01

越えられぬ次元の隔たりが赤月の出現と共に溶け出したあの夜。境界を崩壊させたかの一件から気が付けば早一週間が過ぎていたらしい。

戦闘での負傷に加えて蒼洸の過剰使用により限界を迎えた肉体は意識を手放した。あの後、どうやって境界から脱出したかなどは全く判然としない。だが包帯や絆創膏で覆われた身体を満遍なく苛む痛みこそがゼクティスが境界より帰還したと言う何よりの証であった。
寝台の上でろくに記憶の無いまま過ごしたこの一週間の様子はエリザベートからつぶさに聞かされ、伺い知れた。

絶え間無く此方に魔物を供給する黄泉域との繋がりが断たれたにも関わらず、やはりほんの一時でも開かれた地獄門がもたらした悪夢はおぞましい物であった。
その後、魔物の猛攻は夜間のみだが三日間は衰えず戦況は拮抗していた。段々と圧倒的な物量に此方側も疲弊させられてゆく。
しかし幸いにもその三日目を過ぎた辺りから魔物の軍勢の勢いも陰りを見せ始めた。
他都市からの救援の到着もあり、被害は相応に被りはしたものの、首の皮一枚で聖都陥落は逃れたらしい。
現在は魔物の姿も疎らになり、動ける者は残党狩りに徹し、取り敢えずは目の前の峠は越えたと言って良いだろう。

ただ一つ、今も尚戻らないのが“夜の長さ”である。

ゼクティスが境界を境界を崩壊させた最初の夜明けの時刻は十二時五分。それから少しずつ夜明けの時刻は早まってはいるとのことだったがそれでも七日目の今日の夜明けは十二時二分。
ほとんど変わってはいない。まして陽は昇れど地平をなぞる様に運行し、夕暮れの様な明るさが六時間続く程度だ。
もうじき夏至を迎えようかという季節にも関わらず、である。お陰で冬に逆行したかの様に気温は低迷し、食料問題を始めとした二次被害の問題も浮上し始めている。
だが、現状その夜の長さを危惧したりましてや原因を究明出来る余裕など誰も持ち合わせてはいない。
目の前に未だ居座る驚異への対抗と、平穏の奪還で誰もが手一杯なのだ。

「そういや、レイはどうなった?」と訊けば、「久し振りに死線を潜る羽目になった」と首から白布で吊って固定された腕をエリザベートが示す。
レイシェントは一時的に正気を失っていたものの、力ずくで連れ戻してやったとエリザベートは苦笑混じりに、だが誇らしげに語った。
帰還後、レイシェントはエリザベートの代わり、いやそれ以上に魔物の駆逐に貢献している様だ。

「昼間は魔物も出なくなって、一応は手が空いているはずなんだがな……日に一回、数分程度姿を見せ るくらいだ」

呆れと疲労の入り交じる溜息を、ひとつ吐き出す。

「文句を言うつもりは毛頭無いが、何をやっているのやら。休みは取っているとは言っていたが、私も杖を使ってようやく動けるようになった程度だ。加勢も出来なければ探すことも儘ならない。
今、奴が何処に居るかは判らないな」

「あいつの事だ、人が居る場所が面倒なんだろ。
この状況じゃ悠長に見舞いなんざ来れねぇだろうし」

ゼクティスが世話になっている軍病院はあの夜から常に怪我人で溢れ、芋洗いの様相である。この非常時、病院以外の施設も仮設の医療施設として解放されてはいるが、捌ききれていないのが現状である。
その様な中、呑気に見舞いだの面会だの来ようなど考えはしないだろう。

そしてノクサス達はと言うと、第壱都市へ戻る手立てはおろか、道路や交通網も麻痺している為に聖都からも出る事は叶わず。現在はジェノブロウと共に護衛を付けられ丁重に保護されているとの事だった。
ノクサスの負った怪我は順調に回復しつつあったが、失った視力は戻る見込みがないのだと言う。

ゼクティスも暫くの間は安静をと言い渡された。

─────

目覚めてから次の夜、深夜一時を過ぎた頃。
ゼクティスは寝台に横になってはいたものの眠れずにいた。
一週間も呑気に寝ていたと聞いて尚も悠長に寝てなど居られなかった。が、それだけでも無い。
日が暮れた辺りから酷い頭痛と倦怠感に苛まれたかと思えば、一時間置きに鼻血が出始め十分は止まらないのだ。
思い返せば傷だらけの状態で一晩中戦い続けたのだ。傷口から何かしらの菌に侵された可能性は否めない。
しかし、こうして御丁寧に寝台を与えられ処置は施されているのだから一時の辛抱。これ以上を望むのは余りに贅沢と言うもの。

