
もう空に黄昏る陽光の色は僅かも残ってはいなかった。
ゼクティスはこの邂逅で、初めて〝先生〟の持つこの〝DIABOLOS《ディアボロス》〟の刀身から繰り出される斬撃を間近に見た。そして、この刀が悪魔を意味する銘を持つ所以を身を以て理解した。
昔、遠目ながら何度か刀を抜く所を見たことは有った。ほぼ動作も無しに対象物を細切れにすると言う芸当だ。当時は何が起こっているのかなど、眼で捉える事すら叶わなかった。しかし、至近距離で相対した今ならば判る。
懸命に剣の軌跡を追う青眼に気付いたか、女の隻眼が僅かに細められる。
「貴方の目でも捉えられる様になりましたか。そうです、このDIABOLOSは一太刀振るえば見えざる十の爪が敵を刻む。正に悪魔の銘を持つに相応しい剣と言う訳です」
『十の爪』にゼクティスの表情が苦く歪む。集中力を散らしていたとはいえ、視認出来たのは精々三重にぶれた刃の残影のみであった。
仮に視認出来ていたとしても全てを防ぎ、避けるにも避けきるには到底及ばない。刀が振るわれ攻防を交わす度、身体には新しい傷が刻まれてゆく。耐え凌いで機を伺う事も出来ない。まして使い手たる彼女自身も緩急自在に操りながら絶え間無く剣戟を叩き込んで来るのだ。この一撃の重さ、とても彼女の細腕から繰り出されているとは想像出来なかった。
先のカーライルとの一戦で嫌と言うほど味わった騎槍の一突の重さにも引けを取らない程、身体の芯まで届く衝撃。やはり敵方に回すには悪過ぎる相手であった。
「早々に片を付けるつもりでしたが……やはり貴方達二人が相手では、そう上手くはいきませんね」
やれやれ、と表情一つ変えずに呟く。
そう、二人がかりだからこそ未だこうして対等に渡り合う事が出来ているのだ。何よりカーライルの援護の恩恵は予想以上に大きい。共闘の経験が少ない自分と共にあっても互いを阻害すること無く、全く無駄の無い動きで攻撃を突き込んでいる。
それでも、彼女は此方の猛攻をするすると躱している。正に人外並みの反射神経、反応速度だった。やはりと言うべきか、例え四年の時を隔とうと少しも埋まることの無いこの力量の差を思い知りゼクティスは歯噛みする。
「人の為りをしてる内なら何とかなると思ったが……こう掠りもしねぇとはな。ったく、うんざりするぜ……」
槍を躱された為に即座に身を引き、己と立ち並ぶ位置に来たカーライルはやれやれとぼやく。
〝また〟だ。先程から事ある毎にこの男は、彼女をまるで人では無い者であるかの様な物言いをする。
「なぁ……」
「コラ! 前見ろ!」
カーライルに問うてみようと口を開きかけた所で、怒声により遮られる。音もなく眼前に迫る刃に、ゼクティスはほぼ脊髄反射で身を退かせていた。
「——ッ……‼︎」
避けた筈だが、鼻頭から右頬にかけて赤く筋が入る。噴き出した血が顔面を汚し、咄嗟に傷を押さえた。
「おや惜しい。相変わらず紙一重で躱すのが上手いですね」
肝が冷えるとはこの事。運が悪ければ両眼をやられていたかも知れない。実際、狙われていたのだろう。カーライルは呆れ顔で溜め息を吐き出した。
「……便利屋君、頼むから今は目の前の事に集中してくれ。足手まといになるくらいなら居ない方がマシだからよ」
「……悪かった」
言われ様は不本意だが、確かに今のは戦闘中にあるまじき失態だったと詫びる。
「謝る位なら真面目にやってくれ、本気で掛からねえとマジで命落としちまうぜ。アレは君狙いっつってたしな」
「クソッ……!」
再びゼクティスは確と大剣を構え直す。
彼女と向き合う覚悟はある。だが刃を向け合う理由が無い。何も納得出来ず、何も判らないままかつての師に刃を向けられ、相対さなければならないとは何と無情な。そしてこの些細な無情さえ嘆く間もなく戦い続けなればならないのだ。
ふと直上から影が射す。垂直に叩き込まれる、地を穿つ落雷さえ彷彿とさせる一撃を何とか受け止めるも堪えきれずたたらを踏む。
対応されたのが予想外だったか、彼女は意外そうな顔で僅かに隻眼を見開いた。
「ほぉ、これを受けられる様になりましたか。昔は容易く吹き飛ばせていたのですけれどね」
「……ったり前だ! 何年前の話をしてやがる!」
直ぐ様体勢を立て直し、間髪入れずに踏み込んで横一線に大剣を薙ぐがやはり刀に阻まれ甲高い金属音が響いた。ゼクティスの攻撃を避けずに受け止めた事で出来た一瞬の隙も逃さずカーライルが騎槍の一撃を突き出す。
「っと、危ない」
槍の穂先が彼女の身体を貫かんとする刹那、急に跳び上がったかと思うと槍の身を足場に再び跳躍。運動法則などまるで無視した動きでカーライルの背後に降り立つと、彼が振り返る前に刀を振り抜いた。だが、胴を両断する軌道で振り抜かれたはずの刀は脇腹の途中で止まっていた。致命傷に至る寸での所で刀身を掴み、力づくで止めていたのだ。力が拮抗し、負荷の掛かるDIABOLOSの継ぎ目が小刻み震えて鳴る。
「……手を放しなさい、苦しむだけですよ」
掌に刃が食い込み、裂けた手袋の中から溢れた血が滴り落ちて地に跳ねる。カーライルは苦痛に汗を滲ませ顔を歪ませるが、してやったとばかりに口角を上げて不敵に笑みを浮かべた。
「ッはは……! やっと捕まえたぜ!」
「これで、捉えた気で居ますか……。——⁉︎」
更に刀身を押し込もうと力を込めた時、殺気が背後に湧く。振り返るまでもない。気付けば今の一瞬で彼女の背後を追う様に回り込んだゼクティスが、大剣を突き出さんと構えた所であった。
押し込むのは止め、直ぐ様赤く濡れた刀を引き抜くとRequiemの刃の射程外へ一息に飛び退いた。しかし、彼女は藍の片目を驚愕に見開く。
蒼の光が、弾けた。
「なに——、」
射程外へ逃れ、空振るはずであった斬撃は彼女の左肩を拐う様に捉えた。切断とまではいかずとも、左腕は骨ごと関節を断たれた。僅かな筋繊維と皮膚で辛うじて繋がれ、肩からぶらんと作り物の様に下がっている状態。腕としての機能は、もう果たせないだろう。
「——アッ……うぐあっ……あ、ああアァッ……!」
濁る苦悶の呻き声を漏らし、身体をくの字に折り曲げ痛みに悶える。いつの間にかゼクティスの大剣は左手に持ち変えられており、蒼の光の残滓が僅かに舞っていた。不意を突くために今の一撃、一瞬だけ蒼洸を発動させ射程を伸ばして蒼の刃を届かせたのだ。
「便利屋君、よくやった」
地に膝をついたカーライルは脇腹を押さえたまま。呼吸も荒いが、此方に向ける表情は笑みの形を作っている。だが受けた傷は深く、その笑みに余裕は無い。軍服には大きく血が染みていた。
ようやく師に届いた一撃、確実に決定打となる斬撃だ。通常であれば数分の内に死に至る傷と失血である。勝敗は決したかに見えた。
肩で息をしているゼクティスは躊躇いつつも膝をつく彼女に歩み寄り、牽制の為に刃先を突き付ける。
「先生。約束だ、教えてくれ。……あんたは一体、何なんだ? そして、何をしようとしてる?」
かつての師への畏れか、問い質す問いへの答えの恐れの為か。ゼクティスが向けるRequiemの刃先が僅かに震えていた。
僅かな隙をものにした今の攻撃を見て成長したかと思ったが、戦いの中に於いて精神的動揺は完全なる仇となる。身内であった者に情を捨てきれない甘さを残すあたり、未だ青いままか。
未だ彼は何も知らない。この期に及んで尚も、自分が敵であると信じたくないと思ってくれているのだろうか。
彼女が顔を上げると、苦痛の為に脂汗が滲んでいるがその表情はいつもの涼やかなものに戻されている。口角を上げると、僅かに笑い声を洩らした。
「ふ、ふふ……ふ……三一点。今の、一撃は見事でしたが……その様に動揺を表に出してしまっている様では減点も減点です。でもまぁ、万年赤点からは……ようやく、脱出しましたか」
「……先生……」
歯噛みし、複雑な感情を青眼に写しながらも一層強く彼女を睨め据える。
「良いでしょう。……初めて私に刃を届かせる事が出来た御褒美です。私の目的——悲願と言った方が良いでしょう。それは〝この世界の維持〟と〝この世の崩壊〟です」
「あ? 何だと? そりゃ、どう言う……」
相反する言葉を飽くまで同一の目的として並べられ、彼女の言葉の意図が汲めずに疑問符しか浮かばない。自らの騎槍に身体を寄り掛からせて佇むカーライルは、眉間に皺を寄せる。
「言葉遊びたぁ髄分と余裕じゃねぇか。それとも、詰まらない時間稼ぎのつもりか?
