「やっぱ酷ぇな……」
夜の蝕国より解放されたとは言え、魔物の襲来によって荒らされた聖都の様相はすっかり変わり果てていた。
崩れた瓦礫からの砂塵が風に舞い上がり、吹き流される。加えて大量の魔物の遺骸からの物であろうか。境界で見た程ではないが埃の中、仄かに血臭を孕んだ風は黒く色付き、白い月光を霞めて遮っていた。
やはりと言うべきか、峠を越えたとはいえ未だ聖都は混迷の最中なのだ。
ライフラインが絶たれている住居や施設も多いのだろう。今歩いている第三階層だけでなく下階層の街の灯も疎らである。
階層間を繋ぐエレベーターは五基の内三基が完全に破壊されており、修復が追い付いていない。
未だ魔物の活動が活発な深夜であっても避難場所を探す人の往来で混み合っている様だ。いや、夜であるなら何処に居ようが魔物に襲われるリスクは変わらないのだろう。
あれでは直ぐに利用は出来まい。
エレベーターに群がる群衆をを遠巻きに眺めながらその場を離れ、ゼクティスは適当な植え込みの段差にふらふらと手を付き、腰掛けた。
軍病院から早々と立ち去りはしたが、現状のゼクティスに月詠を探す当てなど有りはしない。
先程の話では、高位の魔物の手に有る可能性があるとの事だったが、自らの有り様を省みれば満足に戦える自信など皆無だった。
何かしらの情報を得る為に聖都内を歩き回るにしても、ほんの少し歩いただけでこうして酷い眩暈に襲われ、立っているだけでも危ういと言うのに。
自らの晒す体たらくが只々腹立たしかった。
─────
座り込んで数分も経たぬ内に突然ゼクティスの周囲に黒い影が過ったかと思うと、彼を取り囲む様に音も無く渦巻いた。
「魔物か、」と反射的に立ち上がり即座に抜剣出来る様に剣の束へと手を掛ける。
が、それは呆気なく杞憂に終わった。
黒い影が取り払われ、目の前に見慣れた姿が現れる。肩に大鎌を担いだ赤毛の男─レイシェントであった。やはりと言うべきか、彼の服や得物は魔物の返り血で濡れていたものの彼自身傷を負っている様子は無さそうだ。
ゼクティスはなんだ、と拍子抜けに息を吐き出し剣から手を放した。
「あんたか……驚かすなよ。
──夜通し魔物を片付けてるってのはホントだったんだな」
レイシェントは大鎌を空間の裏側へと預けながら「他に私が出来る事も無い。」と返答ともつかない呟き声で言った。
「それより」と此方に向き直ったかと思うと、レイシェントは突然ゼクティスの左肩を軽く突き飛ばす。
「いッ───!」
不意を突かれたのもある。だが今のゼクティスにはその程度の衝撃にすら抗えず大きくよろけ、植え込みに仰向けに倒れ込む。
激しく疼く痛みを堪え、何のつもりだとレイシェントを抗議の目で睨み上げる。が、先に口を開いたのはレイシェントの方であった。
「どうするつもりだ、その身体で。私には歩くのがやっとの様に見えるが?」
起き上がりながら、呆れさえ含んだレイシェントの視線から逃げる様に眼を背ける。言葉にせずとも判る。暗に『怪我人は大人しく病院へ戻れ。』と言っているのだろう。
しかし今のゼクティスには、レイシェントへ病院へ戻らない幼稚じみた理由をわざわざ話す気にもなれなかった。
「………」
思考による沈黙の挙げ句、答え代わりに聖都の情報を持ってはいないかと訊ねた。
「……あんたに会えたのは丁度良かった。
あの日から今日まで、変わった魔物を見なかったか?」
「………」
レイシェントは暫し眉を潜めてゼクティスを見詰めていたが、説得した所で無意味だと悟ったのだろう。執拗に言い寄る様な質でも無い。
彼はやがて諦めた様に長い溜め息を吐いた。
「……正直、あの日以降目にするのは過去に例を見ない個体ばかりだ。私も一々対処法を考えるのに頭を抱えている。
変わった、と言うのは具体的にどんな魔物だ?」
「それは───」
「実体と意志を持った上位の魔物……。
小僧、その身体でもう動いているとは思わなかったな」
レイシェントに応えたのはゼクティスの声ではなく、第三者のものであった。
声の方向を見遣れば、此方に歩み寄ってくる白い陰が夜闇に浮かび上がっていた。
何者なのか、と不意に現れた男への疑問を怪訝な表情で表すレイシェントへ応える様にゼクティスは「クラレンス。」とその男の名を呼ぶ。
「ゼクティス、と言ったか。その男はお前の仲間か?只の人間と呼ぶには少々無理が有りそうだが。」
「……それはそちらもだろう、何者だ。」
レイシェントは眉間の皺を深め、即座に右手を挙げると虚空から大鎌を喚び出す。
男の度量を図る為、人間の業ではない能力をわざとクラレンスへ見せたのだろう。対する男は無抵抗を示す為に手を挙げはしたが、然して狼狽えもせず動じる様子も無かった。
「教団に雇われている只の傭兵だ。生憎と、そんな物騒な得物を見せられる様な立場じゃない」
「……あんたからは人の臭いがしない」
首を横に振りながらレイシェントは身の丈程もある大鎌の柄を片手でくるりと回すと、クラレンスへと槍刃の穂先を突き付ける。
「おい、レイ……!」
急速にわだかまる剣呑な空気に、これはまずいとゼクティスはレイシェントの腕を掴む。明らかに敵意を表す行動をしておきながら、何故かレイシェントからは微塵の戦意も感じられない。
だが、牽制にしてもパフォーマンスが大仰に過ぎる。
一体何のつもりなのか。
じっとクラレンスを見据えていたレイシェントはゼクティスを一瞥する。やがて、再び大鎌を回すとあっさりと刃を引かせた。
「……かと言って、魔物の臭いがする訳でも無い。……あんたは“どちら側”だ?」
「お前達の利害からすれば、俺はそちら側だと思っているんだがな。」
やれやれと嘆息しながら挙げていた左腕を下ろす。
クラレンスの言葉に頷きながらゼクティスも「胡散臭いが、一応はコッチに協力するらしい。」と表向きの警戒を解く様にレイシェントへ促す。
レイシェントは仕方無い、と不承不承ながら対話に応じようと大鎌を下ろし改めて向き直った。
「……さっきあんたは、『実体と意志を持った上位の魔物』と言ったな。
何故そんなものを探している。……この長夜に何か関係が?」
「察しが良いな。」とクラレンスは皮肉るが、レイシェントは当然だとでも言う様に答える。
「あの日ほどでは無いが、この長夜が相変わらず魔物を喚んでいる。
此処で魔物を片付けながらだが、“元凶”らしきものは無いか私なりに探ってはいた」
この長い夜が魔物にとって都合の良い環境である事は間違いない。であれば、魔物側に“元凶”が有るのは考えずとも解る。
だが、その元凶が具体的にどう言った物かが不明である以上、手探りで探るより他無い。
ゼクティスはそれを聞き、レイシェントに月詠の件は伝わっていないと知る。
「あー……そう言えばあんた、他の連中にほとんど顔見せてねぇって言ってたっけ……」
「………そうだが」
仮にジェノブロウが他の者にも話していたとしても今回の一件の真相を知るごく一部の者だけであろうし、何度かレイシェントと顔を合わせたと言うエリザベートも療養中の身。エリザベートの性格を顧みれば彼女へ月詠の捜索の話を洩らす筈も無いだろう。