「つってもこれじゃまた貧血になるわ……。鼻血で貧血とか笑えねぇ……」

寝台の側に置かれたごみ箱は血がたっぷりと染みたティッシュが詰まっている。
そして襲われる、動くことも未だ儘ならない程の倦怠感と頭痛。出来る事なら今すぐにでもこの寝台から離れたい所だが、それらが身体を寝台へ縛り付ける。尚且つ怪我も全く治ってはいない。
情けない事この上無いが、身体がこの様な有様ではどうすることも出来ずただただ焦れるばかりだった。

その時、病室の扉が開く気配を察し半身を起こしかける。夜更けの来客などろくなもので無いのは決まっている。
扉の向こうから現れた人影は『そのままで』と掌を向けゼクティスを制す。それは全く予期せぬ、意外な来訪者であった。

「ジェノブロウ……!?何であんたが……!ッつ……」

反射的に飛び起きるが、相変わらずしつこく苛んでくる頭痛に額を押さえる。
憔悴した様子のゼクティスを見て「ようやく意識が戻った程度の回復具合なのだろう。無理はしない方が良い」とジェノブロウもまた安静を告げる。

「……呑気に寝ても居られねぇよ」

「恐らくは蒼洸の使い過ぎによる副作用だろう。堪えたまえ。その内治まるはずだ」

「蒼洸、の……」

思わず頑丈に包帯を巻かれた左腕を見る。
全身の傷もそうだが、此処も手の甲を起点に腕全体が焼け付く様な熱を持って痛み続けている。

「強力な力は、何かしらの痛みを伴うものだよ」

そう言えば、境界を破壊した直後に酷い頭痛に襲われた事を思い出す。
成る程、痛み止めの薬が気休め程度にしか効かない筈だとゼクティスはサイドテーブルに置かれた白い丸薬を横目に納得する。

「それ(蒼洸)にももう頼らない方が良い。その様子では、その内君自身の身体を砕きかねない」

此方をなだめる様なジェノブロウの柔い口調へ唐突に緊張感が張り付けられる。

「は?ンな事言われたって……」

蒼洸に頼るなとは大袈裟な。はい分かりました、と素直に頷けるものかと困惑を表す。

「例え耐性があろうとも、人の身の内に蒼洸を備えること自体が驚異的な事象なのだよ。それに、恐らく……君の耐性は私に劣る」

「……」

己とよく似た青い目は蔑みではなく、飽くまで此方を気遣うもの。事実として突き付けておく必要があると口にしたのだろう。
その様な意図など存在していないにせよ哀れまれている気になり、ゼクティスはその視線から逃れる様に目を逸らした。

「……何も、こんな時間にそんな話をしに来た訳じゃねぇだろ」

所詮は場当たり的な会話、恐らく本題は未だ登場していないだろう。ジェノブロウは思い出した様に指を弾いた。

「あぁ、夜分済まないね。この様な時間でなければまともに出歩けないもので」

「そりゃそうだろ」

苦笑を浮かべるジェノブロウに呆れながらゼクティスは今一度用件を問うた。
纏うのはいつもの白基調の礼服ではなく平服、しかも何か作業でもしていたのか薄汚れている。
仮にも世を統べる皇帝様が自ら一般人の元へ出向くなど、あの強面の近衛に知れたらどうなるやらと背筋に若干の寒気も覚える。

「安心したまえ、この様な格好をして出歩いている時点でソラからは十分睨まれている。
──君ようやく目覚めたと聞いてね。一つ訊きたい事が有る」

「成程……火急の用事だってか」

ジェノブロウは「その通り」と頷く。
その割に悠長にも思えるが、彼にとっては己を慮る会話も無駄な時間では無いのだろう。
ジェノブロウ更に声を抑え、此方の顔の高さに合わせる様に身を屈めた。