こっちにはじきに応援が来る、無駄な抵抗は止せよ」
「ふふ……いえ、いえいえ。言葉遊びなどでは無く、そのままの意味ですよ軍人さん」
片腕で抑えてはいるものの、傷口からの出血は止めどなく溢れ出している。だと言うのにこの落ち着き様は一体何なのか。死の恐怖すら、この人には無縁のものなのだろうか。
彼女は達観した顔で口を開いた。
「難しく考えて貰う程の理由では有りませんよ。単純に、私はこの世が、この世界で呑気に安穏と生きているものが全てが悉く鬱陶しくて目障りで吐き気を催すほどに気持ちが悪くて憎くて憎くて憎くて全部擦り潰したくてぶっ壊したくてそれはそれはもう仕方が無い、と言うだけなんですよ」
裏表の一切無い暴力的な言葉の羅列。動機が何であれ、その根源が見えなければ少しも理解出来ない。
「……何があんたをそうさせてる」
「……解せない、でしょうね、貴方には。確かに言葉足らずでしょう……私の想いを表現するにも、貴方が理解する為にも。では……簡潔に言ってあげましょう。
〝あのひと〟からの大恩を忘れ、無意味な生を享受するだけの卑しい世など最早不要。あのひとを〝番無しの人形〟として存在すら消してしまおうと言うのならば、同等の報いを受けるのが道理。……ですよ」
「〝番無しの人形〟……? 何であんたがそれを……まさか……‼︎」
だが最後まで言葉にするに敵わず、突如として錆び付く金物の様な呻き声がどこからともなく湧いた。見回せば、墨を流した様に闇が深まっている。小さいものなら八〇㎝、大きいものならば二m以上はあろう魔物が次々と姿を露にした。
聖都の第三階層。しかもこんな時に魔物が湧いて出るなど。驚いている暇もなく、魔物は一気に襲い掛かって来る。やむ無くゼクティスは、師に向けていた切っ先を魔物へ向ける。
だが彼女は魔物の襲撃などまるで意に介さず、尚も話し続ける。
「……その昔ね、皇帝に遣えた半竜の騎士が居たんですよ。おとぎ話に出て来る様な、所謂竜騎士と言う奴です。名前は〝リオ・グレイシス〟と言いましてね」
「何で今そんな話を……!」
「——って、思うでしょう? 貴方も知っての通り、私はどうでも良い雑談は好みません」
彼女はおもむろにふらりと立ち上がると、辛うじて繋がっている左腕をあろうことか無造作に引き千切って投げ捨てた。喉奥からまた苦悶が漏れる。
そうして捨てられた左腕へ、複数の魔物が一斉に集る。信じ難い行動に思考が麻痺し言葉が出ない。
「……竜騎士、と言うと……聞こえは良いですが、実際はその娘、竜の様な姿の魔物と融合した半魔だったんですよ。その娘は遣えた皇帝の力で人としての自我を保ったまま、人外の様な力を手に入れたと言う訳です」
話しながらも彼女は手近な魔物の頭を一刀の下、容易く刎ねる。
「まずい……! 便利屋君、早くそいつを殺せ! 手に負えなくなる‼︎」
「は……クソッ!」
だが斬り掛かろうとしたところで大柄な魔物に阻まれてしまう。
彼女は落ち転がった魔物の頭部を拾い上げ、果物か何かの様にそれを握り潰す。そして此方に背を向け、口から体内へ収めてしまった。魔物を喰らったのだ。
「ッ……! 退きやがれこの木偶野郎‼︎」
怒声と共にゼクティスは此方の剣に掴み掛かる魔物の体勢を蹴り崩し、腹を捌く。屍となり血を撒き散らして崩れる体躯の向こう側には、全身黒色の鎧兜を纏った騎士の姿が在った。
先程までの彼女とは違い五体満足。だが、右手に携えるのは紫色の刀身を持つ長刀DIABOLOS——と言うことは。ゼクティスは忌々しげに奥歯を噛み締める。
「……時代錯誤の竜騎士、リオ・グレイシス……だと? それが、あんたの正体って訳か」
「そう言う事です。では、全てに報いさせて貰いますよ」
リオのこの台詞が新たな戦いと、長い夜の幕開けを宣言していた。
——————
しんと静まり返る議事堂内。
無理も無い。数多の人間の命を預かる都市の代表者の筆頭であるはずの第壱都市代表ノクサスが、理想などと言う世迷い言に等しいものを盾に一人異を唱えたのだ。完全に狂言、正気の沙汰では無い。
「導師殿、気でも触れられたか」と誰かが怪訝な声をあげる。
だがそんな事はノクサス自身にとっても百も承知。彼は飽くまで、不遜なまでに穏やかな笑みを崩そうとはしない。案の定、他都市の代表者は何を言っているのかとざわつき始める。だがそれも素知らぬ風に聞き流している様だ。
確かにあのまま場の流れに従っていたならば、此方にとっては最も望まない方向へ総意が纏められてしまっていただろう。しかしこれではノクサスの立場さえ危ぶまれるのではと危惧せずにはいられない。
一体これからどう流れを此方へと反転させるのか、隣に立つレイシェントにも皆目判りかねた。
「この局面にきて理想を掲げるとは、やはり導師殿は未だお若くていらっしゃる。我らの役割は最終的に取捨選択の采配を如何に正確に振るかに尽きる」
「理想など、所詮は目前に置かれた現実を見据える障害にしか成り得ないのです」
——やはり。
現皇帝の擁立によりこの地位に在るとはいえ、代表者の中でもノクサスは特に若年である。そんな彼が第壱都市の代表であるというだけで筆頭の席にいる事に反感を抱く者が居ないはずがない。堰を切った様に次々と彼を揶揄する声があがる。それでもノクサスは一切の動揺を見せず、それどころかざわめく代表者達を制する様に手を挙げる。
「悪いが緒卿方、俺個人への不満や批判は後回しにして頂きたいね。今、俺は彼と話をしているんだ。……そうだろう?ジェノブロウ」
その一言にまたも呆気に取られたのか堂内が静まり返る。今度は皇帝の御名を呼び捨てるなどと、普通ならば即刻不敬として良いところ退場である──筈だが、後ろに控える兵士も表情一つ変えず一切動く気配が無い。これには流石に違和感を覚えた。
皇帝は導師の振る舞いに能面の様な無表情を張り付けていたが、唇の端が持ち上がる。そして柔らかに笑みが浮かんだ。
「……君ならば、そう言うと思っていた」
どういう事なのだろうか。ジェノブロウはこのノクサスの無謀にして愚策としか思えない異議を想定していたとでも言うのか。続く皇帝の言葉を待つ───が、
突如としてレイシェントは全ての思考を中断させられる様な酷い耳鳴りに襲われる。平衡感覚が奪われ、頭を抱える様に耳を塞ぎ足元をふらつかせた。
「——ッ!」
直ぐにノクサスが異常に気付いて振り返る。目深に被ったフードから僅かに覗くだけの顔でも、平素無表情の彼には珍しく歯を食い縛り、表情が苦悶に歪んでいるのが伺えた。肩が上下し呼吸も不規則に荒く乱れている。先程までは平然としていたはずだ。
「護衛の衛士殿、急に……気分が優れないのかね?」
「レイシェント君。どうしたんだ、大丈夫かい?」
ノクサスはレイシェントの肩に手を置いて様子を窺う。彼は何とか正気を保つ様に頭《かぶり》を振り「……私の事は良い」と絞り出した声で早口にノクサスに応える。
耳鳴りは治まるどころかどんどん大きくなり、まるで脳を掻き回す様に彼に影響を及ぼしていた。
「全員この場から離れろ! 〝何か〟が……来ているッ……!」
形振り構わずにレイシェントが叫ぶのと同時に、硝子張りの壁の向こうに朧に渦を巻いて滞空する真っ黒な、生物ともつかないものが現れていた。恐らくは魔物なのだろうが、いつもの様にただの魔物の気配を捉えたにしてはこの身体への干渉が大き過ぎる。此処までの影響を及ぼす事は今までには無かった。
他の者も遅れて一様に黒い影の塊の存在に気付くと、場が一気に混乱の渦中に叩き込まれた。
片膝をついて屈み込んで居る為に状況を目視する事は出来ないが、飛び交う声を聞く限り、流石は聖都の兵と言ったところか。警備兵達は直ぐに避難誘導を開始している様だった。
「あれは……まさか魔物……?」
「……よく、判らんが……恐らくは」
どうやら峠を越したらしい。耳鳴りが徐々に遠退いて行き、ノクサスの言葉もまともに聞ける様になった。だが安堵する間も無く、今度は硝子が砕けるけたたましい音と叫喚が響き渡った。考える間も無く咄嗟にノクサスの肩を掴み、机の下に潜る程の目線の高さまで姿勢を下げさせ、更に影の空間の檻を展開させる。
以前は足止めとして使ったが、本来は〝現実世界に存在する確率を限り無く零に近付け、常闇の仮想空間に存在する確率を百に近付ける〟事で身を隠し、守るものである。
ノクサスに周りの様子は闇に阻まれ一切確認出来ないだろうが、使用者本人であるレイシェントは例外。数分程続いただろうか。騒然とした様子から一転、周囲に静寂が戻ったのを確認してから影の檻を解いた。
「急に目の前が真っ暗になったときは驚いたけど……未だ生きてたか……。レイシェント君、どうなってるんだい?」
「……様子を見る、少し待て」
ノクサスに直ぐには動かない様に制し、空間の裏側にしまっておいた大鎌catharsisをずるりと引き出す。警戒しつつ、ゆっくり机の下から顔を出して立ち上がる。しかし後に残った惨状にレイシェントは眉をひそめる。
「……」
照明も砕かれ、硝子張りの壁面は吹き通しに。万勉無く床には硝子の破片が散乱し、吹き込んでくる強風が破れ放題の緞帳を空しくはためかせている。先程まで盾となっていた机も至る所破壊されて居た為、影の檻を展開していたのは正解だったのかも知れない。
数分前までの壮麗な議事堂の様子などまるで見る影も無かった。そして、身を守る術無く攻撃を受けた数名の兵士達が未だ生気を顔に遺しながらも無惨な姿となって床に倒れ息絶えていた。
議題となっていた危惧が今正に現実の物になるとは。
ふと、兵士の遺体に何かが突き刺さっているのが目に留まる。長い棒状のそれは硝子の破片などでは無さそうだ。まるで手槍のような長さの〝それ〟は見たことがあるか、などと言う既視感ではない。
「これ、は……」
自分も遠隔の対象への攻撃に使っているもの。本来は魔物の体から精製される槍状の飛び道具であった。自分が精製出来るものより倍の長さが有るが、酷似している。此処で一つ、仮説が浮かんだ。
一瞬だけ見たあの姿と言い、まさか自分が融合したものと同じ、或いは片割れの魔物では無いのだろうか。
と言うのも、自分がこうして平素人の形を保って居られるのは半分しか混ざっていないからだ。この手の魔物はそう居るものではない。その可能性は十分に考えられる。だとすれば、あの酷い耳鳴り等を引き起こすほどの激しい共鳴反応も納得できた。
──此処で彼は致命的なミスをしていた事に気付けなかった。
図らずも思考に耽ってしまっていたせいでレイシェントはノクサスの警告に気付いたのは数秒後だった。
「聞こえないのかレイシェント君、また外から攻撃が飛んで来る!」
「……なに」
急に背を押されたかと思うと耳元を刃が掠める。照明の途絶えた薄闇の中に鮮血の色を見た。驚く間も無く右胸と腹に重く鋭い衝撃を受け、そのまま硝子の散乱した床に倒れ込んだ。じゃりじゃりと耳につく硝子の擦れる音が耳元で鳴る。
「ッ……ぐ、ぅ……!」
悪あがきに此方も槍を撃ち出すが、手応えは無かった。
目を開けると、自分の身体から生え出す様に先程の黒槍が突き刺さっていた。まともに受けてしまった為にかなり深く刺さっているのか、たちまち腹から苦い胃液混じりの血の味が込み上げ、鼻につく鉄臭さに堪らず溜まったものを吐き出した。
呻く苦悶の声を洩らしながらも、漸く刺さった物をぶつりと身体から引き抜き投げ捨てる。脳が酸素を求めて荒い呼吸を繰り返すが、その度に後から後から込み上げる吐血に咳き込んだ。水音をたてて床に滴る程の出血ではあった。だが、この程度では自分は死に至ることは無いと判っている。
それより不覚にも庇わせてしまったノクサスはどうなったのか。幾分吐血が落ち着いた所で顔を上げて首を回す。
「導師、は……」
半ば這いずる様にノクサスの方へと近寄る。幸い槍は刺さってはいない。その代わりに左の二の腕の肉が深く削がれたのだろう、真白であったはずの外套は鮮血に染まっていたその他にも至る所、無数に傷を作っている。
深い上に魔物による苦毒の傷、かなりの痛みであるはず。だがノクサスは額に玉の汗を浮かべながらも、口角を上げて笑顔を作った。
「全く……無視は酷いよレイシェント君。これじゃあ……自慢の千里眼も意味が無い」
からかう様に責められるが、レイシェントは反論など出来るはずも無い。いたたまれずに目を伏せた。
「……すまない」
「いやぁ……はは……。しかし驚いた、その怪我で生きてるだなんて……。ごめんごめん、庇った意味無かったかな……」
ノクサスは「お互い様だね」と軽く笑って見せたが急にがくりと俯くと直ぐにその笑みも消え失せる。ゆっくりとその身体が傾いだかと思うと、引き寄せられる様に破片まみれの床に倒れ込んだ。
失血系のショック症状が始まってしまったのだろうか。半端に開かれたままの眼は虚ろ。汗の粒が浮かんだ顔からはみるみるうちに血の気が引いてゆく。
急いで治療を施さねばならないが、自分も手負いの身。既に傷の回復は始まっているがノクサスを抱えて退避するには体力が足りない。しかもいつまた背後から魔物からの攻撃が来てもおかしくないのだ。どうする、とレイシェントは逡巡する。
