色の髪に濃紺の軍服姿——そこに在ったのは、見紛うことなきカルミラの姿であった。
いつもの長銃は背に負い、左手にはバレルが二つ並んだ奇形のショットガン。右手に軍刀と初めて見る装備であった。

「ようやく気付いたかこの木偶め」とその眉間には皺を寄せ、ゼクティスにとって見慣れてしまった不機嫌面を相変わらず張り付けている。
また欺かれているのやも、と言う考えも過ったが、余りにも馴染み切った己に対する口の悪さは間違いなくカルミラ本人であると確信出来る。

「あれは放っておいてももうじきくたばるだろう。死に損ないの相手をしている暇は無い」

携えたショットガンを一旦収め、後方の壁を指し示す。

「幸い、あれが壁に穴を空けたお陰で先が拓けた。醜い魔物畜生の分際で、親切な事だ。いや、ただ知恵足らずなだけか」

マスクの中で軽く咳き込みながらも、カルミラは侮蔑混じりに話す。

「……あんま言ってくれんな、あれで一応……元身内だ」

「……ふん、まぁ良い。俺には関わりの無い事だ」

カルミラは先程ネイエリエがぶち抜いて崩れた壁の穴を指し示す。人一人裕に通れる穴の向こうには、この建物の外観からは明らかに不自然な空間が更に奥へと拡がっていた。

「あの竜騎士、どうやら月詠を以て道を開こうとも我々には手出し出来ない様にこのボロ家で塞いでいたらしい。小賢しい細工を……」

No.0に至る途の偽装、或いは門番を担っていたのだろうか。
カルミラ曰くこの先が境界の最端であり、黄泉域との接続区域であるらしい。つまりはそこに境界の要となる〝柱〟が存在するのだ。

「さぁ、もう時が無い。行くぞ」

背後からは未だにネイエリエの躯がのたうち回り、暴れ狂う騒音が続いている。カルミラに促されるまま背を向けかけたが、ゼクティスは最後にもう一度後ろを振り返った。

「……何もしてやれなくて、悪ぃ」

せめて自らの手で楽にしてやるのが筋と言うものだが、今の自分にそれが出来るほどの余裕も猶予も無かった。後ろ髪を引かれる気持ちであったが、カルミラが躊躇い無く先へ進むに従ってゼクティスは今度こそ踵を返し壁穴を潜った。

 

穴を潜った先は、先程の古びた孤児院の建物とは打って変わって長大な石造りの廊下が広がっており、古代の宮城の様に壮麗な建築美に彩られていた。
尤も、一目で解る程度には数世紀単位での劣化が著しく、廃城と言うに相応しい様相ではあったが。

「おいカルミラ、ちょっと待て」

ゼクティスは当然の様に先行く軍服の青年を呼び止め、先程訊きそびれてしまった疑問を問う。
「何だ」

「カルミラ、何であんたが此処に居る? 大体よく判らねぇタイミングで現れる奴だとは思ってるがよ……。そもそも、普通の人間じゃあここの瘴気にやられるんじゃねぇのか」

先ず第一に、何故此処に来てカルミラが現れたのか。
そして第二。ゼクティスにはほとんど影響は無いが、そもそもの大前提としてこの境界内には瘴気が充満しているのだ。通常の人間にとって此処の瘴気は酸の海中の様なもの。気管を覆い、保護した程度では何の意味も無い。こうしてカルミラが平然と立っていられるはずが無いのだ。
「ああ」とカルミラは得心した様に頷く。

「此処の空気の淀みは酷いものだ。その様な無防備な状態で平然としている貴様の気が知れん。先程のボロ家周りに限っては妙に濃度が薄かったが……」

カルミラは不快そうに眉間に皺を寄せ、またもマスクの中で数度咳き込む。おもむろに軍服の上着のポケットを探ると、掌大のプラスチックケースを取り出して此方に示した。
掌に乗った透明なケースに入っていたのは、先刻ユーリックが持っていた蒼洸の結晶体であった。

「総監から貰い受けたものだ。貴様も知っての通り、蒼洸同士は反発作用が働く。完全とはいかないが、これがある程度瘴気避けの役をしてくれている」

小さなケースの中でからからと乾いた音をたてる蒼洸の結晶を見て、ゼクティスは成る程と納得する。聖都で各々解散をした際にユーリックがカルミラに預けていたのはこれだったのか。
しかしマスクで防護して尚も咳き込み、淀みが酷いと話すあたり完全に瘴気を防ぎ切るには至らないらしい。