「月詠の行方が判らなくなっている。
境界へ入った後、どうなったか仔細を聞かせて欲しい」

「何だと?」とゼクティスは怪訝に眉をひそめる。

「行方が判らなくなってる、つってもな……」

ゼクティスが最後に月詠を見たのは境界の中枢機関内へ続く扉に嵌まっているのを確認した限りである。正直なところ、何度記憶を手繰ろうと境界の核を破壊して以降の記憶はそこで完全に途切れてしまっている。どうやって此方側へ戻ってきたのかすら覚えていないのだ。
皇室の──しかも皇位継承に使われる宝剣が行方不明。事態の深刻さは理解しているつもりだが、答えるべき答えを持たないゼクティスには困り果てて頭を掻く事しか出来ない。

「境界が消滅した、と言う事は鍵として使われたのだろうが」

「そう言われても、そもそも俺がどうやってコッチに戻ったのかすら判らねぇんだ。
気付いたらこの上だったしよ」

ベッドのマットレスをぽんと軽く叩いて示す。
ジェノブロウはゼクティスが月詠の行方を知り得ない事は予想の範囲内ではあったのだろうが、落胆に表情を曇らせると「そうか」と呟いた。

「君とレヴィア君は境界が崩れ、空間が閉じるのに合わせて上手く此方側へ弾き出されたのだろう。二人合わせて第四階層に現れたんだがね……残念ながらそこに月詠は現れなかった」

「……いやに月詠に拘るな。何なんだ一体、月詠はコッチとアッチを繋ぐ鍵、ってだけじゃねぇのか?」

「写しと言えど、月詠の情報までは共有されていないか……興味深い」

「その気味の悪い言い方止めろよ。
あんたの贋作だとか知ったこっちゃねぇ、コッチはうんざりしてんだ」

皇帝の写しとしての扱いにゼクティスは今度こそ嫌悪感を露にする。ジェノブロウは「失礼」と軽く苦笑した。

「あれは神話時代から継がれた遺物。現代では再現不可能なオーパーツだと言うのは君も知っているだろうが、その最たる役割は“月の制御”だ。
毎夜空に浮かぶ衛星のあれではなく、赤銅色に穢れた黄泉月のね。今は姿を隠したが、あれが今もこの長夜を喚んでいる」

「けど、境界はもう」

「切り離されはしたが、未だ直ぐ側に存在し続けている。恐らく今は中枢と要のNo.0を失った事により、空間として存在を保てず緩慢な崩壊を始めている段階のはずだ」

「……完全に無くなるまで影響は出続ける、か」

「そうだ」とジェノブロウは頷く。

「その完全なる消滅もいつになるかは判らない。
試算では数千年とも、数万年とも」

ジェノブロウ曰く、今まで月詠は皇族の手によって守られ、正しく管理されていたため夜を喚ぶ用途で使われる事は無かった。その上、現代の皇族にその能力を引き出すだけの力など残されてもいないのだと言う。
つまり現在月詠が担っていた役割は境界への途を閉じる鍵であり、赤銅色の月を抑える制御機構である。あの晩、境界へ侵入する為にやむなく“夜”を開け放ったものの、後始末が出来ていないのだ。

「全く古の上位者達は厄介な物を作り出してくれた。自然の摂理にまで干渉の手を伸ばすなど、神の所業としても余りある……。
……ああ、済まない。話が逸れたね」

ゼクティスは程々にジェノブロウの話を聞き流し「いや」と何気無く言葉を返した所で、ふと境界へ入る際に聞いた“声”の事を思い出していた。

「そういや、境界へ入るときあんたに落とされた縦穴みたいな所があったろ。そこで妙な声を聞いたな」

「黄泉平坂で?内容を覚えているかね?」

「ヨモツヒラサカ……かどうかは知らねぇけど、多分そこだ。何つってたか……」

ゼクティスは包帯が巻かれた手を眉間に押し付け朧気な記憶を呼び起こす。

「境界に棲まう、亡者共の声だろう。あれは“夜”を求める」

「───!」

唐突にジェノブロウのものとも、ゼクティスのものとも違う第三者の声が二人の間に割って入る。
反射的に声の方向を見遣ると、病室の入口、暗闇の中に白い像が浮かび上がっている。いつの間に現れたのか、ゼクティスには全く気付く事が出来なかった。隣を盗み見るに、ジェノブロウも同様か。
声を出し、姿を見せて尚そこに立っているのが疑わしく思う程に男の纏う気配は曖昧なのである。