「未だ誰か居るのか!」
そこへ突然、荒れた議事堂内へ走り込んで来た者が居た。他の兵士はとうに避難誘導に捌けたのでは無かったか。
此方の姿に気付いたか。壊れた机を飛び越え、早足に歩み寄って来たのは先程まで皇帝の後ろに控えていた兵士のソラージュであった。先刻とは違い今度は彼の得物だろうか、円錐形の騎槍を携えていた。
「あの時誰も残っては居ないと確認したはずだが……陛下の仰有る通りだったか。導師殿と、その護衛の者だな? 早く此処を離れ安全な場所へ。迅速な治療が必要であるとお見受けする」
「聖都の兵か……今ばかりは有難い。では、導師の保護を」
ソラージュは何、と訝しむ。一方のレイシェントはふらふらと立ち上がって吹き抜けになった壁に向かって歩を進めた。彼が歩いた跡には赤い道が描かれてゆく。
「おい待て。その傷では……既に死に体の身体で何をするつもりか。止めを刺されに行く様なものではないか」
「私の事は気にしなくて良い。故有って人より頑丈なのでな。何にせよ、あれは私でなければ始末が出来んだろう。……もう一度言う、導師を頼む」
未だ塞がりきらない腹の傷を一層強く押さえ、少しでも出血を留めようとする。傷が塞がろうと流れたものまでは戻って来ないのだ。
最後に念押しするようにソラージュに言付けると、止める間も無くレイシェントは外へと身を投げ出した。
思わず彼の後を追い、床の縁ぎりぎりで踏み留まったが既に赤毛の男の姿は夜闇に紛れ見えなくなっていた。
「……あれが、人の型から外れた戦士……。ならばあの男の武運を祈るしかあるまい」
後に残されたソラージュは険しい表情で呟くと、直ぐに踵を返した。伏しているノクサスの身体を起こし、腕を肩に回させて支えると急ぎ議事堂から離れて行った。
——————
時刻は既に夜の時間。空には細い月が浮かぶのみで、この暗闇の中ならば光に阻まれること無く能力を行使する事が出来る。
姿を見失った魔物を探して外へ飛んだが見当たらず、一旦血色の段幕の様な姿を解くと建物の壁面の僅かな段差を足がかりに立つ。空中移動が出来るとはいえ、ただでさえ先程の失血で酷く体力を削られているのだ。長時間滞空し続けるのは難しい。
「……身を隠したか」
見通しは良いはずなのだが、幾ら眼を凝らせどやはり先程の魔物の姿は見当たらない。だが、あれは必ず何処かから此方を狙って来る。
「──っ! 上か!」
再び耳鳴りが頭に響き、魔物の気配を近くに感じる。上方を仰ぎ見上げると、影の夜闇より一層濃い黒色の塊が在った。反射的に足場にしていた段差を蹴って宙へ逃げた刹那の差で、自分が居た壁の表面が削られる。また黒槍が放たれたか、弾丸並みの速度だった。 頭から串刺しにでもする算段だったのか。削り取られた建材の欠片がぱらぱらと眼下の景色へと吸い込まれて行く。
此方も暗赤色の槍を散弾の如く飛ばすが、本体を透過するばかりで本体に当たってはいない。やはり他の魔物と比較しても、自分と同じく空間を隔絶する能力に長けているらしい。同様の能力とは言え、所詮は借り物の力。此方の身体の半分はヒトである以上、能力の劣化は否めない。
魔物は槍を射ち出すのを止め、大風呂敷の様に身を広げると上から此方に覆い被さって来る。差詰め落下傘と言ったところか。その表面には、人と同じ形の歯が剥き出しになった口が無数に付いており、各々歯を鳴らして開閉していた。その姿に思わず眉をひそめる。
「醜悪な……」
レイシェントはその身を血色の段幕の塊からほぼ人の姿に戻すと、大鎌を構える。今は血色のぼろ布の様な物が外套の様に周囲に纏わり付くのみ。この状態では僅かに滞空は出来ても透過による回避は即座に出来ない。だがあれに取り付かれてしまえば回避すら侭ならないだろう。
大鎌を振るうと、中央から破れ裂ける様に二つに分かれる。だがそれは二手に分かれて避けたのみで攻撃を与えられた訳では無い。恐らく、自分の攻撃はほぼ通用しない。これは飽くまで回避するための突破口を作ったに過ぎない。
二つに分かれた魔物の間を抜けるべく、急速に上昇。だが、直ぐに魔物の元へ身を引き擦り寄せられる感触。振り返るまでもなく端を捉えられたかと舌打ちし、その部分を躊躇い無く切り離した。
「——ッづ!」
再び建物の外壁を足場に降り立つと、その拍子に左足の表面の一部が裂かれる様に痛んだ。僅かな足場を踏み外しかけたが、咄嗟に外壁の引っ掛かりに指を掛け身体を支えて持ち堪える。
外目からではブーツに包まれて見えないが、内側に熱いものが染み広がる感覚から出血していることが判る。姿を変えたとてあのぼろ屑の状態でも自身の身体の一部、切り離せば自身の傷へと直結する。
奥歯を噛んで痛みを堪えて魔物を見据えると、数多あった口の一つには鮮やかな赤とピンク色が混ざった薄い肉片が咥えられていた。表面に白い部分も見えることから皮膚だろう。間も無くそれは魔物の口内へと飲み込まれた。これで疑いは確実なものとなった。
あれは、己の身体に融合している魔物の部分を奪い返そうとしている。
己の肉を喰らった事は、本来食事を必要とせず殺傷のみを目的とする魔物の基本行動から反しているのだ。背を向ける気など無いが、そうなると殊更あれは自分を逃がす気は無いのだろう。
「憎いだろうな……人間に裂かれた挙句、その人間を生かしているのだから」
魔物に応えなど端から期待してはいないが、問わずにはいられなかった。
魔物は拡げた身体を瞬時に渦巻いて、再び塊の状態になると次々に槍を射ち出した。だが軌道の予測さえ出来れば回避は容易い。槍は全てレイシェントをすり抜け、背後の壁に針山の様に突き刺さっていた。レイシェントは僅かに眼を伏せる。
「私もどれだけ貴様の穢れが混じったこの身体を憎んだか。……無為に与えられた時間の中で、幾度死を欲したか」
魔物の因子が身体に馴染むまでの間、延々と続いた気が触れる程の苦痛。そしてその果てに待っていたのは絶望的なまでの虚無感。生きる理由も無く屍の様に過ごす日々。精神は腐ったかも知れないが、だからと死に至る事は無かった。
それは彼女に対する最大の背徳である。その背徳を犯すことは、己にとって如何な拷問よりも、耐え難い。
「……生憎だが、貴様に私の死はやれそうに無い」
またしても高速で射ち出される漆黒の槍。レイシェントは顔を上げると、頭を確実に貫く軌道で迫っていた槍を掴んで止めた。裂けたグローブの中から血が零れる。
「私は未だ死ぬ理由を得ていない。そして貴様ではその理由になり得ない」
掴んだ槍を放り捨て、素早く周囲を見巡らす。此処が都市の中、しかも聖都であるならば〝あれ〟があるはず。しかも最大級の。
(──有った)
直ぐに目的の煙突状の建物の陰を彼方に見付けると、また血色の段幕の姿に身を変えその方向へ向かって飛んだ。案の定、魔物は此方を逃すまいと執拗に追い縋って来る。
眼下に工場地帯が広がり、目的の建物まで後二〇mと迫った所で魔物に追い付かれ食らい付かれる。だが構わずそのまま建造物の最上部へ辿り着いた。寧ろ、そちらの方が好都合。
滑空する勢いのままその身を完全に人の姿へ戻すと、直径約十五mほどの煙突状の建造物の頂上へ魔物と共に縺れ転がる様に着地。その内部からは、眩く輝く金色の光が炎の様に噴き出していた。
これはクェーサーより湧き出る洸晰をエネルギーとして精製する為の精製炉である。自分の攻撃が利かないのなら、魔物が最も苦手とするこの光の中へ叩き落とすより他に手段は無い。幾らこの魔物が回避能力に長けていようと影は光より逃れる事は出来ない。
レヴィアの、光使いの力と初めて相対した時に気付かされた弱点である。
だが、がっちりと食らい付かれたこの状態では魔物だけ落とすだけの余裕は無い。魔物の顎により首の骨が折られるのも時間の問題だ。
「運など巡った事は無いが……。さて、運試しといこう」
自嘲気味に一言そうぼやくと、レイシェントは壁を蹴り炉の中へ一息に身を投げた。
どれ程の時間が経っただろうか、レイシェントは意識を取り戻した。思わず左胸に手を当て、鼓動を確めると自分が生きていた事に先ず驚いた。
「……生きている、のか……。私にしては運の良い事だ……」
今更ながらの運の良さに嫌気が差し、長く溜め息を吐く。どうやら肺も傷付けたらしく、激しく咳き込んだ。
目を開けようとするが、差し込んで来る光が強過ぎて目も開けられない。やはり未だ炉の中なのだろうか。掌で目を覆い、光の弱い方向を探して自分の今居る場所の確認を試みると直ぐ側に扉が有るのが判った。とすると此処は炉内点検用の足場だろうか。
気を失っている間に多少傷は塞がったのだろうが、あれだけの出血の後。意識が飛ぶほど強かに身体を壁か何処かに打ち付けたのだ、まともに立って歩けるはずも無い。
痛み軋んで重いばかりの身体を無理矢理引き摺って、這う様に扉の向こうへ移動したは良いものの、この状態では動けそうに無い。レイシェントは何とか半身だけ起こし、閉じた扉に背を預けて凭れ掛かった。
「……外は……どうなっただろうか……」
やはり血を失い過ぎた。瞼が重い。
再び微睡む意識の中で、レイシェントはうわごとを呟いていた。
——————
国家元首と各主要都市代表者が集まる議事堂が空を飛ぶ魔物によって襲撃された報せが部屋に控えるエリザベート達の耳に届いたのは、事態発生から十分後の事だった。
執政府の施設内は既に安全を確保する為、誘導を促すアナウンスが喧しく繰り返されていた。役職など関係無く数多の人間が混乱の声をあげ、何事か喚き騒ぎ立てながら行ったり来たりするその様は巣を突つかれた蟻も同然だった。
「くそ、廊下に出るのも侭ならないな。全く……秩序の規範となるべき聖都の人間が此処まで恐怖に狂うとは情けない」
エリザベートは苛立たしく息を吐き出すと、嘆く様に頭を横に振る。
「しかし、普通の都市生活者と違って此処の人間は魔物の恐怖を知っているからな……仕方無いとも言えなくも無いが」
この聖都はほんの三年前にも大規模な魔物の襲撃を受けている。かつてエリザベートが異例の大躍進で得た少将と言う階級は、その時の働きを評価されての事。魔物の大襲撃を看破した功労者の一角である程度で、たかが二十代前半の女が英雄だなんだと叩き上げられる程、窮する状況に落とし込まれたのだ。
都市内は安全であると言う絶対定義を覆され、目前に迫った脅威に人々が受けた衝撃と刻まれた恐怖の深さは想像に難くない。だから皆、その恐怖が甦り無様にも戦き逃げ惑う。
更に付け加えるならば、この執政府内に居る人間の割合は非戦闘要員の方が断然多い。もし魔物と相対してしまったならば、抵抗も出来ずに死に逝くしかない。
エリザベートはもう何度目になるだろうか。自身の携帯端末を開くと淀み無くダイヤルのボタンを押し、相手方との通信回線を開いて端末を耳に当てる。
「……。……やはり駄目か」
無言のまま、二〇秒ほど待ったのち舌打ちと共にボタンを押して回線接続を終了させる。
「ゼクトの携帯、まだ繋がりませんか?」
不安そうな顔で此方を見上げてくる金髪の少女へ、エリザベートは頷いて応える。
「これだけ鳴らして出ないんだ。もしかするとあっちはあっちで立て込んでいる可能性が高いだろう。簡単にくたばる様な奴では無いが……。良くも悪くも面倒に巻き込まれるのが上手い男だよ、あれは。——クルシュ、そっちはどうだ?」
呆れ混じりの溜め息を吐き出しながらクルシュケイトを振り返る。彼女もまたエリザベートと同様に、端末機の向こうへ声を届ける事無く通信を切った。
「……クソ! やっぱコッチも繋がらない……何やってんだっての!」
エリザベートと違い、クルシュケイトの表情には一切の余裕は無かった。焦燥の為に冷や汗を流し、歯噛みしている。
現状、自分達が持ち得ている情報は皆無に近い。最初に襲撃を受けたのは議事堂であると言う事だけは判っているが、その場に居た者の安否確認までは出来ていないのだ。クルシュケイトの不安は当然であろう。
「やはり駄目か……どうしたものか。まぁ、導師にはレイが付いている。魔物による襲撃ならば尚更奴はいち早く感付いたろう。最悪の事態……にはなっていないはずだ」
「……うん……そうであることを……祈るよ」
不信心者である自分が祈ると言う言葉を使う事になろうとは。クルシュケイトは皮肉に嗤いを浮かべた。
その時、相変わらず騒然とした廊下からばたばたと転がり込む様に何者かが部屋へと入ってきた。
「あぁ、やっと着きましたわ!」
「ん?」
先ず目に入るのは赤紫色を湛え、ふわりとした長い髪。どうやら女性の様だ。そしてその身に纏っているのは白い外套が付いているものの、聖都軍の制服だった。
彼女は此処までかなり人ごみに揉まれて来たのだろう。壁を支えに項垂れて肩で息をしている。言葉から察するに、人の波の中から弾き出された、と言うよりはようやくこの部屋に辿り着いた。といったところか。
どうしたのだろうかと訝しんでいると、エリザベートはハッと彼女が何者であるか気付いた。これは不味いとエリザベートは咄嗟に外套のフードを被るが、時既に遅し。彼女は顔を上げ、エリザベートと青鈍色の眼をかち合わせていた。
(しまっ、た……完全に油断していた……!)