もし彼に月詠の事が伝わっていれば、とも思ったが、そもそもゼクティスの意識が戻る迄此方側に有るかも不明瞭だったのだ。そして、不可抗力だったとはいえ月詠を無くしたのもゼクティスである。
レイシェントには一切の責は無い。
「……まぁ良い。
ジェノブロウから聞いたんだが、月詠って剣がこの夜の呼び水になってるらしい。
で、月詠の性能を理解して使ってんなら相応の知性を持った魔物じゃねぇかって話になってる」
レイシェントは「成る程、それで高位の魔物か。」と頷く。
「魔物を殺した際には念の為に全て取り込んでおいたが、それ程のものとなると……」
そこまで呟いた所でレイシェントは顎に指を添え、考え込む様に口を噤んだ。
「何か思い当たる事が?」とゼクティスが尋ねるとレイシェントは顔を上げ「もしかすると」と独り頷き、意を決した様に此方を見遣る。
「……二日前、魔物“らしきもの”を見た」
「らしき……?」
ああ、とレイシェントは一つ頷くと言葉を続ける。
「遠目にだが、人の様に歩く影を見た。形こそ人のものだったが纏っていたのは色濃い魔物の気配そのものだ。
少なくとも、今まで狩ってきた輩との格の違いが容易く計れる程度には強力な個体なのは直ぐに判った」
無論、レイシェントは直ぐ様その魔物らしきものの後を追いはしたものの、相対には至らなかったと言う。それ以降も探してはいるが深く潜っているのか見ては居ない、とレイシェントは首を横に振った。
魔物は力を得れば得るほど人に近付く。
それは既にゼクティスも身を以て知っていた。
例え月詠を持っていなかったとしても人の形に近付いた個体である。捨て置くには危険な個体だが、あちらから姿を見せない限りは対処し様が無い。
レイシェントでさえも所詮は人造亜種、混ざりものの半魔である。“あちら側”へは踏み込めない。
「姿を見せてはいないが、未だこの聖都からは離れていない」
「ほぉ、そこまで判るか。随分と便利な鼻を持っている様だ」
「………」
レイシェントの魔物に対する探知能力は、今や科学技術などでは再現不可能な程に優れている。その彼が言うのだから間違いは無いのだろう。
レイシェントはゼクティスを見遣ると今度ははっきりと言葉にして告げる。
「……お前にやるべき事があるのは判った。だが、最優先すべきはその怪我を治す事だ。
月詠を探すのは私でも出来る。今のお前では只の足手まといだ、戻れ」
「んだとッ……!!」
レイシェントの物言いにゼクティスは思わず激昂し、掴み掛かった。
その時。
何処からか人の悲鳴と、続けて断末魔の叫びがゼクティスらの耳に届く。
最初に動いていたのはクラレンスであった、と言うよりは気付けば既に居なくなっていたと言う方が正しいか。
レイシェントはゼクティスを一瞥すると、影の塊にその身を移しあっさりと手から逃れる。
その後は瞬時に夜闇に紛れ、気配も視覚にも姿を捉える事は出来なくなった。
「……クソッ……」
虚空を掴まされた拳を苛立たしく振り下ろす。
足手まといなど、言われずとも解っている。だが、怪我があろうがあの侭ベッドの上で安穏と寝ていられる程、能天気な神経は残念ながら備えていない。
何より今は動いていなければ忸怩の泥濘に囚われる。その恐怖が何より彼を駆り立て、追い立てる。
ゼクティスも、既に姿を消した二人の後を追う様に喧騒の巻き起こる方向へと足を向けた。
─────
勢い付けて向かいはしたものの、思い通りにならない身体は引き摺る様な重さを脚に課してくる。遅れてようやく辿り着いた先は階層間を繋ぐ為の軌道エレベーター前であった。
つい先程通りがかり、深夜にも関わらず人集りの出来ていた筈の場所である。だが、先程の喧騒とは打って変わって押し潰される程の静寂が辺りを満たしていた。
変わりに、辺り一面は小間切れにされた人々の死体──否、只の肉片が雑多に散らばっている。
真新しい鮮血がペンキをぶち撒けた様に辺り一面を染め、色濃い血臭がこの場を満たしていた。
一体何が、などと安穏にして月並みな台詞を吐くことは憚れた。
乏しい灯りの中で血溜まりの中央に微かに蠢く黒い塊、目を凝らして良く見ればそれは人影か。
この場で息の有る生者はその影と、先に着いていたクラレンス、レイシェント、加えてゼクティス以外に存在してはいなかった。
探らずとも解るが警備の兵も皆、為す術なく小間切れに刻まれたのであろう。
クラレンスもレイシェントも動こうとはしない。三者は三様に息を殺し、血溜まりの中を凝視する。
満たされた静寂の中で唯一存在が認められたかの様に、濡れた咀嚼音と時折こりこりと言う固い物を噛み砕く音が単調に響く。
「魔物、か……?」
堪え切れず声を洩らしながら近付こうとするゼクティスをレイシェントが腕を掴んで制する。彼は首を横に振りながら緊張に張り詰めた声で言う。
「そんなものではない、これは……」
散乱した死体の真ん中に踞った人影はぴたりと動きを止め、のろのろと立ち上がる。そしてふらふらと身体を揺らしながらゆっくりと此方を振り返った。
頭からペンキでも被った様な返り血でその身は真っ赤に染まっていたが、それでもその姿にゼクティスは既視感を覚えた。
「───!お前ッ……!?」
だが、ゼクティスが口を開くより先にそれが仕掛けて来た。
唸る風切り音が耳に届く。
この暗所で風を切る程の速度を持った攻撃を目視どころか把握する術など、只の人間が持ち得る筈も無い。
風を切り裂いたものの正体がゼクティスに及ぶより速く、眼前はレイシェントの背に阻まれていた。仕掛けられた攻撃は彼の大鎌や魔物としての力により精製された槍によって悉く受け止められていた。
攻撃手段として用いられたそれは、骨を接いで作られた鞭の様なものであった。そして鞭の先端、刃先は全てゼクティスの方を向いていた。
レイシェントが庇う為に動いていなければ呆気なく針串刺しにされていた事だろう。
「……っ、知っているのか」
レイシェントは振り返る余裕無くゼクティスに問う。攻撃を受け止め、通り抜かせぬ様に堪えている。
だがゼクティスは、攻撃を仕向けてきた本体の姿に瞠目し狼狽え、眼前のレイシェントにすら微塵の気を向けることさえ出来ない。
「似ちゃいる……が、んな馬鹿な……此処にいる筈が……あれは、」
半ば譫言の様に朦朧と、だが確かに「ネイエ」と乾ききった声で呟いた。
レイシェントにとっては覚えの無い名に眉をひそめたが、ゼクティスの声色から察するに彼と親しい者の姿なのだろうと言うことは推し量れた。
金属の発する甲高い音が瞬と聞こえたかと思えば、レイシェントが受け止めていた加重が解かれる。
クラレンスの剣が骨接ぎの鞭を断ち切ったのだった。切断された断面からは魔物特有の濃い赤黒い粘液が噴出し、また一層血臭に色濃さが増す。
信じ難かったが地に落ちたそれを見ても、やはりゼクティスが境界の中で相対した悍ましい姿と果てたネイエリエが操っていたものであった。
(そんな馬鹿な事があるか!)