「夜を求めるなら月も求める。道理だろう」

誰だ、と問おうとした所で先にジェノブロウより「クラレンス」と男の名らしきものを呼んだ。
顔は目深に被ったフードで隠されており覗き見る事も出来ないが、裾の擦り切れた白い上着に付属された武器・装備から戦士である事には違いないだろう。
だが、この聖都で軍装以外の装備を見るのは仲間内以外では珍しい。
その仲間も、当初は教団衛士の兵装を借りていたものだが。

何者であるのか、ゼクティスは男の名を呼んだジェノブロウへ視線で問う。それに気付き、ジェノブロウは「あぁ、君は会っていなかったか」と応えた。

「彼はクラレンス・シュワイカー。昨日第壱都市から到着した増援部隊の一人だ。第壱都市では都外警備に当たっているらしい、が……それだけではない」

「そりゃ、どういう……」

段々と重さを増したジェノブロウの言葉は半端に途切れ、青年にも応えずクラレンスと呼んだ男をただ静かにじっと見据える。
二人の無言の注視を受け、男はフードの下で溜め息を吐く。

「それが境界を壊した“特異点”とやらか?
……にしては、随分物知らずに見えるな」

「“境界の創造をその目で見た”貴方からすれば、例え私であろうと物知らずに見えるのでは無いかね?
……旧名、クラレンス・エルフォ・リーヴァ」

「境界の、創造……?それに『リーヴァ』だと……!?」

皇帝たるジェノブロウと同じ姓を聞き、ゼクティスは思わず瞠目する。
ジェノブロウの今の発言が真であるならば、この男こそ今回の一件の核に近い存在ではないのか。
クラレンスは諦めた様に「やれやれ」とフード越しに首を掻くと、自らの顔を隠すそれを取り去った。

「随分あっさり人の正体をばらしてくれるものだな“現”皇帝よ。プライバシーを知らんのか。
尤も、とうにその名は捨てた物だ」

暗がりの中でもその男が光を弾く銀髪を持っているのは容易く伺えた、そして白くひび割れた顔に嵌まる左眼だけが暗く、赤く濁っていることも。

「……今の今まで姿を隠しておいて糾弾されないとでも?」

射る様なジェノブロウの視線をクラレンスは「糾弾?俺を糾弾だと?」と軽く嘲笑う。

「は、冗談じゃない、とんだ筋違いだ。
“あの時”も今回も、全て俺の手の届かない所で起こった事だ。
ただ、“奴”の縁者だからと最前席に縛り付けられ今の今まで無理矢理傍観させられていたに過ぎない。あんたと同じだよ、虚構の秩序を守る使命を課された皇帝」

「………」

ジェノブロウは何の言葉も返す事無く、ただ渋面を浮かべていた。
やはり、とゼクティスは俄に確信する。ジェノブロウの使命を知り、かの人形の面影をその顔に映すこの男の正体を。

「……あんた、もしかするとNo.0(ゼロ)の」

「ゼロ?あぁ、あの人形か。あれの中身とは一応血が繋がっていた。
お前が人形も境界も壊したお陰で俺もようやく、傍観の檻から解放された。……兄の魂も。
一応その礼は、言っておこう」

クラレンスはあっさりと初代皇帝との血縁であると白状する。やはりとは思ったが、それが事実であるならばこの男はリオ同様、千二百年以上前の人間と言う事になる。人の寿命を容易く飛び越えるなど、この男もまたリオの様な半魔なのだろうか。

「一体どんな手品だよ……」

「世界構造の改変、その混沌に触れたろくでもないツケの“代償”だ」

これも代償の内とクラレンスは右腕を上げ、中身が空の袖を示す。

「……俺の事はもう良いだろう。それより、問題は月詠の方だ」とクラレンスはうんざりとした声色を含ませながら己自身についての問答を切り上げる。
誰しもそうである様に、彼もまた過去を不用意に詮索されたくはないのだろう。
確かに、今この男の過去を問い詰めたところで月詠の行方とは結び付きはしない。