エリザベートは己の失態を恨み、軽い目眩すら覚えていた。
彼女はじっとエリザベートの顔を凝視し、きょとんと丸めた眼を瞬かせる。頬に手を添え、首を傾げて判り易く疑問の意を表した。
「……あら? 貴女はもしかすると、エリザさん? 何故貴女が……そんな風にお顔を隠して。此処は導師さまのお付きの方がいらっしゃると伺った……のですけれど」
「……いいえ、間違いではありませんよ〝ミリア殿〟」
エリザベートは纏う意味を無くした外套を脱ぎ去り、眉間を押さえると憂鬱に応えた。面識があるらしい二人の様子に、シージスは説明を求めてエリザベートに訪ねる。
「ええと……エリザさん、その方はお知り合い……なんですか?」
「あぁ、聖都軍に属する従軍医師のイルミリア・ヘルディニカ殿。私が此処に居た時には度々世話になった方だ」
イルミリアと呼ばれた女性は他の面々にたおやかな笑顔を向け、一礼をする。
「はい。以後よしなに、可愛らしい衛士さま。それにしてもエリザさん、最近お忙しいのかとんとお見掛けしないと思っていたのですけれど、教団の方と御一緒だとは……お仕事でしたの?」
「いや、仕事と言う訳では……ん?」
エリザベートはイルミリアの言葉に違和感を覚える。部署が異なるとはいえ、遡る事数ヶ月前。己が勝手に聖都から姿を眩ました事が同じ軍内ですら伝わって居ないとは。将官クラスの人間が蒸発したなど、騒ぎにならないはずが無いのだが。世間への体裁を考えメディア等への情報規制を敷いているとしても奇妙な。
このイルミリアが軍医と言う立場もあり、平素より回りに目を配り気を配り、観察を欠かさない世話焼きな性分であるのはエリザベートもよく知っている。彼女だけ知らない、と言うのはとても考え難かった。
下手を事言っては話が厄介になる。どう答えを返したものかと考えていたのだが、イルミリアは此方の沈黙を是と受け取ったらしい。
「あぁ御免なさい、任務ならば言えないのは当然ですわ。失礼致しました」
「任務……いやまぁ……その、ええ」
已むを得ないとはいえ、世話になった者を偽るのは良心が痛む。歯切れ悪く曖昧に濁しつつも、取り敢えず頷いておいた。
そこではたと、女医が現れた本来の目的を思い出したらしく「いけない!」と一つ手を叩いた。
「私とした事が呑気に話し込むなんて! 導師さまがお怪我召されて仕舞われましたので、お付きの方を呼びに来たのです。一緒にご移動、お願い出来まして?」
「怪我ァ⁉︎……ってどの程度で?」
クルシュケイトが思わず頓狂な声を上げるが、イルミリアは対照的に落ち着きを保ったまま応える。
「命に別状は有りませんけれど、少々出血が多いのと……現在、意識がはっきりとしない状態です。治療を施した際、一時意識を取り戻したのですけれど……その後また混濁状態に入りまして。元々体力がある方では無いのでしょうけれど」
簡潔に導師の経緯と容体を説明したところでイルミリアの言葉が途切れる。逡巡の様子を見せ、何か言い淀んでいる様だったが再び口を開いた。
「その、目の周りに変色の兆候が。失血の症状にしては、少し……」
「意識障害、変色……まさか千里眼を……?」
「千里眼……と言うと、導師さまが持つと言われる特別な通力の事ですの?」
「ええ。洸晰の流れを辿り、先見や遠視を行い明確なヴィジョンを己の眼に焼き付ける力です。代わりに相応の疲労が伴う様ですが」
聞き慣れない言葉にイルミリアが首を傾げると、エリザベートが捕捉する。彼女は納得したのか、感心した様子で成る程と頷いた。
「あたしの居ないとこで勝手に怪我しておきながら何やってんの、あのおっさん……!」
「……兎に角、私と一緒に来て頂けます? 此処で話していても仕方がありませんわ。ね?」
悔しげに歯噛みし、肩を振るわせる少女へ柔く、だが強かな声で同行促す。エリザベートは一瞬躊躇うが、この女医の言葉通り此処に留まっていてもどうしようも無いのは明白。導師の安否と居所が判明したのならば、動くより他あるまい。
エリザベートが頷くのを合図に、一同は部屋を出た。
人の流れに逆らいながら施設内の廊下を進み、辿り着いた先は議事堂に程近い位置にある貴賓用の控え室であった。
イルミリア曰く、ノクサスは他の者より遅れての救出だった為、この混乱の最中に医療施設まで移動させるのが難しいと判断したらしい。救出に向かったソラージュが一先ず此処へ退避させ、一番に信頼の置ける医師をとイルミリアを呼んだのだと言う。
エリザベートはソラージュの名を聞いて一層表情を曇らせる。その男は、彼の双子の弟であるカーライルと共にエリザベートにとっては面識ある人物である。この状況で己の謀反云々を問われるなど考えにくいが、出来るならば直接の面会は避けたい人物であった。
「ソラージュ殿がなぁ……」
「『ソラージュ』? って……」
ぼそりと名前を呟くのに、隣のレヴィアが反応する。最初にゼクティスと共に聖都へ着いた時に自分を迎えに来た男が確かその名を名乗っていなかっただろうか。ふと思い出し、少女はエリザベートの耳に口を寄せ小声で話し掛ける。
「もしかして灰色っぽい髪で、背が高くて、ちょっと顔の怖い軍人さんですか?」
レヴィアの口からソラージュの名前が出た事を訝しみ、エリザベートは「何?」と眉をひそめる。外見的特徴も一致している為、どうやら人違いでも無さそうだ。
「何故お前が知ってるんだ? ソラージュ殿は弟君のカーライル殿と共に、皇帝陛下の近衛をしておられる方。特にあの方は陛下の指示が無い限り傍を離れる事など無いはず……」
「そうなんですか? 私が初めて聖都に来た時、聖都軍基地まで案内してくれたのがそのソラージュさんって人だったんです。……そんなに上のひとだったんですね」
レヴィアは改めて驚いた様に眼を丸める。
(とすると……レヴィアの件は直接であれ間接であれ、皇帝陛下が指揮を執っていた可能性が……?)
まさか、と思わなくもないがレヴィアの光使いの力が世界の仕組みの根底に関わる力であると知った今ならば、あり得ない推察でもない。光使いの少女を一緒に連れて行くのはやはり不味いだろうかと今更ながらに考えるが、今の状況では散けて行動する方が余程危険だろう。
イルミリアが「失礼致します」と挨拶も程々にドアノブを下げて押すと、控え室のやけに重い扉が開く。少し押し開いた所で中から強く引かれ、一人の男が慌てた様子で姿を見せた。エリザベートも見上げる長身のその男は、今正に話題にしていたソラージュその人である。
「ミリア君。良かった、無事戻ったか」
「ソラさん! ええこのイルミリア、心配せずともちゃあんと戻って参りましたでしょう?」
イルミリアは片目を瞑って笑って見せるが、当のソラージュはやれやれと言わんばかりに眉間を押さえて溜め息を吐く。
「俺が行くと言ったのに、全く君は……」
「何度も申し上げますけど、今ソラさんは陛下と導師さまの御身をお守りするのがお仕事。簡単に傍を離す訳には参りませんもの」
どうやら自分達の元へ来るまでに、どちらが迎えに行くかで一悶着あったらしかった。
ソラージュは過ぎた事を言っても詮無いと気を取り直し、皆を中へ入るように促す。と、そこでレヴィアを伴ったエリザベートと目が合った。
「……」
「もう被り物は取ったのか?」
「やれやれ……端から気付いて居られましたか。まぁ奥方にもばれてしまいましたからね。それにしても意外な、私の首などとうに懸賞金でも掛かっているものと思っておりましたが?」
どうやら、とうに此方の事は気付かれていたらしい。エリザベートは拍子抜けし、肩を竦めて皮肉っぽく笑う。それに応えるかの様にソラージュもまた薄く笑った。
「皆の英雄の首に金など掛けられまい」
「御冗談を」
「知っての通り、俺は生憎と冗談は不得手だ。……さぁ、貴女方も中へ」
あれだけの騒ぎを起こし姿を消しておきながら咎められる事無くまして不問とは。非常事態の只中とは言え、一体どういう話になっているのだろうか。気になる所ではあるが、ノクサスの事が優先だと思考を切り替える。
最後にエリザベートとレヴィアが部屋の中へ入ると、扉は閉じられた。
個室である筈だが、賓客用とあって中は広い。藍の色調で纏められた部屋の奥には、大人が二人並んでも寝ても余る広さの寝台が置かれている。カーテンで遮られている為、此方からは中の様子は判らない。
その傍らには白基調の礼服を着た黒髪の男が後ろ手を組み、寝台の中を見詰めて佇んでいた。黒髪の男は此方の気配に顔を上げる、と口の端に笑みを浮かべた。
「陛下、部屋に待機していた者は到着致しました」
『陛下』と呼ばれたその男はソラージュの言葉に一つ頷くと、寝台へ視線を戻した。
この様な呼称で呼ばれる者など皇帝を於いて他に居ない。想像していたよりも随分と若いが、この男が皇帝ジェノブロウで間違い無いのだろう。
「ああ、丁度良かった。彼も先程より意識が確かになってきた所だ。……〝エイミール〟、聞こえるかね?」
「『エイミール』……おっさんの旧名だ……!」
ジェノブロウが呼んだ聞き覚えの無い名にクルシュケイトだけは耳聡く反応する。その名は、導師が〝ノクサス〟と名を変える前の彼の旧い名であった。
そしてカーテンの向こうから聞こえて来る声で、確信を得た。
「未だあまり頭が回ってないけれど……君がようやく人間らしい物言いをしているっていうのは判るよ、ジェノブロウ」
「それは結構」
クルシュケイトは体裁など取り繕ってもいられず、寝台の側まで慌ただしく駆け寄った。そして遠慮無しにカーテンを掴んで荒く払い除ける。
「導師ッ!」
そこに在ったのは紛れも無くノクサスではあったものの、その姿はあまりにも変わり果ててしまっていた。
治療の為か左側の服の袖は無くなっており、薄赤く色が滲んだ包帯が巻かれていた。寝台の脇には治療に使われたであろう大量の布が袋に纏められており、四分の一程の面積が血に染まってしまった外套が置かれている。それを見るだけでもかなりの出血量であった事が伺えた。
だが、それよりも異様だったのはノクサスの顔——その眼である。この出血量で顔色が芳しく無いのは当然とはいえ、鬱血でもしているのだろうか。その眼の回りは黒紫色に変色し、淡い青紫色であったはずの瞳は白内障の様に白く濁り切っていた。
「……ッ⁉︎ これ、は……」
この様には流石にクルシュケイトも絶句せざるを得なかった。部下の声に気付き、傷を負っていない方の腕を支えに身を起こそうとするが、自身を支える力も無いらしい。ジェノブロウが背を支えて漸く半身を起こした。
「その声は……あぁ、もしかしてクルシュかい? ごめんごめん、目がよく見えなくてね……気付かなかった。ぼんやりと大体の色しか判らないんだ」
言葉を失った侭でいるクルシュケイトにノクサスはいつもの調子で少し肩を竦めると、眉尻を下げて困った様に笑ってみせた。
事実、視力が著しく低下してしまっているのだろう。ノクサスは眼球を動かして此方の姿を探している様だが捉えらえきれておらず、明後日の方向を見ている。元々眼鏡を掛けて視力矯正はしていたが、例え裸眼でも個々の人間の認識が出来ないほど弱くはなかったはずだ。
「ああでも、お前の頭は色が判り易くて良いね」
ノクサスはゆっくりとぎこちなく包帯の巻かれた左腕を持ち上げ、その手を伸ばす。クルシュケイトの頭に掌を乗せてやると、ぽんぽんと軽く二度叩いた。冗談めかして笑ってはいるが、その手はまるで氷の中に浸けられてでいたかの様に固く、冷たく、血色の悪い掌であった。
「呑気言ってる場合かよ! 何であんたがンなことになってんの! ……その眼はなに、一体何を視たってんです?」
だがノクサスは飽くまで穏やかな語調を崩さず「クルシュ、この通り、俺は大丈夫だよ。落ち着きなさい」と諭す。そこにエリザベートが質問ついでともう一つ疑点を問う。
「導師……レイはどうしたのです? 奴は何処に? その、お労しい姿と言い……私達の知らぬ間に何があったのですか」
「ええと、そんなに酷いのかい?」とノクサスは僅かに笑顔を引き攣らせる。イルミリア曰く、鎮痛剤を入れ痛みを抑えているせいで自覚しにくいのだろうとの事であった。
「……あぁ、趣味の悪い女の厚い隈取り化粧か、末期の薬物中毒者に見えるね」