否応なく裏付けされて行く可能性を叩き落とす様に真っ向から否定する。正気の自我を守る為に否定せよと理性が訴えている。
しかし今相対しているその姿、先の邂逅での少女のものからは成長しているものの、やはり他人の空似という程度では済まない。
よく覚えている。首を落としたあの硬い感触は雪がれる事の無い呪いの様に、或いは血油の様に手に染み付いている。
殺した筈だ。失望と裏切りの報復の様に殺した。再生など出来ない様にその頭蓋を砕いて仕留めた筈、なのに。
ゼクティスの頭は既に煮えていた。レイシェントを押し退け、“それ”の前へ躍り出た。Requiemに手を掛けて下へ引き、剣を鞘から外す。
咄嗟にレイシェントが止めようと肩を掴むが、今度は荒く振り払った。
「ふざけた面下げやがって……てめぇ、誰だ!!」
「おい待て迂闊に───」
ネイエリエの顔を持った“それ”は口角を吊り上げ笑みの形を作った。
これが己を惑わす為に作られたものであるならと、首を斬り飛ばすべくゼクティスは剣を真横に薙ぎ払った。
だが、いつもより力の入らない大剣は容易く骨継ぎの鞭に絡め取られると軌道を下方に抑えられ、切っ先は舗装タイルへ叩き落とされた。
大剣を地に抑えられた侭引き戻す事も出来ず、拮抗する。
「野郎……!」
身体に巻かれた包帯の内側へ噴出する湿り気と痛みに忌々しく歪ませた眼を少女へ向ける。
対する少女は気味の悪い笑みを口元に張り付けた侭、やがてくすくすと嗤いを洩らしていた。
「辛そうね、とっても痛そうだわ。“お兄ちゃん”。それ、とても素敵。心がぎゅうって熱くなる。
……“ネイ”、もっと見たいなぁ」
舌を舐めずりながら血で汚れた顔を此方に寄せ、囁く。
噎せる程の血臭を染み付け、爛々と金眼を光らせながら、今何と言ったかこの悍ましい“化物”は。
「てめぇ、今何て」
気付けば衝動的に左手で少女の首を掴み絞め上げていた。
並みの人間ならば気道が圧迫され呼吸も儘ならない筈だが少女は平然と、寧ろ愉しげにけらけらと声を上げて嗤い始めた。
「あぁやっぱり酷い、酷いなぁお兄ちゃん。ネイの事忘れちゃった?
もうわたしを殺した事さえ忘れちゃった?」
「────!」
最早否定のし様も無かった。
全身が感覚麻痺に襲われたかの様に、ゼクティスは只々瞠目する事しか出来なくなった。
強張り、首を掴んで固まった侭の腕にやんわりと手を添えると、容易く引き剥がす。
ネイエリエの細首にはくっきり紫色に変色した鬱血の痕が残っていたが、それは瞬く間に消えた。やはりその表情には痛みも恐怖も無く笑みを湛えた侭、不気味なものだ。
「お兄ちゃんが今考えてる事、当ててあげる。『どうして生きてる?』
ね、ほら、当たりでしょ!」
精々12歳かそこらだった筈の外見年齢はおよそ18歳程度にまで成長し、からかう様な口振りもかつての幼気なものとは全く質が違う。
悪辣、憎悪。そう言った類いの感情が、口にされるまでもなく此方に晒し出されている。
ネイエリエはにっこりと眼を細め首を傾げた。
「お兄ちゃんは先生まで殺そうとした。
先生は最期にネイの所へ来てくれたの。わたしもとても苦しくて、何が何だか解らなくなってた。
───気付いたら先生は“私の中に居た”。
ネイと一緒になったのよ」
「……先生を喰いやがったのか」
「やぁだぁ、どうして?