「で? 少佐殿が何でわざわざこんなとこまで出張ってんだ。何しに来た?」

カルミラは何を知れた事を、と言う風に大仰な溜め息と共に「そんな事をわざわざ言わせるのか」と吐き捨てる。

「決まっている、境界から切り放された後のNo.0の始末だ。貴様一人では到底当てにならんからな。——それに、俺とて光使い。
本来ならば俺が此処に来る可能性も十分に有り得た。俺が此処に現れたとしても、おかしな事ではないだろう」

飽くまで無駄無く簡潔に。淀み無く答える、とカルミラはくるりと背を向けた。

「……以上、か?」

「ああ、以上だ」

カルミラは背を向けたまま、追求を払い除ける様に軍靴を踏み鳴らして歩みを進める。おおよそテンプレート通り、予想内の返答であった。

(まぁ……こいつの性格じゃ、そうとしか言わねぇだろうな)

しつこく問い質したところでにべもなくあしらわれるに決まっている。ゼクティスは軽く溜め息を吐き出した。
先を行こうとしていたカルミラはゼクティスがついて来る気配が無い事に気付き、再び脚を止めた。やや苛立ちを滲ませながら、此方を振り返る。

「何だ? 先程の答えでは不服か? 貴様は未だ俺が温い希望を持っているとでも思っているのか? 期待して貰っても無駄だ」

「は……」

自ら白状しているも同然なカルミラの言葉に思わず面食らう。
カルミラから本心を聞き出すのは容易な事では無い。故にゼクティスは端から言及する事は諦めていたのだが。カルミラの詰めの甘さを見た気になり、笑いが込み上げるが辛うじて堪える。

「い……いや、誰もそんな事言って無ぇだろ。……まぁ、あんたはあんたなりの考えがあってわざわざ此処まで来たってのは解った」

カルミラはつい余計な口走ったかと表情を僅かに曇らせる。
もののついで、ゼクティスは表情を改めて「一つ、光使いであるあんたに訊きたい事がある」と問うた。

「……何だ」

「その、光使いは、致命傷を負うと防御機能が働いて仮死状態になる、ってのは本当か?」

カルミラは僅かに眼を見開き「何故それを……」と狼狽した様子を見せたが、確かにと頷いた。どうやらリオの言っていた事は、事実であったらしい。

「まさか、レヴィアが既にその状態だったと?」

表情を強張らせるカルミラに、ゼクティスは一つ頷いて答える。

「ああ、普通なら死んでておかしくない傷を負わされてた——が、先生……リオが言ってたんだよ。『死んじゃいないが、生きてもいない』って」

「……確かに、その通りだ。以前、総監から窺った事がある」

と言っても、それが可能なのは完成体であるレヴィアのみと言う。同じ光使いであるとは言え、カルミラとレヴィアでは根本的に身体の作りが異なっているのだ。
カルミラは通常の人間と変わらない身体構造を持つものの、周囲から洸晰を一点に集めて操作をする為の演算機関〝Luminous Mind〟を脳内に持っている。それ故、ごく少量ではあるもののレヴィアの様に自身の身体の一部を削る事無く洸晰の操作を可能にしている。
だがそれでは操作出来る洸晰が圧倒的に足りない。境界の人柱として接続し、稼動させるには至らない。

「あれは脳と脊髄以外は単なる洸晰の集合体に過ぎん。言ってしまえば、脳と脊髄のみの生き物だ。
身体の損傷が激しく、脳への栄養や酸素補給が困難となった場合は自己防衛として意志とは関係無く強制的に仮死状態に入るらしい。身体は謂わば境界との接続端子、四肢が欠けようとも一部が残り、中枢機関である脳と脊髄さえ守られていれば接続は何とかなる様だからな」

「……じゃあ、仮死状態になった場合、そこから回復する可能性は?」

低く声を抑え、紫色の瞳を覗き込む。その瞳が、僅かに狼狽に濁る。

「それは……俺には判らない。総監ならば恐らく、回答出来るだろうが……」

カルミラは俯き気味に視線をさ迷わせ、言葉の先を淀ませるとそのまま口をつぐんだ。

「そうか……」

彼に回答出来ない事となると、これ以上は考えるだけ時間を浪費させるばかりか。最も危惧すべき問題の一つだが、割り切らねば仕方が無いかとゼクティスは髪を掻き乱した。

「何にせよ、レヴィアは連れて帰らなきゃなんねぇって事に変わりは無ぇ、か」

「……やはり、陛下と対峙して尚、貴様の考えは変わっては無いのだな……。つくづく愚かな男だ」

「ジェノブロウは俺に何も任せはしなかった。ただ、『後悔の無い様に』って言われただけでな」
ゼクティスは軽く肩を竦め、やれやれと自嘲気味に首を横に振る。

「何でこんな必死になってんだって、俺でもよく解らねぇが……。このままあいつに居なくなられちゃ多分、この先一生後悔を引摺りそうな気がするんだよ。それだけは勘弁だ。
……じゃなきゃこんな苦労してまで辛気臭ぇ場所に来るもんかよ。取り戻せる希望が少しでも有るんなら、そりゃ足掻きもする」