「あぁ……成る程。ははは、それは確かに酷い。流石に俺の千里眼でもこの聖都の全域を同時に観測するのは負荷が大きかったか……」
「……この聖都『全域』を『同時』に?」
口を開いたのは距離を取って佇んでいたジェノブロウであった。信じられない、とでも言う様に表情を強張らせる。そして額を抑え、溜め息を吐いた。
「そんな事をして未だ僅かに視力が残っているとは……そちらの方に驚きだよ。君の眼でなければ負荷に耐えきれず蒸発するか、眼の周囲の組織が死んで腐敗しただろう。……最悪、腐敗が脳まで進んで死に至る事も充分に考えられた」
「おいおい脅かさないでくれ」
「脅しではない」
「……俺なりに出来る事をしたくてね。状況把握の為に視野を拡げて視てみれば、魔物は聖都全域に湧いている様子だった。各区画の状況報告を待って対応していた様じゃ後手に回る一方。戦力は僅かも無駄には出来ない。その為にも、正確な分布図が要るだろう?」
そう言うとノクサスはソラージュを呼ぶ。視力を失い図面が使えない為、全て口頭で伝える形となったが彼は千里眼が視た事を一片も漏らさず伝えた。
「俺が観測した時点から五分ほど先の情報だ。俺がどのくらい寝ていたのか判らないが……未だ誤差は少ないと思う。使えそうかい?」
「無論です」
ソラージュはジェノブロウに目配せをして心得た様に頷くと、軍部への伝達の為かその場を離れた。
「全く、無茶な事を……」
「たった数人でも良いんだ。少しでも多くの命を拾えるなら……理不尽な死への未来を変えられるなら、眼だろうが幾らでもくれてやるさ」
殆ど見えておらず、眼としての機能はほぼ死んでいるはずの双眸であったが、一層強く意志を宿して生きている様に見えた。そしてノクサスはいつもの様に笑みを閃かせる。
「でなければ導師なんて大層な椅子には座れないよ。そうだろう? 視力は……体力が回復すれば千里眼でも代用出来るだろうし」
「……そうか。導師ノクサス、君の協力は何にも代え難い力だ、感謝する」
ジェノブロウはその眼に映る意志の目映さに応える様に、確と頷いた。
ノクサスはさて、と一つ区切りを置くと表情を曇らせながら再び口を開く。
「次に気掛かりなのはレイシェント君の事なんだけれど……俺が覚えている限り、彼の方がよほど酷い深手を負っていたはず……詳細まではすまない、記憶が曖昧で判らないんだ」
ノクサスは申し訳無いと言わんばかりに首を横に振った。
エリザベートも顎に指を沿え、姿を眩ませたレイシェントの行動の可能性を探るも見当が付かない。傷を負っているのならば、尚更此方へ戻って来るものでは無いだろうか。
「元々あの男は考えを表には出す事は滅多にありませんが……自分の役割を易々放棄する様な半端な性格でも無い。むしろその逆だ。しかし、姿が見えないとなると……戻っては来られない状況下にあると考えて良いかと」
「レイシェント、と言うのはもしかすると赤い髪の男か?」
そこへ軍部との通信を終えたらしいソラージュが戻って来る。エリザベートは戸惑いつつも「ええ」と頷いた。
思い返せば確か議事堂からノクサスを運び出したのはソラージュとの事。レイシェントと最後に顔を会わせたのはこの男だろう。しかしそれだけで誰の話をしているのか判るとは、何と察しの良いことか。
「奴をご存知で?」
「いや、導師殿を頼むと頼まれた際に一瞬だけ顔を会わせただけだ。あの魔物の始末は自分でないと出来ないと議事堂から飛び出して行ったが……その後は完全に姿を見失った」
ソラージュは首を横に振って応えた。
やはり、自身も手負いの身であるにも関わらず魔物の始末を優先させたのか、何とも愚直な男だとエリザベートは半ば呆れてしまう。
「くそ、世話の焼ける男だな……」
「レイさん、大丈夫でしょうか……」
「……」
レヴィアの言葉に返すべき答えは持ち合わせていない。ただ渋い顔で無言しか返すことが出来なかった。
沈黙を打開すべくノクサスが「それじゃあ」と声を上げて提案を持ち掛ける。
「俺がまた〝眼〟で居場所を探ってみるのは? 恐らくこの第三階層までならきっと……」
「エイミール」
「導師ッ!」
ジェノブロウ、クルシュケイトが同時にノクサスを諫める様に声をあげた。
「君が今また千里眼を使えば今度こそ、本当にどうなるか判らないと……理解出来ているかね? 無論、完全なる失明では済まないだろう」
「ンなのはホントにッ……! 勘弁して下さいよ、導師」
切迫した二人の言葉に気圧され、ノクサスは一瞬たじろぐ。だが彼もけして半端な考えのつもりで言っている訳ではない。その場だけの単純な感情のまま言葉を口に出す程、ノクサスは愚かな人間でも無いつもりだ。
「しかし他に良い方法が有るとでも? 無駄な人員も割けない、この広い聖都を探し回る余裕もないこの状況で」
客観的に現状を鑑みても、確かにそれ以上の有効手は無いだろう。
「彼は俺が引き入れた仲間の一人だ、助ける義務がある」
「導師、それは私達も一緒です。奴が危険な状況に在るならば助けなければならない。ですが……」
皆一様に口を噤んで押し黙る。頭では理解しているのだ。だが、理屈だけで簡単に頷ける事でも無い。そこにエリザベートの陰に添う様に居たレヴィアが「あの」と遠慮がちに声をあげる。
「ノクサスさん、私の力……何かお手伝いに使えませんか? 少しでもノクサスさんの眼への負担が減らせる様に。千里眼は、洸晰の流れと同調して遠いところの情報を読み取る……んでしたよね?」
突然何を口走るのかと傍らのエリザベートが戦く。
「いや、レヴィアちゃん……それは……」
仮にも此処は光使いの力を求めている敵の陣中只中。そして直ぐそこに居るはずのジェノブロウは、会議の先刻の場で『光使いは人柱として利用する』とはっきり明言していた。あの時の彼の人格に対する明確な違和感と、今の親しみ馴染んだ雰囲気の差はあるものの不用意に光使いの話を出すのは宜しく無い。
ノクサスはレヴィア自らが光使いの力を使う提案をしてきたこと、そしてその発想に驚き思わず首を横に振り掛けたが、いや待てと黙して考える体を取って様子を伺う。
ジェノブロウは、此方の思惑を見透かしたかの様にタイミングを図って口を開いた。
「……レヴィア君、と言ったか。随分と大胆なお嬢さんだね。それを言ってしまうのは君が光使いであると手の内を晒してしまっている様なもの、軽率だとは考えなかったのかね?
こうして場を共にしては居るが、私達は君の〝味方〟では無いのだよ」
相変わらず笑みは浮かべているものの、レヴィアに向ける青色の眼光は鋭い。場の空気が更に温度を落として張り詰めるのを感じる。
だが、レヴィアは全く意に介さずいつもの柔い笑みを浮かべてみせた。
「でも〝敵〟でもありませんよね?」
「…………ほう、成る程」
笑みすら忘れる程の驚愕だったのか、ジェノブロウは一瞬僅かに目を見開いて驚きを露にしていた。だがそれも直ぐに正されたかと思うと、破顔した。
「はは、これは驚いた。……君はどうやら、物事や人の本質を見る才能が有る様だね」
「私が光使いだって判ってるはずなのに、何もしてこないのがずっと不思議でした。それに、タイプは全然違いますけど……他にも、何と無く貴方と似た様なひとを知ってますから」
「それは興味深い」
張り詰めた空気は解かれた様である。ジェノブロウは一つ頷くと「だが」と逆接を置いて続けた。
「此方の意志としてはこの世界の形を維持する為にも、君を道具の様に利用するつもりであるのはやはり変わらない。その事は忘れず覚えておいて欲しい」
「……はい、解ってます」
光使いの応えに、ジェノブロウは満足そうに頷いた。そして終始固唾を飲んで流れを聞いていたノクサスが大仰に溜まった息を一つ吐き、わざとらしく揶揄する。
「ジェノ、あれかな。皇帝と言うのは想像するより遥かにヤクザな商売って所かな?」
「だが、〝私〟で良かったとも思っている」
やはり彼の真意は計りかねる。先程から何のアクションも無い事に不信感さえ抱いていた所だが、先の彼の言葉。やはり敢えて此方側に勝手をする余地を与えていたのだろう。
わざと人を右往左往と泳がせ、嗤って愉しむ様な性悪な人格では無いことをノクサスは知っている。ジェノブロウなりに何らか別の意図を持っているのは汲み取れた。
ならばこれまで通り此方の行動に無用な阻害をする心積もりは無いのだろう。ノクサスは心中一つ頷いた。
「……解った、じゃあ話を戻そうか。眼を使って情報を探るのに何が一番負荷が掛かるかって言うと、膨大な情報の中から必要な物だけを選り出す選別の処理だ。……レヴィアちゃんの洸晰を導線にさせて貰えるなら……うん。かなり楽が出来るとは思う」
お願い出来るかな。と尋ねれば、間髪入れず「はい!」と答えるレヴィアの溌剌な返事を聞いた。
レヴィアの身体を形作っているのは、彼女の体組成の情報以外何も付随されていないほぼ純粋な洸晰。であれば、その分情報の選別の処理に掛かる負荷は大幅に軽減されるだろう。
但し、逆に言えば欠点もある。それは使える洸晰の量に限界が有ると言う事だ。導線にする、と言うのは具体例にすると蜘蛛の巣の様なものである。探査範囲に洸晰を網状に張り巡らせそれを千里眼と組み合わせることでセンサーとするのだ。広範囲に拡げようとすればそのセンサーの網目の隙間が比例して拡がり、精度は格段に落ちるだろう。
仮にレイシェントを見付けられたとしても、彼の置かれた状況まで探る事は出来まい。だが、今はその程度でも充分である。
レヴィアはノクサスの寝台の傍らに歩み寄り、椅子に腰掛けると「ちょっと失礼しますね」と断ってから自らの手を重ねる。やはり血の気を失っている手の冷たさには表情を曇らせたが首を振り、意識を確と集中させるべく目を閉じた。
数秒もしない間にレヴィアの身に変化が起きる。
乖離に伴って可視化した洸晰により、少女の身体は黄金色の光を纏う。そして光は聖都に張り巡らされるべくレヴィアの元から四散した。後に残ったレヴィアの髪は首筋が覗く程に短く、片腕の肘先は無くなり、両膝から先も無くなっていた。中身を失ったブーツは床に落ちていた。
聖都第三階層を駆け巡る様に張られた洸晰の投網は視認が困難なほど極細の物であるが、線と線が交錯した箇所は金の光が瞬き、夜闇と相まってあたかも星空が地上に降りてきたかの様な情景を作り出していた。
だが、今はそれに目を向け楽しめる状況では無い。この場を満たすのは、緊迫の空気のみである。
ノクサスは一つ頷くと「では、始めようか」の言葉を合図に意識の眼を飛ばした。
──だが、僅かもしない内にノクサスの様子が急変する。
彼は既に変色している目を手で覆ったかと思うと、くぐもった呻き声を漏らし踞る様に上半身を折る。
「がッ……つ…ぅっ……‼︎」
レヴィアの手が重ねられた左手は、持ち上げることもやっとであったはず。それが震えるほど強くシーツを握り締めている。
「ノクサスさん? ……ノクサスさん! 大丈夫ですか⁉︎」
片方は同調しもう片方は無くしている。己の腕を伸ばすことが出来ないレヴィアは、慌てて下からノクサスの顔を覗き込む。長い藍の前髪が落ちてきているせいで窺い辛い。
苦悶の声を堪えている為か食い縛った口からは粗い息が漏れ、目を押さえた手には赤い筋が伝っていた。目から出血しているのか。
——もしかすると、自分は間違った提案をしてしまったのかも知れない。
レヴィアの顔がみるみる青褪め、身が凍るような錯覚を覚えた。
「の……ノクサス、さっ……め、目から……血がっ…! ——これ以上は駄目です! 戻ってください‼︎」
消耗し切った今のノクサスでは、導線の補助があっての遠視も負荷が重過ぎたのだろう。だが彼は一向に遠視を止めようとはしない。完全にノクサス本体の意識を飛ばし切っては居ないはず、聞こえてはいるのだろうが。
「導師! 聞こえてんでしょう⁉︎ 呆けて耳まで遠くなったかよ! 中止だっつってんの……もう良いからさっさと戻れってのおっさん‼︎」
クルシュケイトも肩を揺すってほぼ暴言をぶつける様に呼び掛ける。ようやくノクサスは反応を示すが、やはり此方が期待してはいないものであった。
彼は踞ったままの体勢で目を押さえていた手を離し此方を制する様に、自身の血に塗れた掌を向けた。
