幻桜の夢

2022.APR

cast:レイシェント、イレイン

「怪現象と聞いて来てみたが…私が追っている類いの物ではなさそうか……」

夜霧が帯となって木々の姿を烟らせる森の中、調査状を手にした赤毛の男の姿が在った。

正体不明、モンスターではなく別の何か、怪奇的な存在。そういった怪しげな類いの調査依頼でも出ていないかと探した末に引き受けたものであったが、よくよく調査経過報告書を確認すれば落胆の溜め息を禁じ得なかった。

だが、請けたからには相応に成果を得て戻らなければ此処まで脚を伸ばしたことすら徒労になる。

「……今生で縁が切れた筈の者が目の前に、か」

同じく依頼を請けた者が提出したであろう報告書の内容を脳裏に喚び、呟いた。
同様の怪奇が自分にも再現されるのであれば、一体誰の姿を取るのだろうか。

夜霧を介し、月光にて僅かに照らされるばかりの森の奥へと進む脚が止まる。まるでこの先に起こり得る事象を臆する様に。

(“そんなものに”私は相対する事が出来るのか?)

中途半端に足を浮かせた今生の者が、今やその自らと縁を断ち切られた者と。

だが、万象の理を容赦無く掻き乱すエーテルの奇跡とやらはこの男にももたらされるのだろう。これぞ慈雨であると嘯く様に。

やがて夜霧は一層深く森を浸し、月の光を拡散してごく薄く、虹輪を描いた。

「もしも会えない対象の姿が貴方の前に再現されるなら?
──答えは私、になったみたいね?」

いつからそこに立っていたのか、森の背景には不釣り合いな白衣を纏う女の姿が男の背後に在った。

レイシェントは振り返らず、眼を閉じて首を俯かせた。
声の主が纏うのは生者の気配ではない。血潮の通わぬ、温みなど無いただのエネルギーの滞留。
だが、その声は此方の記憶の氷牢を溶かし心に血を巡らせてゆく。
悪戯好きな“彼女”の事、きっと振り返れば直ぐ後ろに立っているのだろう。

意を決して、錆び付いた様な踵を回す。

「あぁ、今私を生かしているのは私ですらない。イレイン、私の魂」

眼前に在ったのは、やはり記憶に在るまま。
今なお縋るよすがの光として魂の座に据える者の姿。

だが、レイシェントが手を伸ばす事は無かった。
自らの記憶のバイアスが掛けられ、余りに美しく再現された姿は幽玄。正に作り物であった。

長い髪の隙間から覗く金眼が哀しく滲むのを見て、“イレイン”は困った様に笑みを浮かべる。

「解っているわ、貴方が理解している事なら私にも解るもの。
そう、私は貴方の“イレイン”とタグ付けされた記憶をそっくり抜き出して再現されているだけだもの。

貴方の知る以上のイレインはやっぱり居ないの。
貴方が予測する答えを貴方の予測通りに、私の姿と声で再現するだけのお人形よ」

自らを人形と評するかつての賢人は理路整然と、御丁寧に状況を説明する。
交える身振り手振りの癖もやはり生前のままだった。

「では、こうして私と君が相対して言葉を交わしたところで、これは自慰の一人芝居か?」

もしもこの現象が自らの願望に因って引き起こされたものならば、即座に幻影を打ち払わなければならないか。
自らの手で本来の彼女を歪める事になりかねない。
こうして自らの記憶に在るイレインを再現し、会話しているだけでも尊厳破壊と言えよう。

表情を淀ませる男に頷き、だが首を横に振る。

「そうなるかも知れない。けど、ならないかも知れないわ。
心理の底へ潜り、悟りへ至る道は自己との対話。
それに“貴方の知るイレイン”は“貴方”ではない。
貴方の賢人は、貴方の望んだ通りの言葉を寄越して慰めるお人形ではなかったはずよ。
そうでしょう?」