カルミラは暫し神妙な面持ちで目を伏せていたが「ならば」と顔を上げゼクティスを正眼に据えた。

「俺からも一つ問わせて貰うが……人柱を無くして外の魔物は鎮まらない。来訪者からの先導があったとはいえ、既に魔物は此処から堰を切られた川の様に聖都に……表の世に流れ込んで行っている。それはどうするつもりなのだ?」

「……」

「知った事かと、目を背けたまま逃げ続けられるとでも?」

人柱であるレヴィアを代替にさせないのならば、やはり最も根本的な問題が残されたままとなってしまう。
ゼクティスとてその問題をどう処理すべきかを全く考えて居ない訳ではなかったが、抱えた答えは余りに短絡的で、これが果たして正しい事なのか。容易く答えを口にするのは憚られた。
黄泉と繋げている境界の接続機関自体を破壊しようなどと。
しかし、意外にもカルミラは沈黙したままのゼクティスを詰める訳でも、糾弾するでも無く完結に答えを告げた。

「壊せ。破壊しろ。悉くに。貴様のその蒼で、黄泉との繋がりを断ち切ってしまえ」

「は——そりゃ、どういう……」

ゼクティスが口にすれば荒唐無稽だのと侮蔑の言葉を浴びせられると思われていた事をカルミラは明瞭に、これぞ最善解とばかりに確かに言ってのけた。
「何だ、あんたらしくねぇ事言うじゃねぇか」とゼクティスは引き攣った笑いで揶揄するが、これはカルミラ自身が嫌悪すべき、何ら確実性の無い博打だと話す。

「人柱の交換も結局のところ対症療法でしかない。真に黄泉と言う病巣と縁を切り、魔物と言う病魔をこの世から根絶するには、毒に近しい劇薬を以ての治療が必要なのだろう」

「境界を、ぶっ壊す……。確かにそれしか無ぇとは俺も思うが……あんたは出来ると思うのか?」

「貴様にはその蒼洸がある。此処が瘴気に侵されている地である以上、それが蒼洸を扱う貴様には味方する事だろう。必要十分条件は、満たされていると思うがな」

あまり意識していなかったが、境界に入ってからはこれまで一番の隘路であった蒼洸の発動時間の制限が無くなっている。否、時間制限と言うよりは使用量の制限と言うべきか。
思い返せば先の争いでは時間経過、出力量関係無く思いのまま使用が出来ていた。無意識ではあったが、気化した蒼洸である瘴気は自らに集積されて力となり、蒼洸に還元させられていたらしい。
リオが己を厄介だと言っていたのは、どうやら境界での蒼洸の無制限化の事かと今更ながらに納得した。敵方である彼女にしてみれば堅甲無比の鎧と剣の技巧と性能を以て圧倒的に上回る戦力を持っていようとも蒼洸と言う存在は厄介極まりない。あまつさえ境界の破壊も出来る可能性があるとなれば、何としてでも阻止しようと考えて不思議はない。
しかしこれまでの邂逅を顧みた時、あれだけ常に優位に立っておきながらも悉くゼクティスの命を見逃したのは少々解せない疑問として残るが。
だが、そのお陰で最後の機会に恵まれたと言うものだ。

「後はヴィルヘルム……貴様の覚悟の次第だ。貴様に頑として揺らがぬ意志の有る無しに依って後に待つ結果も千差に分かたれよう。問題なのは、貴様が真に志す道が何であるかだ」