「……っ、だ…大…大丈、夫。あ、ああ あ……後ともうす……少し」
言葉を紡ぐことさえ危ういのか。いつもの穏やかな口調で繕おうとしているのだろうが、全く意味を成してはおらず聞き取るのもやっとだ。
「何が大丈夫なものか……おいレヴィア、強制的に遠視を終了させることは出来ないのか?」
だが、エリザベートの言葉にレヴィアは泣きそうな顔で「多分、無理です」と首を振る。「何故」と続くの問いを引き取ったのは、ジェノブロウであった。彼もまた、険しく表情を曇らせている。
「今、彼の意識はレヴィア君の洸晰と同調してしまっている。つまり、レヴィア君の洸晰の中に彼の精神は同化してしまっている状態にある。もし仮に正しく切り離しをしないまま強制的に洸晰の展開を終了してしまったならば……精神は二度と戻らないだろう。……良いところで植物状態。最悪の結果ならば連鎖的に魂まで崩壊しての死、だ」
「……導師の意識が遠視を終わらせるか、自分の意志で戻ってくるかを……大人しく待つしかないと」
ジェノブロウはただ静かに頷き、神妙な面持ちで黄金色の星空の様な風景の拡がる窓の外を見遣る。
「千里眼による負荷を軽視し過ぎた。引き返せない以上、彼を信じて待つ。それが今の我々に出来る唯一の策だ」
皆は再びノクサスの方へ視線を戻すが、ジェノブロウは外の風景を見詰めている。ふと数歩、硝子張りの窓へと歩み寄って見下ろすと人知れず眉を潜め、呟いた。
「——!……まずい」
「陛下、如何されましたか」
「どうやら〝来訪者〟に此処が見付かった様だ……魔物が見えた。先刻襲撃された飛行型の物では無いが、壁面を登って来ている」
「魔物、ですと……⁉︎」
耳聡く『魔物』の単語を聞いたエリザベートが反応する。ソラージュは、此方へ歩み寄るエリザベートが両脚に提げた得物——双銃〝Sofia〟に目を留める。撃ち落とせないものかと提案するも、位置関係から難しい。何せ此処は執政府の施設内でも最上階に当たる部屋、外に投げ出されれば命は無い。
「……危険だが、今此処を退く訳にもいかない。遠視が終わるまでは迎え討ち、時間を稼ぐより他は無いだろう……──ッ!」
ジェノブロウが迎え討つとの言とほぼ同時に硝子が割られ、けたたましい音と共に魔物が侵入してくる。容赦なく鋭利な刃となった硝子片が降り注ぐが、寸での所で距離を取ったお陰で身を切られるのは免れた。
ボールの様に丸い身体から無数の針が飛び出した形態の魔物は、巨大な雲丹と言ったところか。鳴き声ともつかないギチギチと軋んだ耳障りな音ともに転がりながら移動している。攻撃方法は限られているものの、銃弾並みの速度で針を撃ち出す。まともに食らえば人体など容易く貫通するだろう。
しかも一体だけではない、ごろごろと無数に投げ入れられているかの如く入ってくる。
「身の程を弁える脳も無いか……穢らわしい外道め。ミリア君、君は下がっていなさい」
「はっ……はい、どうかお怪我などされないで下さいな」
硝子片の雨に巻き込まれぬよう傍らに庇っていたイルミリアを退かせると、ソラージュは内一体を騎槍で一息に叩き割る。赤黒い中身がどろりと溢れ出し床を汚す。外見はウニだが、腐ったスイカを割ったかの様だ。
「僕もっ……! 加勢させて下さい!」
「いや待てシージス!」
シージスも双剣を抜いて構えるが、エリザベートより制止され慌てて駆け出した脚を止める。
「お前はクルシュとその場で守りを固めていろ。万一流れ弾がそっちに飛んだら弾いてくれ!」
「は——はい! 判りました! こっちは任せて下さい!」
エリザベートより指差され、命令の様な指示の鋭さにつられてシージスも溌剌と応える。
クルシュケイトもまた、何処に控えさせておいたのか。直ぐに2体のレギオンを呼び出して寝台への壁とならんと立ち並ばせる。この部屋が幾ら広いといえ、複数人が得物を振るえば互いを阻害する結果になるのは目に見えていた。
割っても潰しても、数を減らそうとはするものの何処から沸いているのやら。魔物は一体、また一体と浸入して来ていた。
絶え間無く射ち出される針は時としてノクサスらを襲ったが、クルシュケイトのレギオンやシージスが寸での所で弾き軌道を逸らし防いでいた。逸らされた針は天井や壁に深々と突き刺さり、賓客に向け調えられた美しい内装は見る影も無い。
レヴィアの洸晰で盾を張れれば楽ではあるが、既に観測の為に限界まで洸晰を展開させてしまっている。
「クルシュ、シージス……怪我はしないように……!」
「レヴィちゃん、コッチは気にしなくて良いからさ。悪いけどうちのおっさんの事、代わりにしっかり見といてやって!」
「大丈夫、任せてください」
無数に生え出した針も厄介であったが、その上魔物の表皮はそれなりに強度があるらしい。エリザベートの双銃で一体潰すだけでも通常の倍以上の銃弾を要した。直ぐに空になる弾倉にエリザベートは思わず舌打ちを漏らした。
苦々しく顔を歪ませ、空になったSofiaのマガジンを入れ換える。ダブルマガジンであるはずだが、それでもこのリロード頻度では直ぐにでも手詰まりになるか。そう考えた時、指を弾く場違いな軽い音を聞いた気がした。それを合図に、突如として眼前の群れた魔物の像が歪曲する。
「⁉︎」
一瞬、己の眼がおかしくなったのかと目頭を押さえるが、そうではなかった。
半径二mほどの空間が球状にその景色を歪ませていた。レイシェントの空間隔絶が行使された時の場景を彷彿とさせたが、その歪んだ景色は急速に立体感を失い二次元視の平面に閉じ込められる。そして、色を失い真白に塗り潰された。そこに有るのはまるで円状のキャンバス。だが、それも直ぐに石灰の如く砂状となってさらさらと崩れ落ちた。
「……き、消えた……だと?」
まるで白昼夢でも見せられたかのような光景に思考が追い付かない。その間にも二、三度軽い音が鳴る。その度に次々と魔物が真白の平面に塗り潰され、呆気なく姿を失っていった。魔物は一気に数を減らし、一時的に混戦からは解放され束の間の落ち着きを取り戻した。
今の数秒間に一体何が起こっていたのか。
背後を振り返ると、右手を前に掲げたままのジェノブロウの姿。その手にはおおよそ実戦向きではないであろう、紫の玉石と金細工に彩られた装飾剣が携えられていた。
エリザベートが口を開きかけるも先にソラージュがジェノブロウに歩み寄り、頭を下げる方が早かった。
「陛下の御手を煩わせるとは……面目次第も御座いません」
ジェノブロウは「この程度、構わない」とソラージュの慇懃さに苦笑する。だがふと眉間を押さえ、表情を曇らせたかと思うと足元をふらつかせた。
「陛下、先程の〝あれ〟はまさか……陛下が?」
「……不要なものを完全消去し〝管理者〟として世の秩序を保つ力……〝Vanish〟。この私、いや〝皇帝〟たる者に与えられた力だよ。この力もまた、千里眼の様にとまではいかずとも、制約と代償が付き纏うがね」
そう一口、簡単に説明するとジェノブロウは間髪入れさせず「それより」と寝台の方へと視線を向ける。エリザベートもそれに従いそちらを見遣れば、寝台の傍らに在るレヴィアの四肢と髪の長さが元に戻っている。と言う事は。
「エリザ! ノクサスさんが!」
レヴィアが報せる感嘆の一言に思わず安堵の息をついた。
「上手く戻って来た様だ」
「これでようやく退避が出来るか……」
平穏無事にとはいかなかったが、ノクサスの遠視が終わったらしい。ならば長居は無用。最早此処に留まる理由は無い。
早急にこの部屋を後にすることにした。
言うまでもなく、ノクサスの体力はほぼ残ってはいなかった。眼球やその回りは赤く血が滲んでいるものの、幸いにして意識は明瞭である様だった。先程の様な言語の覚束無さも無くなっている。しかし自立歩行は難しい為、クルシュケイトのレギオンが運ぶかたちとなった。
「おっさんが無理し過ぎだっての……もう……」
すっかり不貞腐れてしまった様なクルシュケイトの声音を聞き「ごめんごめん」と包帯が巻き付けられた顔を向けて平謝る。
「待たせて悪かったね。……恐らくレイシェント君は洸晰精製炉に居る様だ。どういう状態かまでは判らなかったから、安否が確認出来て無いんだけれど」
「それだけ判れば充分です。聖都の道の勝手なら私が把握している。直ぐに奴を連れ戻してやりますとも。これだけ手間を掛けさせたんだ、奴には一発殴らせて貰わないと気が済まないな」
エリザベートの眼が剣呑に光るのを見て、レヴィアが慌てて制する。
「駄目ですよ! レイさん怪我してるかもって言ってたじゃないですか」
「ならその怪我が治ってから心置き無くだな……」
どうやらレイシェントが殴られると言う不条理な運命はどうあっても変わらないらしい。
「急いで離れるぞ。また魔物が来ては対処しきれない」
ソラージュが背後を警戒しつつ一同は部屋を出る。魔物の第二波が来る様子は無いか、と思った矢先に割れた窓の向こうに黒い影が揺らめく。
先程大量に現れたものよりも大きさが増している様だ。刺々しい身体からは先端部が青鈍色に染まった二本の触手が生え出し、怪しく揺らめいている。
「……もう次が来たか」
「もしかしてさっきの魔物……ですか?」
エリザベートとジェノブロウに続き、最後に部屋の扉を通ったレヴィアがソラージュの呟く声に振り返った。彼は一つ頷くと、早く行くようにとレヴィアを促す。
「あ……!」
ソラージュの視線が此方に向いたその隙に、魔物の持つ刃が鈍く煌めき撃ち出されたのをレヴィアははっきりと見た。
今からソラージュに伝えても間に合わない。
防衛本能と言った方が正しいだろうか、即座の判断で絶対硬度の洸晰の壁を作る。どんな破壊力のある武器でさえ貫通することが出来ない洸晰の防御壁である。この程度の攻撃を凌ぐなど容易い——
——はずであったのだが。
黄金色の光で形作られた壁は槍を貫通させ、脆くも崩れ落ちた。余りに呆気無い光景に「え?」とつい気の抜けた声が洩れる。
触手の槍は軌道を阻むソラージュの騎槍に一度は弾かれるも、次撃はするりと躱しその右腕を上腕から手首にかけて浅く切り裂く。
「……馬鹿な……⁉︎」
ソラージュが一瞬怯んだ隙に触手はそのまま真っ直ぐにレヴィアが掲げた右腕へと突き刺さる。レヴィアの身体能力では対応出来るはずもなかった。
長い袖にみるみる赤い色が染みて行くが、何が起こったのかが理解できず紫瞳を見開いたまま呆然とする。
「レヴィア!」
「な、何で……? っつううぅ……うっ……ぐぅ……!」
青褪めたエリザベートの声と、遅れて来た鈍痛にようやく我に返る。
歯を食い縛って刺さった触手を引き抜こうと左手で掴んだが、触手に触れた途端掌が焼ける様な痛みに襲われ直ぐに手を離す。長い袖の布越しに触れたのだが、袖は酸に融かされたかの如く破れていた。
ソラージュが手を伸ばし掛けるも、させじとでも言わんばかりに魔物から針の連弾が正確に狙いを定めて打ち出される。レヴィアへの助けを阻んでいるのだろうか。
触手はぐるぐると腕に巻き付いたのちに本体に引き戻され、レヴィアもろとも再び部屋の中へと容易く引き戻されてゆく。
「あっ……や、やだ…嫌だっ……!」
足を踏ん張らせて堪えようにも引き摺り込む力の方が圧倒的に上回っている。堪えようとすれば触手の刺さった腕に更に痛みが走る。青鈍色の触手は刺した腕の芯から、まるで拷問の様に絶え間無く焼き付ける痛みを与え続けた。
「大丈夫か! クソッ……‼︎ レヴィア、痛いか……痛いな……直ぐ、直ぐに助ける……!」
引き込まれつつある身体をエリザベートが抱き、脚にブレーキをかけその場に引き留める。細剣で切断しようと振り抜くが、それも枯木の様に刃が呆気なく折られてしまう。折れてくるくると宙を舞った刃が虚しく床に突き刺さった。
「何だ……! 何ッなんだよこれはァ‼︎」
苛立ちを露にしたエリザベートの怒声が響く。最早彼女に普段の理性の欠片も残ってはいなかった。彼女は己の手が爛れるのも構わずに触手を掴んで抜こうとするがやはりびくともしない。
「え、エリザ……駄目です……! 手が……離してくださ……!」
「馬鹿言え! 出来るものか‼︎ 無理だ……無理なんだよ……お前が居なくなるのだけは……私には、私は……」