先生を殺したのはお兄ちゃんでしょ?何でそんな怖い顔するの?ネイを責めるみたいな、こわい顔」
ネイエリエはじぃっと首を捻りながら此方の顔を淀んだ金眼で覗き込む。
その眼は心理を侵す背徳感を噴出させ、沸き立たせる。
堪え切れずゼクティスの右腕が跳ねたその時、ネイエリエの身体が真横に吹っ飛ばされる。
10代の少女その侭の華奢な身体は容易く浮かび、壁に激突し粉塵を巻き上げて止まった。
「“只の魔物”のたわごとだ。飲まれるな」
静かな声を振り返れば、大鎌を振り抜いたレイシェントの姿が在った。
「レイ!手ぇ出すな!あれは、」と声を荒げるが、レイシェントにしては不似合いな程荒くゼクティスの胸倉を掴み上げた。
反して、低く抑えられたその声はやはり静かに落ち着いたものだった。
「魔物だ。我々が忌むべき、廃滅すべき魔物だ」
長い赤毛の隙間から覗くレイシェントの金眼は氷でも嵌め込んだ様に、酷く冷えていた。
静かに一言、それだけ言うとゼクティスを押し退け、強く突き放す。彼は呆気なく背中から地に倒れこんだがレイシェントがそれに構う事は無かった。
「“あれ”は、魔物も人も生死も問わず喰っている悪食の化物だ。対話しようなどと馬鹿な事は考えるな」
レイシェントはネイエリエが吹っ飛ばされた方へと脚を向ける。
姿は人に似て貌は似ているが、あれはレイシェントの様に人に混ざったのではない。魔物が人に進化してしまったもの。
意志を持ち、それらしく会話が成り立とうともその本質は単純、人の様な繊細な感情など持ち得ようも無い。“只の魔物”である。早急に、迅速に廃されなければならない。
魔物がこの世を生きる事は、許されないのだ。
大鎌をくるりと回して構え直し、ネイエリエを仕留めるべく早足で距離を詰める。
(あれはけして、逃してはならない)
面には出さずとも、熱を持って掻き乱す焦燥があった。
照明も疎らの暗所で粉塵舞う中、視覚で姿を捉えるのは容易では無いがこれ程巨きな魔物の気である。視覚に頼る迄もない。
レイシェントは数十の黒槍を精製したかと間髪入れず、一分の情け容赦無く撃ち込んだ。
だが直ぐ異変に気付く。槍は何かに弾かれ、全く無為な方向へ飛んでいる。
レイシェントは槍での攻撃を止め、大鎌が届く距離まで大股で間合いを詰める。
暗がりの中で倒れる人影が視認出来るまで近付いたとき、それは忽然と消えた。
「───!」
確かにそこに居た筈、知覚出来る気配さえ完全に無くなり周囲を見回す。
背に一筋、凍てつかんばかりの怖気が蛇の如く這った。
反射的に振り返ったが僅かに遅く、続けて這われた怖気の道筋の侭に背が裂けた。続けて暖かい血が噴出し、じわじわと背を濡らす。
痛みを感じたのは遅れて数秒後、鋭利な刃物で斬り裂かれたか。
つい膝をよろめかせたが、2歩で踏み留まり振り向き様に大鎌を振り上げた。だが、甲高い金属音の主に受け止められた。
靄ついた暗闇の中、はっきりと紫色の刃──片刃の刀身の形が鈍く光を帯びて浮かび上がる。
大鎌を受け止めた侭刀身の切先が此方を向き、胴を狙って突き込まれる。
半端に身を捻った体勢では次撃を躱す事は出来ない。
それでもと刃の支点となっている大鎌を引き、狙いをずらして皮膚が裂かれる程度に留めた。
続き様に紫色の刃がレイシェントを追うが姿勢を立て直しつつ後退し、丁度届かない間合いを保つ。
痛手は被ったが太刀筋は非常に稚拙なものだ。まるで子供が棒切れを武器に見立てて振り回しているかの様だ。
悍ましい殺意、此方に対する敵意は紛れ無いものだが技術が全く追い付いていない。であれば、例え凶悪な力を得ていようと付け入る隙は幾らでもある。
「待て」
レイシェントが反撃に転じようとした時、両者の間に何者かが割って入った。
一瞬ゼクティスかとも思ったが、眼前を遮る白装束はクラレンスのものだった。
彼は刀を振るう腕、正確には刀が装着された二の腕を掴み動きを封じていた。
そこで漸く黒い靄に包まれていた敵の姿が露になった。
先程迄は薄赤い髪の少女であった筈だが、今は漆黒の鎧を身に纏っている。
その姿は、割り入る隙も無く見ていたゼクティスを刮目させるものであった。そして、大いに既視感を抱かせるものでもあった。
「あれは、先生の……!」
硬質な漆黒の鎧はリオの魔物として所有していた特性の一つであった。
やはりリオを取り込んだと言うネイエリエの言葉は真実であったのか。
いや、元々あの少女は嘘が苦手だった。そして先程の恨み言を顧みれば、はなから憚る気も無かったろう。
顔を覆い尽くす面はクラレンスを見上げ首を傾げる。「おじさん、だぁれ?」と中から少女の声が鳴った。
「それは、その“DIABOLOS”はリオの剣だった筈だ。
そうかそう言う事か……お前達の言う先生とやらはリオの事か……。ここでも繋がるとは、滑稽なものだ」
片腕一本で魔物の腕力を抑えるとは。いやそれよりこの男、明確に剣の銘をDIABOLOSと称した。リオとも面識があったのかとゼクティスは眉を潜めた。
「なぁんだ、先生の知り合い?
なら手伝って欲しいなぁ。わたし、先生の復讐をしてそして先生のやりたかった事を代わりにしてあげたいの」
クラレンスは「いや、」とあっさり首を振る。
「誘う相手が違うな。因縁も無い俺は手を出すまいと思っていたが、残念ながら今から貴様も“後始末”の対象だ」
「そう、そっか。なら良いよ、代わりに死んでさえくれれば。
どうせもう、この世界の何処にもネイの味方なんて居ないんだから。
でも寂しくなんてない。ネイの中には先生が居るから」
ひひ、と面の内側から引き攣った嗤いが洩れる。
だが、その様子とは裏腹にネイエリエは刀が装着された腕を抑えられた侭、敢えて払おうとはしなかった。
彼女の持つ骨継ぎ鞭で弾き飛ばす方が早いと考えたのだろう。背から再び生え出した6本の鞭が各々生き物の様に激しく暴れ狂う。
レイシェント、クラレンスの両者は咄嗟に飛び退きはしたものの完全に避けるには敵わず血飛沫を散らした。
「あぁ……けど今はやっぱり未だ駄目。未だ全然馴染んでない。足りない。戦ってもお兄ちゃん達に勝てっこないや。
それに……、お兄ちゃんとは本気で殺し合いたいもん。ネイ、お兄ちゃんが元気になるまで待ってるから」
「……!逃がさんッ……!」
逃亡を察し、ネイエリエを捉えようとレイシェントは影を喚ぶが容易く跳ね除ける。槍を精製して串刺しにしようにも、嘗ての竜騎士に倣った装甲はがりがりと耳障りな音を撒き散らし表面を削っただけで攻撃を内部に通すことは無かった。
「安心して、ネイはもうここには来ないから。
だって怖い人が多いんだもん」
そしてまともな痛手を与える間も無く、くすくすと嗤い続けるネイエリエの姿は液体の様にどろりと溶け、地に染みて消え失せた。
「お兄ちゃんと最高の殺し合いが出来るの、楽しみにしてるね」
その後暫くも、屍肉が散乱し鉄臭い臭いが充満するエレベーター前から立ち去る迄は少女の嗤いがしつこく耳にこびりついていた。
「やっぱ酷ぇな……」
夜の蝕国より解放されたとは言え、魔物の襲来によって荒らされた聖都の様相はすっかり変わり果てていた。