虚像は首を傾げ、お手本の様な笑顔を作って見せる。
『もしそう思われてたなら心外ね』と揶揄を寄越した。

この姿に空虚を覚えても嫌悪を抱かなかったのは、けして都合の良い存在ではなかったからか。

「……まるで新手のカウンセリングの様だな。
では、森を歩きながら話そう。
君を顕現させた原因を探さねばならない。再現されるのが全て君の様な賢人とは限らない」

虚像に向かって手を差し出す。
だが、彼女は頬に手を添えて首を傾げ、碧眼を丸める。

「……私の知るイレインは探検好きだが運動音痴で自分のペースを見誤る。
森歩きをするなら“俺”が捕まえておくのが条件だ」

レイシェントは、ただの幼馴染みに対する様に口元を緩め、微かな笑みを浮かべた。

「……!
私が人形だと判ってるなら必要ないって考えるものと思っていたのだけど」

イレインは如何にも御機嫌に差し出された手を握り返す。
記憶の喚起によって再現された彼女の手の感触は細く、冷えているが好奇心からの期待が込められ力強い。

「子供の頃の事、よく覚えているのね?
随分昔の事でしょう?」

改めて赤毛の男の隣に並ぶと顔を見上げ、爪先立ち。全く縮まっていない身長差に少しばかり不満げか。

「……憶えているさ、こうして君の姿を再現されてしまう程度には」

彼女の手を引いて森を歩き出す。
エーテルの探知が出来る訳ではないが、ごく僅かに異質の気配が奥地から滲み出ているのは判った。

森の奥へと脚を進めれば、時折モンスターが襲い掛かって来る。
庇いながら戦う前提で動く心積もりではあったが、イレインは此方の想定など容易く越えて来た。

失念していたが、彼女は純然たる生物学者なのだ。襲い掛かるモンスターに怯えるどころか眼を輝かせて飛び付こうとするものだから最終的に脇に抱えて討伐する羽目になった。

「……そうだ、君はそう言うタイプだった。
頼むから未だ生きているモンスターに向かって行くのは止めてくれ……。
あと、素手で触ろうとするな」

例え虚像や幻影と解っていてもイレインの姿で傷を負うなど赦せる筈もない。

両手を膝に、項垂れるレイシェントの事などイレインはお構い無し。茸のモンスターの死骸の前に跪いて、傷口を木の枝で拡げている。

「だって仕方無いじゃない!
ここ、初めて見る生き物だらけなんだもの!あぁ解剖道具があればもっと隅々まで調べられるのに~!
この子、体組織は茸そのものなのにこの運動能力と魔法……!」

まるで目新しい玩具を前にした子供の様にはしゃぐ後ろ姿。
暫くは此処から離れまいと悟った男は地に座り込んだ。

対象が何であれ、心向くまま楽しむ姿を眺めていると自ずと表情が緩んでいた。

「……楽しいか?」

イレインは緩く纏めた金髪が乱れるのも厭わず、勢いよく此方へ振り向き『とっても!』と屈託無い笑顔を寄越した。

「……本当なら、君はこんな風に、
──このまま此処に居続けられたなら……」

余程気が緩んでしまっていたらしい。
頬杖を突き、不意に零れた詮無い言葉に気付きもしなかった。

彼女の顔から笑顔が失せ、呆けた様に此方の顔を見詰められ、そこでようやく妄言を吐いたのだと察した。

「レイ、私は貴方が再現した虚像であってイレイン本人じゃない。
確かに私は今、とっても楽しいけれど……この気持ちも全て貴方の記憶から想起されているもの」

座り込む男の前、膝が触れるほどに間合いを詰めて此方の顔を覗き込む。

「……ごめんね、所詮私はスワンプマン。
彼女の意志は此処に存在しない。“イレイン”にはなれないわ」

『でも』と力無く垂れる男の手を取り、持ち上げた。

「“私”だからこそ、貴方の心に触れられる。
──ねぇ、貴方の……貴方自身がやりたい事は何?」

レイシェントは答えに逡巡し、金眼を揺らす。

「私の……、……さぁ、何だろうな。
君に生かされたこの命の使い途、身を喰らう悪夢から目覚めて以来、ずっと考えてきた。
だが、今の今まで答えは出ていない。
ただ目の前の奔流に流されるまま、君から預かった命を燃やすのに相応しい幕引きを探すばかりだ。こんな……」