更に暗闇から触手が伸び完全に身体の動きを拘束される。
「──あ、がッ……!」
首に巻き付いた触手が気道を狭め、苦悶の声が漏れる。だが、そのまま締め上げられる事は無かった。魔物はそのまま破られた窓まで後退して行く。
触手は身体に巻き付くだけでこれ以上傷付ける意図は無いあたり、魔物は何処かへ自分を連れ去ろうとしているのは明白。このままでは、エリザベートまで巻き込んで外へと投げ出されてしまうだろう。そうなれば彼女の命は無い。それだけは駄目だ。
痛みと苦しみに擦り潰される理性の間で、それだけは判断出来た。
『助けて』などと言えるはずがなかった。
「……ごめ……なさ、……い」
「は……? 何て言っ……」
消え入りそうなレヴィアの声が細い吐息の奥から聞こえたかと思うと、エリザベートの周囲は四角い黄金色の箱に囲まれる。その箱はエリザベートだけをその場に留める為の檻であった。
「おい待て……これは何のつもりだ? レヴィア、馬鹿な事はッ……やめ、止めてくれ……」
「絶対に……帰ってきます! 大丈夫ですから、待ってて——‼︎」
「レヴィア!」
無我夢中で叫ぶと共にレヴィアの身は魔物と共に夜闇に投げ出された。拘束が解かれた瞬間、エリザベートは窓へ取り付くが、幾ら伸ばそうとも手は届かず。
闇の中でもよく目立つ長い金髪でさえ夜に飲まれるのを、見送るしか無かった。
——————
「ハァ……ったく今日は厄日も厄日……大厄だな。差し詰め悪夢の再来か……」
大きく嘆息したのはカーライルであった。奥歯を噛んで脇腹の痛みを堪えながらも、得物の騎槍を構え直す。
まさかその傷で未だ戦う気なのか。深い色に染まった軍服と、ぎこちなく笑みを浮かべる横顔を見比べゼクティスはぎょっと眼を見開く。
「おい待て待て、あんた何やってんだ! ンな傷で動こうもんならホントに死ぬぞ!」
「おやァ? ……はは、便利屋君から心配してもらえるとはな。けど、最初に言ったろ。あれを殺れるんなら最悪刺し違えたって俺は本望だ、ってよ」
流石と言うべきか、見上げた執念である。だが、今度はゼクティスが嘆息し首を横に振る。
「いいや、俺の予想じゃ確実に刺し違える前に死ぬな。ソレこそ最悪じゃねえか。最悪も最悪、格好悪いだけの犬死に。聖都軍の名折れ、名誉もクソも無ぇよ」
「は、はは……随分と言ってくれるな便利屋君……。ッけど……、確かに正論……か」
余りに散々な物言いにカーライルも思わず引き攣った苦笑いを洩らす。だが己の立場を省みれば相手の首も取れずに無駄死になど出来る訳が無い。ゼクティスの表現はともかく、こればかりは彼が正しいかと納得せざるを得ない。
「頭に血が上って忘れちまってた、俺の命はあの御方に預けてたんだったな……」
忌々しく舌打ちを漏らすとゼクティスの頭を軽く小突いてから後退して行く。
「あぁくそ、しょうがねぇな……悔しいが此処はヒーローに任せる、後で年上に対する口の利き方を確り叩き込んでやる! 死ぬんじゃねぇぞヒーロー!」
「その前に聖都なんざとっとと退散してやる。そんであんたにも二度と会わねぇ」
カーライルの軽口に背中越しの悪態で返しながら、Requiemを構え直してやった。
「おや残念、行ってしまいましたか」
残念とは言いつつも、本命でもない相手を追う気はまるで無いらしい。
漆黒の鎧兜を纏い、竜騎士の出で立ちとなったリオがゆるりと空いた左腕を眼前に掲げる。その背に畳まれていたのだろうか、外套にも見える皮膜翼がばさりと拡がり二、三度はためく。
骨格の質感は鎧と同様。つまりこの鎧兜は装備などでは無く、彼女の姿その物であることを示唆していた。
「……私もね、別に好きでは無いんですよ。完全なる化物でしかないこの格好は」
「……なら、ンな悪趣味な格好、サッサと止めちまえば良いじゃあねぇか……!」
刃を向けたまま、冷えた汗がこめかみを伝う。
この異形の姿になったところで一体彼女にどの程度力の変化があると言うのか。通常時でも二人がかりで漸く渡り合ったと言うのに、自分一人で対応出来るのか。未知数の力を前にゼクティスは気を張ったまま警戒するより他の手段など無かった。
リオは窮するゼクティスの様子など意に介さず「そうですね」と対照的に悠長な語調で答える。
「サッサと終わらせましょう」
顔を覆い尽くした兜のせいで表情は判らないが、面の下はいつもの無表情に冷厳な眼をしているのだろう。彼女の纏う空気が先程刃を交わした時よりも更に一層剣呑な物に様変わる。仕掛けて来るか、と構えたその時周囲の様子が突如として一変する。
辺り一面金粉を撒いたかの様に宙に黄金色の光子が散った。彼らの居る広場のみならず、第三階層は一瞬にして非現実的な風景に様変わりをしたのだ。
「これ、は……」
どちらからともなく、リオからも驚嘆の声が漏れる。と、言うことは彼女が何かやった、と言う訳では無いのか。
ならばこの黄金色の光から単純に関連付くものと言えば洸晰、しかもどの様な形であれ視認出来るほど濃度の高い洸晰を操作出来るのはこの世に於いてレヴィアの他居ない。となると。いや、しかしそんなまさか。
憶測でしか捉えられない状況に否定も肯定も出来ず、ゼクティスは動揺し苛立つ。
「どうやら俺も急がねぇと不味い理由が出来たってとこか……」
可能かはどうかは二の次、一刻も早くこの場を切り抜けてエリザベート達と連絡を取ってあちらの様子を訊かなければならない。
ならば先手とばかりに地を蹴り、下段から掬う軌道で突き込む。手甲に包まれた左手で軽くいなされたが、初めからその余地を入れ込んでの一撃。弾かれたとほぼ同時に空かしていた左手を添え、ぶれた刃の角度を糺《ただ》すと間髪入れず袈裟に斬り落とす。
また一瞬だけ蒼洸を発動させたが、今度は先程の様にはいかずRequiemの刃を受け止めた手甲の表面一層を砕いた程度で終わってしまった。
「な——クソッ! 堅ぇ!」
蒼洸を使ってもこの程度とは、だが怯めば死を迎える羽目になる。長刀からの攻撃を想定して軌道を阻む様に大剣の面を向けて備える。
予測は的中。だが雪崩を打って襲うDIABOLOSからの派生刃の剣圧に圧され、半ば吹っ飛ばされる様に後退する。咄嗟の判断で身を引いていなければ、確実に剣を番えた五指どころか四肢を悉く切り刻まれていたことだろう。
「合図も無しに斬り掛かってくるもので、驚きましたよ。どうしました? 酷く焦っている様子。何か心配事でも、出来ましたか?」
「……心配して貰わなくても大丈夫だ、あんたには関係無ぇ」
「おや、素っ気ない事ですね」
剣圧が少なくとも先程より倍以上は上がっている。加えてこの鎧の堅さは余りに厄介。小出しにした蒼洸では表面を削る程度の意味しか為さない。となると、どうにかして一撃に集中させた最大出力の斬撃を叩き込むしか無い。しかし、そんな隙を見せてくれるものだろうか。
ゼクティスは早々にこの場を退散する為の手段を模索する。だが、リオの一言がその思考を嫌がおうにも中断させた。
「……もしかすると、貴方は先刻話していた光使いとやらを心配していますか?」
「——ッ⁉︎」
脳の髄から氷をぶち込まれ、冷えた血液が流れるかの様な錯覚を覚えた。冷えた汗がこめかみから頬、首筋を伝う。
「図星。何故その存在を知っている、と言った顔ですね。判り易い」
リオはただただ淡々と続ける。
「はて、解せませんか? 勘の悪い……。言ったはずですよ、私の目的はこの世界の維持とこの世の破壊にあると。〝あの方〟と記憶を共有しているなら貴方はとうに知っているでしょう。現状、この世界の形を保つ為には人柱をすげ替えるより他無い。そして、その『代用』が出来るのが……それだけの為に創られた人柱の『模造品』光使いだと」
「──ッ!黙れ‼︎」
気付けばゼクティスは我を忘れて怒声を放っていた。リオはややあってまた一層温度を落とした声音で呟く。
「その言い草は……感心しませんね。先生に向かって『黙れ』とは、無礼と思いませんか」
ゼクティスは再びリオの元へと間合いを詰める。沸いた憤りをそのままにぶつけんと大剣を振り下ろす。これで痛手を与えられるなどと考えてはいないが単純無策な剣はあっさりと受け止められる。
「今更、何言ってやがる……! 『代用』『模造』……どいつもこいつも、どこまで人を物みたいに……消耗品扱いすりゃあ気が済む!」
「……私の知る貴方らしく有りませんね、ゼクティス。貴方は第三者にそこまで感情移入し、露に出来るほど真っ当な人間性など持ち得ない質だと思っていましたが? 故に、私は貴方に独りで生きる術を与えたと言うのに。 いつからその様に温い馴れ合いを好む性分になったのですか。しかも、相手は人ですらない。全く以て——みっともない」
ゼクティスは一部の隙間も無い黒兜の面を更に睨め付け、歯噛みする。
「あァそうだな、そうだろうな。
……あいつが創り物だってのは……ンな事もう重々解ってる。けど、このほんの何ヵ月かの間、たったソレだけの間、散ッ々あいつに馬鹿みたいに付き合わされてる内にどうやら俺もおかしくなったらしい。今まで会った中で、あいつが一番人間らしい奴だって考えちまう程度にはな!」
一気にまくし立てると同時に押し込もうとする大剣は弾き返され、再び二歩三歩と飛び退き距離を取る。
「……は、何と滑稽な! ただの消耗品として用意されたあれを、貴方は飽くまで人であると言いますか!有りもしない人権を振りかざしますか! ……それは、私とて同じこと」
「何?」と訝しむその一瞬でリオはゼクティスの眼前に既に迫っていた。視界がぶれたかと思うと、頬にぶつけられた強い衝撃に思わず足元からよろめいてたたらを踏んだ。咥内にじわりと鉄の味が広がる。
数秒あってようやく殴られたのかと理解し、それと同時に何故と疑問も浮かんだ。今の隙こそ殺されていても不思議では無かったのではないのか、と。
「貴方が光使いの人としての尊厳を守ると言うのなら、私とてあの方の人としての尊厳を守っているだけなんですよ」
「『あの方』……No.0の事、か……?」
リオはそれには応えない。肯定しようともしないが否定も無かった。そして独り言の様に呟く。
「……結論が両極の位置にあると言うだけで、案外貴方も私も思想は似たり寄ったりでしたか。これまた滑稽な」
暫し俯き何事か思案する様子を見せた後、「気が変わりました」と改めてゼクティスを正眼に見据えた。そして、またもや彼女の姿がぶれる。
また不意打ちの様に詰められるか。咄嗟に剣を防御の形に構えたが、それをすり抜ける様に眼前に掌が迫っていた。手首を掴んで止めようとしたが、やはり一瞬遅い。何のつもりか、顔を覆う様に正面から頭を捕まれた。
「生かしておいてあげますから、少し大人しくしていなさい。下手に抵抗すればこの頭蓋を砕き潰します」
「ッ……! 冗ッ談じゃ……あ」
抵抗するもやはり並みの握力では無く、引き剥がす事は敵わない。
視界がほぼ塞がれた状態で踏み込みが利かない体勢ではある。だがこの零距離ならば外れる事は無いと叩き込む様に剣を横凪ぎに振るうべく腕を後ろに引き、予備体勢を作った。
その時。びきり、と頭の中で亀裂が入ったかの様な音を聞いた。
力の抜けた手から滑り落ち、地面に叩き付けられた剣が派手な金属音を鳴らすのが随分と遠く聞こえた。
「──あ……、……⁉︎」
意識は有る。多少浅いが呼吸も確りと出来ている。だが、ありとあらゆる感覚の認識が酷く曖昧で遠い。いつの間にか自分の身体が地に伏しているのかと理解するまでも、たっぷり五秒程の時間を要した。
「……ッなにを……しやがった……!」
起き上がろうにも、いやに身体が怠重い。そもそも何をどうすれば起き上がれるのか。どうやって身体を動かしていたのかが〝解らない〟のだ。感覚としては金縛りに近いだろうか。それでも辛うじて首だけ動かして彼女を見上げた。
黒兜の奥で、薄く嗤う気配。
「なに、しやがったって……訊いてんだ!」
「相変わらず頑丈だこと……いいえ何も? 貴方に害の有るような事は何も。寧ろ〝正常な状態に戻した〟だけですよ。それはちょっとした副作用です」
「どういう……意味だ……!」
だがリオは「まぁそう焦らず、じきに判りますよ」と手も出さずただ傍観するのみ。正体の判らない気味の悪さと焦燥感に苛まれる。