カルミラは裁定を告げる裁判官の様に人差し指を真っ直ぐゼクティスに向け、指し示す。
ゼクティスは「ああ解った」と一つ頷くとカルミラの眼を正眼に見据えた。

「じゃあもうあれこれ面倒な事を考えるまでも無ぇ。俺の意志なんざ揺らぐまでも無く端っから一つだ。No.0を片付けて境界を壊して、……レヴィアを連れ戻す。

カルミラ、此処まで来たんだ。この厄介事、あんたも最後まで付き合えよ」

「記憶力の乏しい木偶め、俺も端からそのつもりだと言ったろう。精々志半ばでくたばらないよう努力するが良い」

ゼクティスの言葉に満足そうな笑みを浮かべ、カルミラは踵を返す。眼には、言葉に乗せていた様な嫌味は宿ってはいなかった。

——————

聖都の中央医療局では入れ替り立ち替り、絶え間無く怪我人が運び込まれ、医術の心得の有るものは治療に徹してしていた。聖都内の各地区にも勿論医療支部は有るが、何処も同じ様な状況であろう。
医療局にはロビーや廊下の境無く、何処も甘ったるい血臭と医薬品の臭いが入り交じり、苦悶の呻き声と指示や伝達の鋭い声が絶え間無く響いき、交わされていた。
この様な状況ではあるが誰かの手を借りながらも運ばれて来る者や、此処まで辿り着ける者は未だましな方である。
外はただでさえ魔物で溢れている。
怪我により身動きが取れず、救われる望みすら得られない者も多くいる事だろう。此処まで辿り着けさえすれば例え手の施し様も無く、無情にも黒札を付けられたとしてもある程度身元の判別までは出来る可能性が有る。
そこに従事するイルミリアは、まるで地獄絵図もさながらの状況に目眩一つ起こさず、ひたすらに目前の使命に臨んでいた。
救命の職務と言えば一般的に尊ばれるものではあるが、こう言った状況下ではまるで果物か何かの選別機械にでもなり果ててしまった様な錯覚すら覚える。命の取捨の選択を常に迫られはするものの、実際には切り捨てる方が余程多いのだ。
幾ら技術を磨けども、救える生命力の境界線と言うものは必ず存在する。医療技術などにより多少の変動幅はあれど、それが取り払われる事はけして無い。その点に関しては、つくづく辟易させられてしまう。
そんな煩悶とした考えを脳内に空転させながら裂傷の縫合をまた一つ終え、顔を上げる。
「次の方を」と言い掛けた所で、同僚であるスタッフがすかさず「代わります」と割って入る。

「緊急で施術が必要な方達はなんとか一段落着いた様です。予断は許されませんが、まだまだ長丁場になりそうです。少しでも休憩を回していきましょう」

時間の感覚をとうに失っていた事にイルミリアは我に返る。そう言われて時計を見てみれば、午前三時をとうに過ぎている事に驚いた。
絶えなく酷使され続けた指先の感覚が鈍っている事にさえ、今更ながら気付いた。確かにこれでは、いつ手元が狂ってつまらないミスを犯してもおかしくはないだろう。そうなっては元も子もない。
イルミリアは眉尻を下げて苦笑すると「それでは、宜しくお願い致します」と頭を下げ身を引いた。
先程とは打って変わって人気《ひとけ》の無い後方の廊下へと出ると、改めて青い手術着を纏った己の服装に目を落とす。手袋は勿論の事だが、すっかり返り血に塗れてしまっている。
予備は未だ残っていたはず。一度変えておいた方が良いだろうか。
汚れた手術着一式を手慣れた様子で取り払いながら、夜間灯のみが灯る薄暗い廊下を進んでゆく。

「……あら?」

角を曲がる寸前、イルミリアは見慣れているはずの廊下の景色に違和感を覚える。
元より照明が乏しい場所ではあるが、イルミリアが見詰める先は余りにも不自然に暗すぎる。と言うよりは、濃い闇が立ち込めていると表現した方が正しいだろうか。
普通ならば気味の悪さに引き返す所なのだろうが、あろうことかイルミリアはそろそろと更に近付いて行く。
一介の医師ではあるが、有事となれば戦場にも赴く身。ある程度の危険察知の感覚は備えてるつもりではある。その感覚を以てして、不思議とその闇から不穏な気配は全く感じられなかったのだ。それでも、万一の備えとして護身用のナイフには手を掛けておく。
五m程迄近付いた時。深く空間を支配していた闇が突然一気に集束した。そして驚く声をあげる間も無く、それは瞬く間に人の形を成したのである。
闇の中から姿を現したのは、赤毛で長身の血色の悪い男であった。
長い前髪から覗く眼は闇の中でも目立つ金色で、それだけでも異形の存在感を醸している。その身に纏う衣服は酷く破れており、乾いてはいるものの全身が血で汚れていた。
だが視覚からの情報よりも、肌に刺さる感覚がこの男が疑い様も無く異形の類いであるとイルミリアの脳に訴えていた。

「……此処の、人間か?」

「——っ⁉︎」

不意に声を掛けられるも、咄嗟に返す事が出来ず言葉に詰まる。
明らかに人ではない、得体の知れない存在に相対し、心臓が早鐘を打つ。だが、けして表には出さない様、必死に緊張を宥めすかして飽くまでいつもの柔らかな口調で問い掛ける。

「あ、あら……これはこれは、何とも不思議な御方ですこと……。この様な時間に何の御用向きでしょう?」

形勢など元より此方に分はないが、動揺を悟られれば尚の事終幕へ転がり落ちてしまうだろう。死角の位置に隠したナイフを握る手が震えるが、一縷の願いをも込める様に一層強く握り締め、抜いた。
イルミリアの手に構えられた刃を見るや、男は妖しい見た目とは裏腹に急に狼狽を露にした。そこらの一般人と同じく両掌を此方に見せて、無抵抗の意思表示をして見せたのだった。