「今なお長夜が続いているのならば、月詠へ夜を喚ぶよう呼び掛ける者が居ると言う事だ」

「つまりは“実体と意志を持つ上位の魔物”の手に有ると?」

「その線が妥当だろうな」

それだけ告げると、クラレンスは踵を返しその場から早々に立ち去ろうとする。背中を見せた男のフードには一応教団の所属である事を表す小さな十字が縫い付けられていた。

「クラレンス、何処へ」

「魔物は減りつつあるとは言え、夜の聖都は未々魔物の巣窟と言って良い。“月詠を得た魔物”が現れる可能性が高いのは此処だ。
それに、増援部隊として派遣された体もある。仕事ついでに探してやるさ」

この男から職務を重んじる言葉、と言うのは似つかわしくないものだと思ったがクラレンスは序での様に台詞を付け足す。

「ようやく煩わしい軛から解放された。この期に及んで身内の不始末を傍観する様な愚者で有り続けるつもりもない」

そう言い残すとクラレンスは今度こそ部屋を後にした。
遠退く足音は捉えられない。話していた時ですら気配の薄い男であったが、姿が見えなくなると尚の事先程までそこに居た事実すら曖昧に思える。
その存在の稀薄さは彼の戦士としての鍛練だけではないだろう。『混沌に触れた』事も関係しているのかも知れない。

「妙な奴だな……」

「蝙蝠かと思ったが、観察する限りではそうでもないらしい。思いの外此方に協力的……だがそれが尚更疑わしく思う。
……まぁ良い、少なくとも味方でいる内は此方に有益だろう」

「一応あんたの遠縁だろ?確かに得体は知れねぇが、あんたがそんな露骨に警戒するのもらしくねぇ」

ジェノブロウにとってはゼクティスも、先のクラレンスと同等以上に得体の知れない存在であるはず。だが彼はゼクティスに対して月詠を託し境界へ向かわせ、全幅と言って良い程の信頼を預けてきた。
その反面、何故クラレンスに対しては警戒を露にするのか。ゼクティスにとってそちらの方が奇妙に思える。

ジェノブロウはクラレンスが消えたドアを半ば睨む様にじっと見据えていたが、強張らせた肩の力を抜くと此方に向き直る。

「君と初めて顔を会わせた時、私は君の中に歪み無き貫徹の意志を感じた。だからこそ私は月詠を託すに値すると思ったのだよ」

それこそ買い被りと言うものだ。とゼクティスは思う。
あの時はレヴィアをリオによって浚われ、何としても連れ戻さなければならないとただ無我夢中に、無策に状況の渦中へ飛び込んで行ったに過ぎない。果たしてそこにジェノブロウが言うほどの意志や矜持は有ったろうか。
解せない、と言った様子で眉を潜めるゼクティスに構わずジェノブロウは話を続ける。

「だが、あの男の意志はどうにも掴めない。
……、そもそもあの男がかつての皇帝の縁者ならば此方に……まして私に協力する義理も無い筈だ。
秩序の軛から解かれたと言うならば、尚更ね」

「どう言う事だ」

「あの男が真に初代皇帝セイレネスの弟であるならば、皇家の記憶継承には『帝の列席から廃された逆賊』として伝わっている」

それが真実であればクラレンスと言う男はジェノブロウの様な皇家の人間に対して憎悪を抱いていたとしてもおかしくはない。

「逆賊、……って、一体あいつが何したってんだ」

「その辺りはどうやら汚点とされ、大きく省かれたのだろう。第四階層内の資料には名の一つも残されていないのだよ。
だが、抹消される程の事象だ。良からぬ事であるのは間違いないだろうね」

ゼクティスが仔細を問うも、ジェノブロウは首を横に振る。

「歴史と言うものは人の手によって綴られる以上、都合良く改変され後世に伝わってしまうものだ。
その上千年以上も前の、黎明期の資料などほとんど残ってはいない。
辛うじて現代に残る情報が何処までが真実なのか……、それは私にも解らない」

「あんたら一族の情報遺伝にも載って無いってか」

「皇族など、所詮は世界を動かす為の駒。共有されるのはその為に必要な世界の構造についての情報くらいなものだ。世界創造・歴史全てを把握出来るほど便利な物でもない」

ジェノブロウは自嘲気味に苦笑すると、青い眼を窓の外に広がる荒れた聖都の景色へ向ける。そして独り言の様に呟いた。

「……あの少女の様に、曇り無き眼を持ち続けられていればクラレンスの為人すら容易く見抜けるのだろうか。
人の滅びに抗う為とは言え、私はの眼は少し血に曇り過ぎた」

「……レヴィアの、事か?」

「ああ」と頷くとジェノブロウは再び此方へ視線を戻す。

「あの時の私は秩序を守る者として、レヴィア君に光使い……人柱として仮初めの延命を世界に施して貰わなければならなかった。
それが偽りの使命であり、偽りの平穏しかもたらされないと知っていたとしてもね。
だが彼女は、その使命が私の本意では無いと気付いた。……本当に驚かされたよ」