崩れた瓦礫からは砂塵が風に舞い上がり、吹き流される。加えて大量の魔物の遺骸からの物であろうか。境界で見た程ではないが埃の中、仄かに血臭を孕んだ風は黒く色付き、白い月光を霞めて遮っていた。
やはりと言うべきか、峠を越えたとはいえ未だ聖都は混迷の最中なのだ。
ライフラインが絶たれている住居や施設も多いのだろう。今歩いている第三階層だけでなく下階層の街の灯も疎らである。
階層間を繋ぐエレベーターは五基の内三基が完全に破壊されており、修復が追い付いていない。
未だ魔物の活動が活発な深夜であっても避難場所を探す人の往来で混み合っている様だ。いや、夜であるなら何処に居ようが魔物に襲われるリスクは変わらないのだろう。
あれでは直ぐに利用は出来まい。エレベーターに群がる群衆をを遠巻きに眺めながらその場を離れ、ゼクティスは適当な植え込みの段差にふらふらと手を付き、腰掛けた。
軍病院から早々と立ち去りはしたが、現状のゼクティスに月詠を探す当てなど有りはしない。
先程の話では、高位の魔物の手に有る可能性があるとの事だったが、自らの有り様を省みれば満足に戦える自信など皆無だった。
何かしらの情報を得る為に聖都内を歩き回るにしても、ほんの少し歩いただけでこうして酷い眩暈に襲われ、立っているだけでも危ういと言うのに。
自らの晒す体たらくが、ただただ腹立たしく焦れるばかりだった。
─────
座り込んで数分。生温い風が吹き、突然ゼクティスの周囲に黒い影が過った。風に乗って瓦礫から飛んで来た襤褸かとも思ったが、それは彼を取り囲む様に音も無く渦巻いた。
「魔物か」と反射的に立ち上がり、即座に抜剣出来る様に剣の束へと手を掛ける。
──が、それは呆気なく杞憂に終わった。
黒い影が取り払われ、目の前に見慣れた姿が現れる。肩に大鎌を担いだ赤毛の男──レイシェントであった。やはりと言うべきか、彼の服や得物は魔物の返り血で酷く汚れていたものの彼自身傷を負っている様子は無さそうだ。
ゼクティスは拍子抜けに息を吐き出し、剣の柄から手を放した。
「あんたか……驚かすなよ。
夜通し魔物を片付けてるってのは、ホントだったんだな」
レイシェントは大鎌を空間の裏側へと預けながら「他に私が出来る事も無い」と返答ともつかない呟き声で言った。
「それより」と此方に向き直ったかと思うと、レイシェントは突然ゼクティスの左肩を掴んで軽く押す。
「いッ──!」
不意を突かれたのもある。だが、今のゼクティスにはその程度の力にすら抗えず大きくよろけ、植え込みに仰向けに倒れ込んだ。
激しく疼く痛みを堪え、何のつもりだとレイシェントを抗議の目で睨み上げる。が、先に口を開いたのはレイシェントの方であった。
「どうするつもりだ、その身体で。私には歩くのがやっとの様に見えるが」
起き上がりながら、呆れさえ含んだレイシェントの視線から逃げる様に眼を背ける。言葉にせずとも判る。暗に『怪我人は大人しく病院へ戻れ』と言っているのだろう。
しかし今のゼクティスには、病院へ戻らない幼稚じみた理由をわざわざ話す気にもなれなかった。
「……」
思考による沈黙の挙げ句、答えの代わりに聖都の情報を持ってはいないかと訊ねた。
「……あんたに会えたのは丁度良かった。
あの日から今日まで、変わった魔物を見なかったか?」
「……」
レイシェントは眉をひそめ、静かな金眼でゼクティスを見詰めていたが、説教した所で無意味だと悟ったのだろう。執拗に言い寄る様な質でも無い。
彼はやがて諦めた様に長い溜め息を吐いた。
「……正直、あの日以降目にするのは過去に例を見ない個体ばかり。私も一々対処法を考えるのに頭を抱えている。
変わった、と言うのは具体的にどんな魔物だ」
「それは──」
「実体と意志を持った上位の魔物……。
小僧、その身体でもう動いているとは。少しは骨があるか」
レイシェントに応えたのはゼクティスの声ではなく、第三者のものであった。
声の方向を見遣れば、此方に歩み寄ってくる白い陰が夜闇に浮かび上がっていた。
何者なのか、と不意に現れた男への疑問を怪訝な表情で表すレイシェントへ応える様にゼクティスは「クラレンス」とその男の名を呼ぶ。
「ゼクティス、と言ったか。その男はお前の仲間か?ただの人間と呼ぶには、少々無理が有りそうだが」
「……それはそちらもだろう、何者だ」
レイシェントは眉間の皺を深め、即座に右手を挙げると虚空から大鎌を喚び出す。
男の度量を図る為、人間の業ではない能力をわざとクラレンスへ見せたのだろう。対する男は無抵抗を示す為に手を挙げはしたが、然して狼狽えもせず動じる様子も無かった。
「教団に雇われているただの傭兵だ。生憎と、そんな物騒な得物を見せられる様な立場じゃない」
「……あんたからは人の臭いがしない」
首を横に振りながらレイシェントは身の丈ほどもある大鎌の柄を片手でくるりと回すと、クラレンスへと槍刃の穂先を突き付ける。
「おい、レイ……!」
急速にわだかまる剣呑な空気に、これはまずいとゼクティスはレイシェントの腕を掴む。明らかに敵意を表す行動をしておきながら、何故かレイシェントからは微塵の戦意も感じられない。
だが、牽制にしてもパフォーマンスが大仰に過ぎる。
一体何のつもりなのか。
じっとクラレンスを見据えていたレイシェントはゼクティスを一瞥する。やがて、再び大鎌を回すとあっさりと刃を引かせた。
「……かと言って、魔物の臭いがする訳でも無い。……あんたは“どちら側”だ?」
「お前達の利害からすれば、俺はそちら側だろうな。一応、導師とはお前達より付き合いが長い」
やれやれと嘆息しながら挙げていた左腕を下ろす。
クラレンスの言葉に頷きながらゼクティスも「胡散臭いが、一応はコッチに協力するらしい」と表向きの警戒を解く様にレイシェントへ促す。
レイシェントは仕方無い、と不承不承ながら対話に応じようと大鎌を下ろし改めて向き直った。
「……さっきあんたは、『実体と意志を持った上位の魔物』と言ったな。
何故そんなものを探している。……この長夜に何か関係が?」
「察しが良いな」とクラレンスは皮肉るが、レイシェントは当然だとでも言う様に答える。
「あの日ほどでは無いが、この長夜が相変わらず魔物を喚んでいる。
此処で魔物を片付けながらだが、“元凶”があるはずとか私なりに考え、探ってはいた」
この長い夜が魔物にとって都合の良い環境である事は間違いない。であれば、魔物側に“元凶”が有るのは考えずとも解る。
だが、その元凶が具体的にどう言った存在であるかも掴めてはおらず、未だに何もかも手探りの状況だ。
ゼクティスはそれを聞き、レイシェントに月詠の件は伝わっていないと知る。
「あー……そう言えばあんた、他の連中にほとんど顔見せてねぇって言ってたっけ……」
「……そうだが」
仮にジェノブロウが他の者にも話していたとしても今回の一件の真相を知るごく一部の者だけであろうし、何度かレイシェントと顔を合わせたと言うエリザベートも療養中の身。エリザベートの性格を顧みれば彼女へ月詠の捜索の話を洩らすことは無いだろう。