「待て、待ってくれ。驚かせてしまったなら済まない。その……この様な為りではあるが、私は貴女に危害を加えるつもりは無い。むしろその逆、助けを乞いたい」

「助け……? い、いえしかしっ……!」

面妖な風貌からは結び付かない言葉にイルミリアは一瞬面食らい、気を許しかける。が、いけないと直ぐに気を張り直す。人を惑わすのは悪魔の常套、これもその類いか。
赤毛の男はちらと窓硝子に写り込む己の姿を確認すると「確かにこれでは……」と納得するかの様に肩を落とし、小さく溜め息をついた。

「兎に角……一旦武器の構えを解いて貰えないだろうか。貴女が此処の……医療局の者であるならば、預けたい者が居る。一刻一秒を争う負傷者だ」

「負傷者っ⁉︎ そ、それは今どちらに……お看せ下さいませ!」

医師たる者として染み着いた性と言うものか。イルミリアは『負傷者』の言葉に反応し、つい先程まで警戒していた事も忘れて男に詰め寄って行く。

「え? あ、あぁ……」

その勢いに気圧される様にたじろぐが、男は何とか首を縦に頷きながら先程自らが現れた時と同じ様に何処からともなく一人の人間を闇の中より取り出した。
男に抱えられた状態で目の前に現れた人物に驚き、イルミリアは思わず息を飲む。声を抑えるべく、口元を手で覆っていた。

「エリザさんではありませんか! 酷いお怪我……これは、一体如何なされて……? いえ、それより此方へ。状態を診なければ……!」

一時の動揺に揺れはしたものの、イルミリアは直ぐに強い眼差しを持った双眸を細め医者としての顔に切り変わる。

「知り合いか、都合が良い」

先程まで色濃く立ち込めていた闇が失せて尚、照明が乏しいこの場では診断も儘ならないとイルミリアは医療器具を備えている部屋の方向へと促してゆく。最早彼女に先程の様な警戒は残ってはいなかった。
相手に敵意も無く、何より重傷のエリザベートの姿を見ては処置が最優先事項である。そしてエリザベートを連れて現れたこの男の正体を、彼女はおおよそ勘づいていたのだ。イルミリアは廊下を進む道すがらに「伺っても宜しいでしょうか?」と前置いて訊ねた。

「もしかすると、貴方が例の〝レイシェント〟さん? エリザさんがお仲間だと仰有られていた……」

初対面であるはずの者の口から自分の名が出た事に驚いたのか、レイシェントは僅かに眼を見開くと躊躇いながらも頷く。
イルミリア「「やっぱり」と苦笑を浮かべて呟くと頭を下げた。

「先程は失礼致しました。その、外見の特徴まではお伺いしていなかったもので……取り乱してお恥ずかしい限りですわ」

「いや……この為りで暗がりの中から声をかけられて。驚かない方が難しい」

レイシェント自身も自覚している様に、衣服は破れ血に塗れた酷い有り様。だが、彼の身体には傷などは窺えない。。その上、立ち振舞いや重心移動を観察しても庇っている様には見えず、怪我を負っている様子は無い。
レイシェント曰く、怪我を負いはしたものの色々と故あって頑丈なのだと曖昧にぼかされた。
ふと改めて赤毛の男を省みると、イルミリアの言葉を反芻し表情を苦いものに変えていた。

「仲間……仲間、か。確かにエリザ達とは暫く共に行動してはいたが……そう呼ばれる資格は私には無い。エリザがこうなったのは全て私の責任だ。本人には気に負うなと言われはしたが……」

そう言うとレイシェントは自責に負われ、苦めた表情を隠す様に顔を背ける。
成る程、この男はエリザベートの言っていた通り。愚直をそのまま表した様な人格であるらしいとイルミリアは心中で納得していた。
イルミリアは処置室の前にやって来ると、廊下の長椅子にエリザベートを下ろすようレイシェントに告げる。状況が状況である為、満足に場所も空いてはいないらしい。イルミリアは一旦処置室に入ると、一通りの道具を乗せた台車を引いて戻って来る。
エリザベートの隣に膝をつくと早速輸血液を繋ぎ、傷の確認に取り掛かっていた。

「随分と服が血で汚れていたから如何なものかと思いましたが……これはお見事な応急手当。まるで教科書のお手本の様ですわ。止血用のこのアルギネート材と言い、きっと共にいらした総監の処置でしょうね。本当に、器用な方でいらっしゃいますわ」

「……?」

「技術局と共同で最近開発して頂いたもので、ナトリウムイオンを含む……それこそ血液等を吸収すると親水性コロイドがゲル化して止血するものです。特に出血の多い傷向けで、ゲル化する際にカルシウムイオンを放出するので止血効果がとても高い物なのですよ」