生きる理由を死に設え、宛もなく彷徨うなどただの亡霊でしかない。
死者に縋る亡霊の居場所など、この世の何処にあるものか。

レイシェントは首をもたげるのも億劫に、イレインの肩に顔を埋めた。

果たして肩に掛かる重みを感じているのか。イレインは頭を預けられるまま、呻きにも似た男の独白を聞いている。

やがてレイシェントは言葉らしい言葉も紡げなくなる。その聲は、彼が身の内に飼う魔物のそれによく似ていた。

「貴方は自らを主体性を失った抜け殻と、亡霊と言うけれど、それならどうして此処まで来たの?
この調査依頼を見なかった事にするのも出来た筈よ。
自ら傷を開きに来る必要なんて無かった。
自分以外のひと達をあんなに気に掛けるのは何故?
一体貴方の、何が死んでいるの?」

呼吸と同じくして上下する胸にそぅ、と触れる。

「死者は何も、流しはしない。
その痛みは、死に抗うから。
──違うかしら?」

「……死への渇望に抗い続けても、結局何も……私自身の望みを見出だす事は出来なかった。
いや、光を見る眼は潰れてしまった。
……もう楽になりたいと言ったら、君は赦すか?
これ以上死ねない言い訳を君に押し付け続けるのは……」

蚊の鳴くような声。
自決の道すら奪われたと、それも自らへの戒めと錯覚していた頃とは違うのだ。
自らの大鎌でこの首さえ落としてやれば、自らが望む唯一の願いは容易く果たされる。

突然、襟首を捕まれて預けていた頭を持ち上げられる。
何事と考える前にイレインは此方の髪に両手を突っ込むと、思い切り掻き乱された。

「こら、何を──!」

「もう、貴方ってば本当に!もう!お馬鹿さん!
もう少しましな言い方出来ないの?私を言い訳にするなら生きてる理由にしなさいよ!」

心外だと眉を吊り上げ、容赦無く長い赤毛を好き勝手にわしわし乱す。
肩を掴んであえなくひっぺかされたが、レイシェントは寝起きよりも酷い有り様になっている。

うんざりと髪を整える手櫛を『自業自得よ!』などと、イレインは密かにほくそ笑んで手伝ってやった。

だが、その笑みもすぐに消えて行く。
欠かれた魂で辛うじて生き繋ぐ男の、何と哀しい姿か。
だが、この男をこの様な──擦り切れた襤褸の有り様にした元凶はこの“イレイン”の存在なのだ。
段々と、髪をすく手が優しく、撫でるものへと変わる。

「……それじゃあ、レイ。
何も思い付かないなら、私の願いを貴方にあげるわ。
貴方と違って私にはやりたかった事、見たかった事、沢山あるんだから」

イレインはおもむろに白衣の裏から古びたノートを取り出した。

「それは……もしかすると、昔の日誌か?
何故君が……」

これは確か、元部下である黒軍服の男が『後日送る』と言って見せてきた画像のものと同じノートだった。

レイシェントは困惑しているものの、イレインはちょっと得意気な顔で『死者に時間流なんて関係無いもの』と嘯いてみせる。
差し出されるままノートを受け取ると、年数による劣化が見て取れる。
携帯端末の画像では見えなかった裏表紙には、何やら細胞らしき落書きが描かれていた。