もし彼に月詠の事が伝わっていれば、とも思ったが、そもそもゼクティスの意識が戻るまで此方側に有るかも不明瞭だったのだ。そして、不可抗力だったとはいえ月詠を無くしたのもゼクティスである。
レイシェントには一切の責は無い。
「……まぁ良い。
ジェノブロウから聞いたんだが、月詠って剣がこの夜の呼び水になってるらしい。
で、月詠の性能を理解して使ってんなら相応の知性を持った魔物じゃねぇかって話になってる」
レイシェントは「成る程、それで高位の魔物か」と頷く。
「魔物を殺した際には念の為に全て取り込んでおいたが、それ程のものとなると……」
そこまで呟いた所でレイシェントは顎に指を添え、考え込む様に口を噤んだ。
「何か思い当たる事が?」とゼクティスが尋ねるとレイシェントは顔を上げ「もしかすると」とひとり頷き、意を決した様に此方を見遣る。
「……二日前、魔物“らしきもの”を見た」
「らしき……?」
ああ、とレイシェントは一つ頷くと言葉を続ける。
「遠目にだが、人の様に歩く影を見た。形こそ人のものだったが纏っていたのは色濃い魔物の気配そのものだ。
少なくとも、今まで狩ってきた輩との格の違いが容易く計れる程度には強力な個体なのは直ぐに判った」
無論、レイシェントは直ぐ様その魔物らしきものの後を追いはしたものの、相対には至らなかったと言う。それ以降も探してはいるが深く潜っているのか見てはいない、とレイシェントは首を横に振った。
魔物は力を得れば得るほど人に近付く。
それは既にゼクティスも身を以て知っていた。
例え月詠を持っていなかったとしても人の形に近付いた個体である。捨て置くには危険な個体だが、あちらから姿を見せない限りは対処し様が無い。
レイシェントでさえも所詮は人造亜種、混ざりものの半魔である。“あちら側”へは容易に踏み込めない。
「姿を見せてはいないが、未だこの聖都からは離れていない」
「ほぉ、そこまで判るか。随分と便利な鼻を持っている様だ」
「……」
レイシェントの魔物に対する探知能力は、今や科学技術などでは再現不可能なほどに鋭敏になっている。その彼が言うのだから間違いは無いのだろう。
レイシェントはゼクティスを見遣ると今度ははっきりと言葉にして告げる。
「……お前にもやるべき事があるのは判った。だが、最優先すべきはその怪我を治すこと。
月詠を探すのは私でも出来る。今のお前ではただの足手まといだ、戻れ」
「んだとッ……!!」
レイシェントの物言いにゼクティスは思わず激昂し、掴み掛かった。
その時。何処からか絹を裂く様な人の悲鳴と、続けて断末魔の叫びがゼクティスらの耳に届く。
最初に動いていたのはクラレンスであった、と言うよりは気付けば既に居なくなっていたと言う方が正しいか。
レイシェントはゼクティスを一瞥すると、影の塊にその身を移してあっさりと手から逃れる。
その後は瞬時に夜闇に紛れ、気配も視覚にも姿を捉える事は出来なくなった。
「……クソッ……」
虚空を掴まされた拳を苛立たしく振り下ろす。
足手まといなど、言われずとも解っている。だが、怪我があろうがあのままベッドの上で安穏と寝ていられるほど、能天気な神経は残念ながら備えていない。
何より今は動いていなければ忸怩の泥濘に囚われる。その恐怖が何より彼を駆り立て、追い立てる。
ゼクティスも、既に姿を消した二人の後を追う様に喧騒の巻き起こる方向へと足を向けた。
─────
勢い付けて向かいはしたものの、思い通りにならない身体は鉛の枷の如き重さを脚に課してくる。遅れてようやく辿り着いた先は階層間を繋ぐ為の軌道エレベーター前であった。
つい先程通りがかり、深夜にも関わらず人集りの出来ていたはずの場所である。だが、先程の喧騒とは打って変わって押し潰される程の静寂が辺りを満たしていた。
変わりに、辺り一面は人の死体──だったであろう細切れの肉片が転がっている。
何人分かも判らぬ真新しい鮮血がペンキをぶち撒けた様に辺り一面を染め、色濃い血臭がこの場を満たしていた。
一体何が、などと安穏にして月並みな台詞を吐くことは憚れた。
乏しい灯りの中で血溜まりの中央に微かに蠢く黒い塊、目を凝らして良く見ればそれは人影か。
この場で息の有る生者はその影と、先に着いていたクラレンス、レイシェント、加えてゼクティス以外に存在してはいなかった。
探らずとも解るが警備の兵も皆、為す術なく小間切れに刻まれたのであろう。
クラレンスもレイシェントも動こうとはしない。三者は三様に息を殺し、血溜まりの中を凝視する。
満たされた静寂の中で唯一存在が許されているかの様に、濡れた咀嚼音と時折こりこりと言う固い物を噛み砕く音が単調に響く。
「魔物、か……?」
堪え切れず声を洩らしながら近付こうとするゼクティスをレイシェントが腕を掴んで制する。彼は首を横に振りながら緊張に張り詰めた声で言う。
「そんなものではない、これは……」
散乱した死体の真ん中に踞った人影はぴたりと動きを止め、のろのろと立ち上がる。そしてふらふらと身体を揺らしながらゆっくりと此方を振り返った。
頭からペンキでも被った様な返り血でその身は真っ赤に染まっていたが、それでもその姿にゼクティスは既視感を覚えた。
「───!お前ッ……!?」
だが、ゼクティスが口を開くより先にそれが仕掛けて来た。
唸る風切り音が耳に届く。
この暗所で風を切る程の速度を持った攻撃を目視どころか把握する術など、ただの人間が持ち得る筈も無い。
風を切り裂いたものの正体がゼクティスに及ぶより速く、眼前はレイシェントの背に阻まれていた。仕掛けられた攻撃は彼の大鎌や魔物としての力により精製された槍によって悉く受け止められていた。
攻撃手段として用いられたそれは、骨を接いで作られた鞭の様なものであった。そして鞭の先端、刃先は全てゼクティスの方を向いていた。
レイシェントが庇う為に動いていなければ呆気なく針串刺しにされていた事だろう。
「……っ、知っているのか」
レイシェントは振り返る余裕無くゼクティスに問う。攻撃を受け止め、通り抜かせぬ様に堪えている。
だがゼクティスは、攻撃を仕向けてきた本体の姿に瞠目し狼狽え、眼前のレイシェントにすら微塵の気を向けることさえ出来ない。
「似ちゃいる……が、んな馬鹿な……此処にいるはずが……あれは」
半ば譫言の様に朦朧と、だが確かに「ネイエ」と乾ききった声で呟いた。
レイシェントにとっては覚えの無い名に眉をひそめたが、ゼクティスの声色から察するに彼と親しい者の姿なのだろうと言うことは推し量れた。
金属の発する甲高い音が瞬と聞こえたかと思えば、レイシェントが受け止めていた加重が解かれる。
クラレンスの剣が骨接ぎの鞭を断ち切ったのだった。切断された断面からは魔物特有の濃い赤黒い粘液が噴出し、また一層血臭に色濃さが増す。
信じ難かったが地に落ちたそれを見ても、やはりゼクティスが境界の中で相対した悍ましい姿と果てたネイエリエが操っていたものであった。
(そんな馬鹿な事があるか!)