「……成る、程……?」

曖昧に返事をしたものの、聞き馴染みの無い化学用語の連続にレイシェントは終始怪訝な表情であった。
天職と言うのは、彼女にとっての医術師の様な職務を指す言葉なのだろう。淀み無い説明の間も、イルミリアの手は一切無駄無く処置の為に動いている。
曰く、そのアルギネート材とやらは海草の持つアルギン酸繊維が原料なのだが、内陸に位置する聖都では原料が手に入りにくい為に一般兵の携行品には未だ含まれていない止血材なのだと言う。
エリザベートが絶対安静が必要な状態であることには変わりは無い。だが、優れた処置無くしてはいくら頑丈とは言え此処まで体力が持たなかったろう。
『総監』があの黒軍服の男を指すのだとしたら、エリザベートと共に居た理由こそ判らなかったがその幸運に感謝するべきか。
そしてふと唐突に、イルミリアは此方へ話題を向ける。

「暫しの間でもご一緒していたならばきっとお解りでしょうけれど、エリザさんは仲間やお身内をとても大切にされるお方。エリザさんが仲間と決めた方には確固たる信頼の下、裏表や偽りなどを交える事は有りません。逆に仇を成す者にはどこまでも厳酷であり狡猾……恐ろしいお方に写るのでしょうけれど」

仲間への無条件の信頼、それは至極単純にして美しく理想的ではあるが、そう簡単に抱けるものではない。だが、それをエリザベートは容易くやってのけると言う。些か機械的ですらあるが。

「きっとそれは、エリザさんにとっては当たり前の事なのでしょう。信に足る御方を、貴方を仲間と呼ぶのはごく自然な事。例え何があろうと、彼女の信ずる意志が潰えぬ限り」

「……買い被り過ぎ、ですよ」

先程まで意識の無かったはずのエリザベートから声が発せられ、イルミリアは「まぁ」と眼を丸める。

「エリザさん! 気が付かれたのですね」

「やぁ……ご心配無くミリア殿。ちょっと一眠りしていただけ、ですよ」

腹の肉が削がれているだけに当然ながら、いつもより張りの無い弱い声。無闇に身体を動かせない為、彼女は苦笑しつつ首を傾けて視線だけ此方に向けていた。

「私はミリア殿が仰有られるほど、高尚な考えをしている訳では有りません。相手を信用出来るか否か、眼を見れば直ぐに判ります。その男然り。
これでも数える事すら飽く程に生死の境を越えて来たんだ。その経験上、その辺りの判断にはちょっと自信が有るんですよ」

「その鋭利な判断こそ、他の方には真似が出来ない事なのですけれどね」

「何にせよ」とエリザベートは僅かに腕を持ち上げ、立ち尽くすレイシェントに向かい指を指す。

「たかだか瀕死の重症を負わせた程度で仲間でないなどと言ってくれるな。私の眼が曇っていると言われている様で、心外だ」

「いや、しかし……」

人並みの倫理を備える者ならば、例え赤の他人であろうと本意でなかろうと瀕死にさせては耐え難い自責の念に苛まれるのは当然だと思うのだが。エリザベートは極端に生死への価値観が偏り過ぎていると考えざるを得ない。
対するエリザベート自身は、やはり負傷に関して何も責める気も無い。だがエリザベートが許そうと、レイシェント自身が許せないと言ったところか。曇る顔は尚も納得いかない様子である。
やれやれとエリザベートは一つ息を吐き出しつつ「言ったろう。さっき一発殴らせて貰った時点でもう貸し借りは無し。何をいつまでも気に病む事がある?」と呆れ混じりに先刻の言葉を繰る。そして思い付きとばかりに「ああそうだ。ならば一つ言い付けさせて貰おうか」と次いだ。

「どうしても私の事を気に病んでくれると言うなら……表に蔓延る魔物共をとっとと片付けてくれないか。私の代わりに綺麗さっぱり、な。元々その為にお前を連れ戻した様なものだ。まさか……出来ないとは言わないだろう?」

「……⁉︎」

まるで夕飯のお使いでも頼むかの様に。エリザベートは己の代わりに魔物の殲滅をして来いと容易く言ってのける。一歩間違えば生死に関わる重傷者とは思えないほど傲慢不遜な態度に一瞬面食らいはしたが、気は解されたのか。ふっとレイシェントの肩から力が抜ける。
そうだ、いつもこうなのだ。
よくよく振り返ってみれば、研究施設から無理矢理連れ出されて以来エリザベートには都合良く丸め込まれてばかりである。それも。強引に承服させられているはずなのに不満を引き摺らせず、上手く断ち切っている。
結局最初から最後まで同じ様なやり取りをしている事に気付き、先程まで気を落としていた事など途端に滑稽にすら思えてきた。