どうやらこのノートは目の前の彼女とは違って本物の様だ。

「そのノート、数頁しか使ってないのよ。
……報告書や研究日誌以外に書く事なんて、殆ど無かったもの。
うん、最早貴方の観察日記になってるわね」

だから当人には見せたくなかったのだと、イレインは頭を掻いてあっけらかんと笑って見せた。

「貴方が続きを書いてくれる?
私が出来なかった沢山の事、見られなかった事、会えなかった人の事。
──私の意志は、貴方と共に」

「────!」

言葉が詰まり呼吸さえ忘れる程、ただただ瞠目した。
今正に目の前で、此方を慈しむかの様な微笑みを浮かべる虚像を凝視する。
いや、自らの記憶や認知外の事象を口にした“これ”は最早、虚像などではない。

「イレイン、君は……今、此処に居るのか?」

透けるような頬へ、おのずと手が震えた。今度は、伸ばさずには居られなかった。

「……肉体も魂も、全て借り物であることに変わりは無い。
だけど、仮初めでも微かでも、自己意志─自我を感じるあたり、さっきの私よりは“私”だわ」

触れる指先が心地好く、イレインは手に手を添えて頬を預ける。

「貴方が私の魂に安寧を祈ってくれていた様に、私も祈っていたわ。
存在可能な次元が分断されているのだからそんな事しか出来ない。所詮は独善と自慰、一方通行のシグナル。
けれど……、
──あぁ、やっと届けられた」

「……君はずっと側に居たのにな。
私は何も欠けてはいなかったのに」

ぼろぼろと碧眼から零れゆくものは何も濡らしはしない。死者は、何をも流しはしないのだ。
だが、唇を寄せ、壊れ物の様に拭ってやれば消えてくれた。

「虚像だろうが借り物だろうが、今は君……なのだろう?
なら、君の言っていた“やりたいこと”を一つでも叶えよう」

イレインの手を引いて立ち上がらせ、周囲を見回す。
いつの間にか立ち込めていた夜霧は晴れ、木々の隙間から冴え冴えと月光が注いでいた。

「えぇ──えぇ!」

笑い掛ける男に此方も無邪気な笑顔で頷き、応える。

「じゃあレイ。私、桜が見たいわ。
森の中でも野桜だったら咲いてないかしら。
一緒に、探してくれる?」

今や戦火で焼かれた懐かしの樹木花であった。
レイシェントは『解った』と一つ頷き、再び手を引いて森の中を歩き始めた。
甦ったにしては、ほんの細やかな彼女の夢を叶える為に。

それから、どれ程歩いただろうか。

疲労は無く、何処までも行けるのではないかと錯覚さえ起こしていた。
やがて空が白み始めた頃、風に乗った花弁がひらひらと舞い注いだ。
唐突に森が開けると、まるで誂えたかの様に満開に花を開いた桜の大樹が鎮座していた。

隣から、感嘆が洩れる。

薄明の空に白く浮かび上がる花を見上げ、近付いて根に視線を落とすと朱の結晶体が円陣の上に据えられていた。
滲み出るその異質は、森の奥から感じていたものと同じらしい。拾い上げてやれば呆気なく陣は消えてゆく。

「これは──っ、」

その時、唐突にやって来た突風が薄紅色の花弁を浚い、空高く舞い上げた。
反射的に隣に在るはずの肩を引き寄せようと手を伸ばしたが、ただ空を掴んだ。

「……イレイン?」

辺りを見回すが、この場には自分自身以外の他に何者の姿も気配も無かった。
東の空には黄橙の光が差し始め、夢の時間は終わりを告げていた。

「………」

結晶を握り締め、再び眼を落とすとそれは色を変えていた。
帯びる色は春の碧空に、薄紅の遊色を舞わせるクラック。

レイシェントは結晶を仕舞い込むと、桜の大樹に背を向け歩き出した。

「……祈りは既に、私の内に」

名残を惜しむべきものなど、最早この場に何も無く。
有るべきは、有るべき侭に還りゆく。

────

後日、持ち帰ったノートを開くと真新しい書き文字が加えられていた。

『少尉さんの名前、知らなかった訳じゃないの。
今度会ったらごめんねって伝えておいて』

「……覚えてたらな」

小さく応えて、静かにノートを閉じた。