否応なく裏付けされて行く可能性を叩き落とす様に真っ向から否定する。正気の自我を守る為に否定せよと理性が訴えている。
しかし今相対しているその姿、先の邂逅での少女のものからは成長しているものの、やはり他人の空似という程度では済まない。
よく覚えている。首を落としたあの硬い感触は雪がれる事の無い呪いの様に、或いは血油の様に手に染み付いている。
殺したはずだ。失望と裏切りの報復の様に殺した。再生など出来ない様にその頭蓋を砕いて仕留めたはず、なのに。
ゼクティスの頭は既に煮えていた。痛みなど焼き払われ、レイシェントを押し退けて“それ”の前へ躍り出た。Requiemに手を掛けて下へ引き、剣を鞘から外す。
咄嗟にレイシェントが止めようと肩を掴むが、今度は荒く振り払った。
「ふざけた面下げやがって……てめぇ、誰だ!!」
「おい待て迂闊に──」
ネイエリエの顔を持った“それ”は口角を吊り上げ笑みの形を作った。
これが己を惑わす為に作られたものであるならと、首を斬り飛ばすべくゼクティスは剣を真横に薙ぎ払った。
だが、いつもより力の入らない大剣は容易く骨継ぎの鞭に絡め取られると軌道を下方に抑えられ、切っ先は舗装タイルへ叩き落とされた。
大剣を地に抑えられたまま引き戻す事も出来ず、拮抗する。
「野郎……!」
身体に巻かれた包帯の内側へ噴出する湿り気と、執拗にまとわりつく痛みに忌々しく眼を歪ませ、少女へ向ける。
対する少女は気味の悪い笑みを口元に張り付けた侭、やがてくすくすと嗤いを洩らしていた。
「とっても痛そう、辛そうだわ。“お兄ちゃん”。そのお顔、とても素敵。こころがね、ぎゅって熱くなる。……“ネイ”、もっと見たいなぁ」
舌を舐めずりながら血で汚れた顔を此方に寄せ、囁く。噎せる程の血臭を染み付け、爛々と金眼を光らせながら、今何と言ったか。この悍ましい“化物”は。
「てめぇ、今何て」
気付けば衝動的に左手で少女の首を掴み、絞め上げていた。
並みの人間ならば気道が圧迫され呼吸も儘ならないはずだが少女は平然と、むしろ愉しげにげらげらと声を上げて嗤い始めた。
「アっはは!やっぱり酷い!酷いなぁお兄ちゃんは!!ネイの事忘れちゃった?
もうわたしを殺した事さえ忘れちゃった?」
「──!」
最早否定のし様も無かった。
全身が感覚麻痺に襲われたかの様に、ゼクティスはただただ瞠目する事しか出来なくなった。
強張り、首を掴んで固まったままの腕にやんわりと手を添えると、容易く引き剥がす。
ネイエリエの細首にはくっきり紫色に変色した鬱血の痕が残っていたが、それは瞬く間に消えた。やはりその表情には痛みも恐怖も無く笑みを湛えたまま、不気味なものだ。
「お兄ちゃんが今考えてる事、当ててあげる。『どうして生きてる?』ね、ほら、当たりでしょ!ネイ賢ぉい!」
精々十二歳かそこらだったはずの外見年齢はおよそ十代後半にまで成長し、からかう様な口振りもかつての幼気なものとは全く質が違う。
悪辣、憎悪。そう言った類いの感情が、口にされるまでもなく此方に晒し出されている。
ネイエリエはにっこりと眼を細め首を傾げた。
「お兄ちゃんはあんなに優しかった先生まで殺そうとした。
痛くて辛くて苦しくて泣いていたら、最期にネイの所へ来てくれて──気付いたら先生は“私の中に居た”。先生はネイと一緒になったのよ」
「……先生を喰いやがったのか」
「おかしいね、どうして?先生を殺したのはお兄ちゃんでしょ?何でそんな怖い顔するの?まるでネイが悪いみたいじゃない」
ネイエリエはじぃっと首を捻りながら此方の顔を淀んだ金眼で覗き込む。
その眼は心理を侵す背徳感を噴出させ、沸き立たせる。
堪え切れずゼクティスの右腕が跳ねたその時、ネイエリエの身体が真横に吹っ飛ばされる。
十代の少女そのままの華奢な身体は容易く浮かび、壁に激突し粉塵を巻き上げて止まった。
「“ただの魔物”のたわごとだ。飲まれるな」
静かな声を振り返れば、大鎌を振り抜いたレイシェントの姿が在った。
「レイ!手ぇ出すな!あれは」と声を荒げるが、レイシェントにしては不似合いなほど荒くゼクティスの胸倉を掴み上げた。
反して、低く抑えられたその声はやはり静かに落ち着いたものだった。
「魔物だ。我々が忌むべき、廃滅すべき魔物だ」
長い赤毛の隙間から覗く金眼は殺意に研がれ、氷でも嵌め込んだ様にひどく、冷えていた。
静かに一言、それだけ言うとゼクティスを押し退け、強く突き放す。彼は呆気なく背中から地に倒れ込んだがレイシェントがそれに構う事は無かった。
「“あれ”は、魔物も人も生死も問わず喰っている悪食の化物だ。対話しようなどと、馬鹿な事は考えるな」
レイシェントはネイエリエが吹っ飛ばされた方へと脚を向ける。
姿は人に似て貌は似ているが、あれはレイシェントの様に人に混ざったのではない。魔物が人に進化してしまったもの。
意志を持ち、それらしく会話が成り立とうともその本質は単純、人の様な繊細な感情など持ち得ようも無い。“ただの魔物”である。早急に、迅速に廃されなければならない。
魔物がこの世を生きる事は、許されないのだ。
大鎌をくるりと回して構え直し、ネイエリエを仕留めるべく早足で距離を詰める。
(あれはけして、逃してはならない)