「……あぁ判った。その遣い、確かに承ってやろう。全く……どこまでも人使いの荒い奴だ。〝仲間〟を何だと思っている」

端を緩めた唇で愚痴を残しつつ、レイシェントは踵を返す。やがて廊下の闇に融けて、男は姿を消した。それを確認するとエリザベートはようやく人心地ついたと言わんばかりに深く息を吐き出した。
鎮痛剤が利いているとは言え、痛みが完全に消えている訳でも無く。痛む素振りを堪えていたに過ぎない。じりじりと火で炙られる様に身体を蝕ばむ痛みに、表情を僅かに歪めた。
困ったものだと、再び口角をあげて苦笑を溢す。

「……相変わらず面倒臭い男だ。ま、それでいてこそのレイなんだろうが」

「不思議な方、でしたけどエリザさんの仰有られた通りの誠実な方でしたわね」

はて、そんな話をイルミリアにしただろうかと一瞬眉をひそめる。だが直ぐに、ああそういえば仲間達と解散する前に軽くレイシェントの事を話したか、と思い出した。
役割を易々投げ出す様な性格はしていない、と確かに言いはしたがその様な一言程度の言葉をよく覚えているものだ。

「誠実と言うか、単に処世下手と言うか……妙な所で真面目過ぎて器用な生き方が出来ないと言った方が的を射ているかも知れないな、あの男は。愚図愚図と迷ったり煮え切らなかったり。表向きは判りづらいが……中身は私よりもよほど人間臭い」

聞いているのかいないのか。イルミリアは仰々しく成る程成る程、と妙ににこにこと笑みを浮かべて何度も相槌を打って頷いている。話す傍らで、流石にエリザベートは違和感を覚える。そんなに可笑しな事を言っていたろうか。

「……ミリア殿? どうされました?」

「いえ、大した事では御座いませんの。ただ、あのレイシェントと言う御方とエリザさん、とっても〝良い仲〟なのだと思いまして」

いやに含みのある語調に、更に訝しみを強める。一際強調された『良い仲』とは如何なる意味かと考えかけたところで「ああ」とエリザベートは得心する。端から見ればそう言う風にも見えたのだろうかと思えば何とも滑稽になり、傷さえなければ声を大にして笑っていただろう。

「残念、ミリア殿。確かに奴は仲間として信を預けるに値する男ではありますが、そういう間柄では有りませんよ。何より奴には〝先約〟がいる様で。生憎と期待に添えず申し訳無い」

イルミリアは「あら」と意外そうに眼を丸めていた。
嘘を言ったつもりは無い。あの男には耐え難い後悔を抱えてまで、身体を喪ってまでも彼を想うが故にその命を繋ぎ止めた者が居る。しかしながら、理を淘汰して繋いだ命は余りにも醜悪に歪んだ容《かたち》である。直ぐ様捨て去って然るほどに。
その様なものを抱えながらレイシェントが今日まで行き長らえて来たのは、痛烈な強さを持った一つの遺志——否、彼の心にて健在に生き続く意志に依るものであろう。
心を共にして生きる者が居る、と言う意味ではとうに先約が居ると言ってもあながちおかしくもないのではないか。

「恐らく奴を生かしているのは、奴の心の根に繋がるもう一つの御霊なんだろう」

そして当のレイシェントは、赤銅色の穢れ月が夜を照らす屋外へ赴いていた。
先進の技術によって整えられた街並みは今や雑然と荒れ、建物から剥がれたコンクリートや建材が瓦礫となり、舗装も割れた道路に転がっている。土埃の隙間から漂う血臭が嫌がおうにも鼻につく。かつての秩序整然たる聖都の姿からは、一変してしまっていた。
工場地区から先程まで居た医療局まで戻る時もそうであったが、これまで経験した例の無いほどに夥しい魔物の気配が一歩外へ出た途端、洪水の様に押し寄せて来た。

「これは……まるで魔界の有り様だな」

その魔界とやら如何な場所かなど人の空想の産物でしか無いが、眼前に拡がる光景はそう形容するに値する有様である。
普通の人間ならば感じ得ないであろう、内臓まで圧迫されるかの様な気配。もとい殺気にレイシェントは眉をしかめる。だが気配の多さとは裏腹に、表に姿を見せている魔物はそう多くは無い。時折蠢く姿を見付ければ直ぐに槍を飛ばし、急所である頭を撃ち抜いていった。
此方側へ姿を顕現させるのは魔物にとってかなり体力を消耗するらしい。故に大抵は他の個体が現出するのに便乗して現れる為、何処かに集中して現れるものなのだ。
しかしこうも常に色濃い気配に満ちているとなると、何処が集中地点なのかまるで判ったものではない。要所を確実に叩かなければ闇雲に動き回ったところで徒労に終わってしまう。
逐一各地の状況の変動情報が得られる様な物が無いだろうかと考えた時、ふと血臭が濃くなった事に気付き脚を止めた。
舞い上がる土埃で視界が遮られているが、それでも道路の先へと眼を凝らせば半車線を塞ぐほどの巨躯を持つ魔物の陰が腕の様なものを振り回して暴れていた。腕を振り上げた拍子に、姿の判然としない〝何か〟が玩具の様に投げ上げられる。
辺りに満ちた血臭から、その正体は見えずとも判り切っていた。