「少し大人しくして貰えればいいのです。——おや、丁度良い所で」
リオが空を仰ぐのと同じくして、突如真っ黒い塊が隕石の様に飛来した。巨大な針玉の様なそれは四分の一程地面に埋まって着地した。これまた特殊な形容だが、あれも魔物か。
次から次へと、文字通り降って湧いたものに更に理解が追い付かない。
未だ重たい首を動かしてそちらの方向に眼を向ければ、映るものに麻痺した頭も一気に冴える。
「……レヴィア……?」
嘘だと思いたかった。
魔物から生え出している触手に巻かれ拘束されていたのは、見紛うことなきレヴィアの姿であった。
「ゼクト!」
少女も此方の姿に気付いたのか逃れようともがいている様だった。無事な様子に一旦は安堵する。何故彼女が魔物に捕らわれ、此処に居るのか。共に居たはずのエリザベート達はどうしたのか。次々に疑問は浮かぶが、今は何よりレヴィアを魔物から放さなくては。
「待ってろ! 今──」
ままならない身体がもどかしいが、それでも先程よりは感覚が戻って来ている。腕に力を込め、身を起こしかける。
「おや、もう動けますか。ですが、あと少し大人しくしていてくれませんかね」
「誰がッ……!」
鈍い紫色を帯びたDIABOLOSの刃先がゼクティスの背にぴたりとあてがわれるが、痛みの恐れなど持ち合わせぬこの身に脅しなど知ったことかと無視。その様子にリオはぼそりと呟く。
「気付いていませんか……」
そのまま一気に突き立てるのではなく、ゆっくりと刃を沈めれば服を破り、やがて皮膚をぷつりと裂く。
「──ッ⁉︎」
ゼクティスの身体がびくりと脈打って止まる。リオは更にじわじわと……刃を捩じ込む様に沈めてゆき、十㎝程背の中に刺し込んだところでぐるりと刀を回して傷口を抉ると皮膚を斬り裂いて刃を抜いた。割れた白い舗装タイルに真新しい血雫が飛ぶ。
起き上がり掛けたゼクティスの身体が肘を着いて再び地に崩れた。斬られた箇所が熱く痛み、思わず肩越しに回した手が衣服をぐしゃぐしゃに握り締める。
「がッ……! ──ぁ、……はっ……は、はッ……」
額に脂汗を浮かべ、荒い呼吸を繰り返す。傷口から生暖かいものが広がり、黒い服の背がじわじわと更に色深く染まっていった。
「ほぅ、これは驚きましたね。初めて痛みを感じたにしては、よく此処まで声を我慢出来たものです。そう言えば、以前の初めての時もそうでしたかね」
「何、だと……じゃあ、さっきのは……」
苦悶に呻くゼクティスを下瞰するリオは嘲笑混じりに「中々良い顔ですね」と呟き、追い討ちとばかりに歪な形の脚で背の傷をぐりぐりと踏み躙る。ゼクティスは更なる痛みに堪えられずとうとう声をあげ、背には濃く濡れた染みが大きく広がる。
「OFFになっていた貴方の痛覚のスイッチをちょっと押してあげただけですよ。どうですか、初めての感覚は。生きている、って感じがするでしょう?」
「──がッ、あ……はっ……趣味、悪過ぎんだろ……先生……」
リオは傷口への責めを止めてやると、ゼクティスを足元から解放する。
何とか片膝を着いて身は起こしたものの、やはり立ち上がるに及ばない。脳まで灼かれる激痛を拳を作って堪える。
リオはゼクティスの髪を掴み、無理矢理自分の目線の高さまで引き上げて身を起こさせる。そして、己の血の残る刃先をぴたりと胸元に突き付けた。
「へぇ……未だ余裕が有りそうですね。この際です、少しお仕置きといきましょう。今の貴方は少しどうかしている」
リオは突き付けた刃をそのまま躊躇いなく胸に沈め、ゆっくりと皮膚を裂く。
「止め、——‼︎ ……ッぐ…ぎっ! うっ……ぐぁ……!」
一旦刃を離し、今度は内臓に達しない程度に、まるで扉をノックでもする様な調子で浅く何度も刃先で突かれる。更にその上を刃でゆっくりと、撫でる様に斬り裂かれ、傷の上に傷を重ねられ——拷問の様に殺さず淡々と痛みを与える為だけのものであった。
刺される度に身体が水揚げされた魚の様に跳ねる。それでもと僅かな理性でゼクティスは喉の奥で必死に声を噛み殺す。
「ほら、痛いでしょう。痛いでしょう。痛いでしょう。痛いでしょう。痛いでしょう」
止めさせようと手首を掴むも、全く力が入らず抵抗すら儘ならない。
未だ続くのか、と思ったところで不意に身を刻み続けていた刃がぴたりと止まり、リオとの間に〝何か〟がするりと割り込むように入って来た。それが何なのか、確認する間も無く半ばそれに押し退けられる様に掴まれていたゼクティスの頭が解放された。
ゼクティスはそのまま数歩後方へよろめいて、倒れる寸前で何とか膝をつく。そして突然に、何か柔いものに頭から包まれる感触。
「おっ……お願いですから……もう止めて下さい! こんな……これ以上は……ぜ、ゼクトが死んじゃいます‼︎」
「……っ、レヴィ…ア……」
先程まで魔物に拘束されていたはずのレヴィアがゼクティスに被さる様にして庇っていたのだ。刃を突きつけられ恐怖しているのは明らかに見え見えているが、それでも精一杯にリオを睨んでいる。更に脅しとばかり眼前数㎝まで刃を突き出してみるも、退くものかと逆にゼクティスの頭を腕の中にぎゅっと抱え込む。
向けた刃先はそのままに、リオは背後をちらりと一瞥する。大方洸晰の剣でやられたか、魔物は大きな刃物に貫かれたかの様に割られ倒されていた。
「成る程、本体は無防備なのに気付きましたか……。まさかあれを殺して抜け出すとは大胆な。予想外でしたよ。まぁ良いでしょう。ゼクティス、その光使いさんを此方に寄越して貰えればもうお仕置きは勘弁してあげますが?」
「ふざけんな……冗ッ談じゃあ、無ぇッ……!」
血を吐く様な声で、ゼクティスはふらつきながらもレヴィアの肩を支えに掴んでようやく立ち上がる。
自身の大剣の攻撃に巻き込まない様、自分の身体へ引き寄せると、無我夢中で剣を振った。リオは一旦間合いを取るべく飛び退く。
ゼクティスはレヴィアから腕を解くと、そのまま自分の背後へ押しやった。引き寄せられた拍子に自身の服にべったりと付いた血に気付き、レヴィアは改めてゼクティスの出血に驚き戦いた。
「ッ……ゼクト! 駄目、駄目です! もう動かないで! お願いですから……そ、そんな怪我で……無理しないでください!」
いけないとレヴィアは慌ててゼクティスの腕を掴んで引くが、彼はちらと此方を一瞥し僅かに表情を曇らせる。少女とて左手で押さえているが、力無くぶら下がった右袖は破れて穴が開き、血痕が染み広がっていたのだ。
「……怪我、してんのは……お互い様だろうが。良いから……お前は、下がってろ……」
レヴィアは何とか必死に止めようとするも、ゼクティスは聞く耳持たずであった。再びリオに向き直る。
流しすぎた血のせいか。視界がくらくらと歪み、痛みに焼かれた思考は役立たず。だがそんなことに構ってもいられず拾い上げた大剣を左手に構え直す。最早気力だけが頼りであった。
「全く……馬鹿は貴方ですよ。仮に蒼洸を使ったとして、そこまで消耗した状態で確実に当てられるとでも? 辛いなら大人しくしていれば良いものを」
「……仕方無ぇ……だろ、後に退けねぇんだからよ……」
小出しにしていた時とは打って変わってRequiem《レクイエム》に稲妻に似た鮮烈な蒼の光が迸って纏わり付く。
「少し血を抜いてやれば頭が冷えるかと思ったんですがね」
普通ならば平衡感覚も曖昧で、確と立っている事すら危ういだろう。だが彼は我が身を省みずただ真っ直ぐ此方を見据えている。けして己の命の為などではなく、第三者であるはずの少女を守る為に。
その蒼の瞳に、此方を討つ覚悟を持った瞳にリオは兜の奥で眩しく眼を細めた。
「成る程……本当に、変わったんですね」
蒼を纏った大剣が此方に降り下ろされると同時に小細工無しで真っ正面から突っ込んで行く。兜の左半分から胸にかけて派手に破壊されたが、構わず間合いを詰めて彼女もまたDIABOLOSを至近距離で振るい幾重にも連なる斬撃を生む。
せめて幾らかでも攻撃を減らさなければ。レヴィアも盾を展開させたが先刻の様に、否。尚も悉くに砕かれた。
「またっ……! 何で……何でっ、ぇ……!」
ゼクティス自身の力で防ごうにも、やはりこの剣圧を堪えられる程の体力は残ってはいなかった。無慈悲に注ぐ圧に負け、後方へと弾き飛ばされる。恐らくはリオの手加減により致命傷こそ免れたが、地に伏したまま再び立ち上がる事は敵わなかった。
全身の血が凍り付いてゆくかの様な錯覚。レヴィアはただ、呆然と眼を見開き倒れ伏した青年を見詰めていた。震える喉奥から、浅い呼吸が洩れ出す。
「あ……やっ、嫌だ……ゼクトっ……ゼクト!」
足を縺れさせながら、青褪めた顔でレヴィアがゼクティスの元へと駆け寄ると傍らに跪いた。真っ先に息を確かめたが、存外意識もはっきりしている様で一先ず安堵する。
「……あっ……ぐ…うッ……!」
「ゼクト……」
やはり無数に刻まれた傷が痛むのか、奥歯を噛んで苦悶に歪められた表情に此方が泣きたくなる。だが、それも束の間。薄く眼を開けたゼクティスに急に腕を手探りに捕まれ、引き寄せられたかと思うと掠れた小声で話す。
「っに、やってんだ……! レヴィア……俺は、良いから、お前は……サッサと、エリザ達の……とこに……」
「ゼクト! そんな、嫌です……何で、そんなに……。 っ何で……私は……私は」
逃げろと言い聞かせる前にたちまちレヴィアの声が涙混じりに震え、瞼の縁からは次々雫が零れ出す。どうしたものか、回らない頭で考えるがろくな言葉が出て来ない。
自身の血に塗れてしまってはいるが、構わずその手を少女の頬へと伸ばすと、宥める様にくしゃくしゃと荒っぽく長い金髪を乱して撫でた。
「ああもう……知るかよ。今はンな事……言ってる場合じゃあ無ぇだろ……この様じゃお前を守れねぇ。良いから……早く、行っちまえ」
だが、レヴィアは背後に迫ったリオの刀の切っ先を再び突き付けられていた。
「残念ながらそれは出来ませんね」
鎧兜の割れた箇所からはしとどに酸化色の血が溢れ出していたが、その奥はまるで影を集めたかの様な曖昧な像。通常人の生身では無くなっていた。顔には眼の代わりにぼんやりと円く濁った金色の光が灯っている。彼女は、まるで温度の無い冷徹な声音で問うた。
「さてと……光使いさん。大人しく私と一緒に来て貰えますか。そうすればゼクティスは見逃しますが」
暫しの沈黙の後、レヴィアは口を開いた。
「……それは、ちゃんと約束してくれるんですか」
レヴィアは緊張に強張った声音で、振り返らないままに確約を求める。ややあってリオは「ええ、まぁ譲歩してあげますよ」と頷いた。
「おい待てレヴィア!」
例え四肢が言う事を聞くまいが、このまま黙って見送るなど出来るものか。ゼクティスは腕を掴んだ掌に力を込める。
「ふざけんな……馬鹿言ってんじゃ無ぇ……! そんなんで命拾って生き延びたって、コッチは有り難くも何とも無ぇんだよ! 行かせねぇ……!」
「……」
応えに詰まり暫し黙していたが、やがてレヴィアは困った様に笑みを浮かべる。おもむろに髪の先に結んでいたリボンを解く。そしてゼクティスの耳にゆっくり顔を近付けて耳打ちした。
「……ゼクト、私は諦めてる訳じゃないです。最初に聖都へ来たときみたいに、ゼクトがまた迎えに来てくれて……エリザ達のところに戻って来れるって、信じてる。大丈夫なんです。怖くなんか、ありません。……あなたが、居るから」
「は……何、だと……?」
訳が解らないと言った顔。レヴィアは強く俯き、青年の空いている手に一方的にリボンを押し付けて、握らせる。
「……一つだけ、約束をさせてください。大丈夫だって、ゼクトを信じて待てる様に」
震えが伝わらない様に、レヴィアは重ねた手を一層強く握ると「これ、ちゃんと私に返してくれるの待ってますね」と。お守りだと言って、にっこりといつもの柔い笑顔でまた笑った。
「私とゼクトの、約束の印です」
その瞳に、もう涙は滲んではいなかった。
「ッ……クソ……! ……くそ、クソが‼︎ ……くそが、……勝手な奴だよ……っとに」
確と腕を掴んでいたはずの掌は気付けば空に。いつの間にかレヴィアとリオの姿は、夢か何かと錯覚する程に影も残さず消えていたのだった。