面には出さずとも、熱を持って掻き乱す焦燥があった。
照明も疎らの暗所で粉塵舞う中、視覚で姿を捉えるのは容易では無い。しかしこれほど巨きな魔物の気である。視覚に頼るまでもない。
レイシェントは瞬時に数十の黒槍を精製し、間髪入れず一分の情け容赦も無く撃ち込んだ。
だが、直ぐ異変に気付く。槍は何かに弾かれ、全く無為な方向へ飛んでいる。
レイシェントは槍での攻撃を止め、大鎌が届く距離まで大股で間合いを詰める。
暗がりの中で倒れる人影が視認出来るまで近付いたとき、それは忽然と消えた。
「──!」
確かにそこに居たはず。知覚出来る気配さえ完全に無くなり周囲を見回す。
背に一筋、凍てつかんばかりの怖気が蛇の如く這った。
反射的に振り返ったが僅かに遅く、続けて這われた怖気の道筋のままに背が裂けた。続けて温かい血が噴出し、じわじわと背を濡らす。
痛みを感じたのは遅れて数秒後。鋭利な刃物で斬り裂かれたか。
「やだこっわい。いきなり針千本だなんて」
つい膝をよろめかせたが、二歩で踏み留まり振り向き様に大鎌を振り上げた。だが、甲高い金属音の主に受け止められた。
靄ついた暗闇の中、はっきりと紫色の刃──片刃の刀身の形が鈍く光を帯びて浮かび上がる。
大鎌を受け止めたまま刀身の切先が此方を向き、胴を狙って突き込まれる。
半端に身を捻った体勢では次撃を躱す事は出来ない。
それでもと刃の支点となっている大鎌を引き、狙いをずらして皮膚が裂かれる程度に留めた。
続き様に紫色の刃がレイシェントを追うが、姿勢を立て直しつつ後退。丁度届かない間合いを保つ。
痛手は被ったが太刀筋は非常に稚拙なものだ。まるで子供が棒切れを武器に見立てて振り回しているかの様だ。
悍ましい殺意、此方に対する敵意は紛れ無いものだが、得物を操る技術が全く追い付いていない。であれば、例え凶悪な力を得ていようと付け入る隙は幾らでもある。
「待て」
レイシェントが反撃に転じようとした時、両者の間に何者かが割って入る。一瞬ゼクティスかとも思ったが、眼前を遮る白装束はクラレンスのものだった。
彼は刀を振るう腕、正確には刀が装着された二の腕を掴み動きを封じていた。
そこでようやく黒い靄に包まれていた敵の姿が露になった。
先程までは薄赤い髪の少女であったはずだが、今は漆黒の鎧を身に纏っている。
その姿は、割り入る隙も無く見ていたゼクティスを刮目させるものであった。そして、大いに既視感を抱かせるものでもあった。
「あれは、先生の……!」
硬質な漆黒の鎧はリオの魔物として所有していた特性の一つであった。やはりリオを取り込んだと言うネイエリエの言葉は真実であったのか。
いや、元々あの少女は嘘が苦手だった。そして先程の恨み言を顧みれば、はなから憚る気も無かったろう。
顔を覆い尽くす面はクラレンスを見上げ首を傾げる。「おじさん、だぁれ?」と中から少女の声が鳴った。
「それは、その“DIABOLOS”は、リオに与えられた剣だ。
そうか、そう言う事か……ではお前達の言う先生とやらは……。ここでも繋がるとは、滑稽なものだ」
片腕一本で魔物の腕力を抑えるとは。いやそれよりこの男、明確に剣の銘をDIABOLOSと称した。リオとも面識があったのかとゼクティスは眉を潜めた。
「なぁんだ、先生の知り合い?
なら手伝って欲しいな!わたし、先生の復讐をしてそして先生のやりたかった事、代わりに全部してあげたいの」
クラレンスは「いや」とあっさり首を振る。
「誘う相手が違うな。因縁も無い俺は手を出すまいと思っていたが、残念ながら今から貴様も“後始末”の対象だ」
「あぁそう、そっか。なら良いよ、代わりに死んでさえくれれば。どうせもう、この世界の何処にもネイの味方なんて居ない。
でも寂しくなんてないよ。ネイには先生がついてくれてるんだから!」
ひっひ、と面の内側から引き攣った嗤いが洩れる。
だが、その様子とは裏腹にネイエリエは刀が装着された腕を抑えられたまま、敢えて払おうとはしなかった。
彼女の持つ骨継ぎ鞭で弾き飛ばす方が早いと考えたのだろう。背から再び生え出した六本の鞭が各々生き物の様に激しく暴れ狂う。
レイシェント、クラレンスの両者は咄嗟に飛び退きはしたものの完全に避けるには敵わず血飛沫を散らした。
「あぁ……んん。けど今はやっぱりまだ駄目。まだ全然馴染んでない。足りない。戦ってもお兄ちゃん達に勝てっこないや。
それにね、お兄ちゃんとはしっかり本気で殺し合いたいんだぁ!ネイ、お兄ちゃんが元気になるまで待ってるから!」
「……!逃がさんッ……!」
逃亡を察し、ネイエリエを捉えようとレイシェントは影を喚ぶが容易く跳ね除ける。槍を精製して串刺しにしようにも、かつての竜騎士に倣った装甲はがりがりと耳障りな音を撒き散らし表面を削っただけで攻撃を内部に通すことは無かった。
「安心して、ネイはもうここには来ないから。
だって怖い人が多いんだもん」
そしてまともな痛手を与える間も無く、くすくすと嗤い続けるネイエリエの姿は液体の様にどろりと溶け、地に染みて消え失せた。
「お兄ちゃんと最高の殺し合いが出来るの、楽しみにしてるね」
その後しばらくも、屍肉が散乱し鉄臭い臭いが充満するエレベーター前から立ち去るまでは少女の嗤いがしつこく耳にこびりついていた。