「……」

腹の底が煮えるのをそのまま表すかの様に、レイシェントは直径三十㎝に及ぶ血色の〝杭〟を精製し、微塵の躊躇い無く魔物へと撃ち出した。回転を伴って直進する杭は舞い上がる粉塵に穴を開け、魔物の頭を肩口から抉り取る様に拐い、宙空で四散させた。
この質量の攻撃を狂い無く正確に撃ち出せるあたり、魔物としての力が増しているのを自覚する。それを素直に喜ぶ気にはなれないが、大きな有効手であるこの力を利用しないと言う潔癖さも元より無かった。

「……この大きさ、融合体だろうな」

複数の魔物の融合によって巨躯を成す融合体は頭部を失ったとしても、部位ごとに独立した活動が可能な場合も多い。頭を失った魔物の躯が動きを止め、大きく傾ぐ。その躯も大鎌で容赦無く小間切れに刻まれ果てた。
個体と液体の境目の様な、どろどろの黒いジャム状の塊と化した魔物の死骸の中心でレイシェントは改めて周囲を見回す。予想通りではあったが、原型を留めていない人間の亡骸が複数転がっていた。血に染まってはいるが、袖や襟の形からして皆軍属の者だと言うことは判別出来た。

「……」

これまでの自身の境遇に於いて軍を疎んじているのは確かだが、個人個人に恨みが有るわけでは無い。ともすれば同胞として今日この地にいた可能性もゼロではないと思うと複雑ではあるが、やりきれなさを拭えなかった。
「——ん?」

一瞬、気のせいかと思うほど微かにだが魔物以外の人の声を耳が拾った。周囲に転がる遺体を注意深く見て回る。恐らく先程の魔物に玩具の如くいたぶられたせいで人の形を留めていない者ばかりだったが、それでも唯一人間と判る者があった。
レイシェントは傍らに跪き、様子を伺う。
辛うじて息はあるものの、身体の傷も深い。顔は尚更酷い有り様で鼻から額にかけて頭蓋が剥がされており、口だけが無念を吐き出す為に僅かに動いていた。手の施し様が無いのは一目瞭然、精々保って後数分といった所だろう。
口の動きを凝視していると「すまない、すまない」と言っている様だった。それが誰の、何に対してのものであれ、親《ちか》い者を想っての言葉である事は間違い無いだろう。

「命を賭して戦い抜いたお前の最期は、誇るに値する。胸を張って……逝って良い」

この状態で此方の声が聞こえているとは思っていなかった。だが、微かに動いていた口の動きがぴたりと止まる。それからは急速に呼吸が弱まり、最後に一度だけ深く息を吐き出すと男は完全に沈黙した。

「……他人であっても嫌なものだな、見送るのは」

重い溜め息を吐き、腰を上げるとレイシェントは簡易的な祈礼を捧げた。
その場を離れようと踵を返し、半身捻った所でふと思い付く。今や亡骸となった男の傍ら、先程とは反対側に回り込むと再び跪き頭部側面を覗き込む。
予想通りであったが、耳には小型の無線機が装着されていた。電源が点いた状態を示す青いランプが点滅している。と言うことは、幸い壊れてもいないらしい。

「このまま使えると良いが……」

個体判別でロックの掛かる高性能のタイプならば無論使えないが。生体判別で遅効ロックの掛かる物ならば、未だ使えるかも知れない。もしこれが未だ機能する様であれば、軍の通信を盗み聞いて魔物の現出状況も掴めるだろう。
男の耳から取り外し、自分の耳へと近付けるとやはり引っ切り無しに各地の戦況の報告や指示のやり取りが交わされていた。
レイシェントは一つ頷くと、無線機の血を外套で拭きイヤーフックを右側の耳に引っ掛ける。此方側なら長い髪が覆ってしまう為、見られる事も無いだろう。尤も、勝手に軍事無線機を拝借したとて、この混乱の最中で一々咎める者も居ないだろうが。

「申し訳無いが、使わせて貰う」

亡骸に向けて最後に一言断りを入れた後。レイシェントは移動の為に色濃い影の中へと朧な姿を窶したのだった。