「………」

「人の本質を見る眼、今まで歩んだ人生の中で彼女自身が人として獲得したものだろう。
面白い事も言っていた。私と似た様な人を知っている、とね。
……君の事だったのだろうか?」

そう言えば、出会ったときからレヴィアはおかしな事を言っていたと思い出す。
信頼を持たれても困る、と辛辣に突き放した物言いをする自分の事を『優しい人』などと。
ゼクティスはじっと自らの掌を見詰める。
境界の中で、一体誰の血が最後にこの手を汚したか。それを省みればレヴィアが嘗て自分に与えた評価、それが己の本質であると認める事は今や断じて出来なかった。

ゼクティスは俯いたまま「……さぁ?どうだろうな」と曖昧にはぐらかした。

「……」

ジェノブロウはそれ以上特に言及することも無く「雑談が過ぎた、休んでいたところ済まなかったね」とあっさり話を切り上げた。

「月詠は此方で捜索を続ける。今は兎に角休みたまえ。あの夜で誰しもが傷付いた。例外無く、君もね。君とて本来は私を憎んで然るべき立場だ」

「いや、俺は──」

「君にとっての私が何であれ、私は君と言う勇者に出会えた事を誇りに思う」

ジェノブロウは半ば一方的にゼクティスへそう告げると、そのまま病室を後にした。
引戸が閉じ、室内には再び夜の静寂が戻って来た。

「言うだけ言って行きやがった……。
とんだ買い被りだ。……俺はそんなんじゃねぇ。俺は、ただの……」

ゼクティスは少し伸びた黒髪に手を突っこむと乱雑に掻き回した。この苛立ちは誰に対してのものでもない、自らに対してのものだ。

ゼクティスは暫し俯いていたが、おもむろに顔を上げるとじっと壁に立て掛けられている漆黒の大剣を睨めつけた。

────

頭痛が多少和らいだのを見計らい、ゼクティスは自身の腕に繋がる点滴の針を躊躇い無くぶつりと引き抜く。
時刻は三時を回っていたが念の為、病室の周囲の様子を伺う。今のところ、特に目立った人の気配は感じられない。

「……誰も、居ねぇな……」

ゼクティスは寝台まで戻ると灯りの乏しい中、寝台の傍らに備えられてあった黒の長衣を掴む。誰が用意したのか、御丁寧にも長衣は新しい物が用意されていた。恐らくはすっかり穴だらけになった以前の物の有様を見かねてか。
エリザベートが見た限りでは、軍服と同等の強度があるのでは、との事だが。
確かに布の質感や仕立てを見る限り、以前の物より丈夫そうだ。

今更遠慮する義理も無いかと真新しい臭いのする長衣に袖を通すと、大剣が納まった鞘のベルトを外傷の無い左肩に掛ける。

Requiemを始め私物は一通り揃っていたものの、他に持って行けそうな物はないかとベッドに備え付けられたチェストの引き出しを物色する。だが寝台の側に置かれていた小さな白い紙封筒─錠剤が入ったものの他には大したものは無さそうか。
粗方の身支度を整えると誰にも気取られぬ様、静かに病室を出た。

だが廊下に出て二、三歩も歩かないところで未だ塞がりきって居ない傷が一斉に悲鳴を上げる。
喉の奥が引き攣り声が漏れかけるが何とか奥歯を噛んで堪える。

「ぐッ………!」

確かに多少は動ける様にはなっていたが、未だ包帯塗れのこの身である。堪らず側の壁に寄り掛かり崩折れそうな身体を支える。
痛みよりも、思い通りに動かない煩わしさに顔を歪ませつつも、そのまま廊下を壁伝いに進んだ。

夜特有の湿り気を含み、冷えた空気が満ちている。病室からであろうが、何処からともなく微かに呻き声も聞こえる。言うまでも無く、此処には恐らく多くの怪我人が運び込まれているのだ。

これでは目的の部屋を探すのは難しいのではないかと危惧したが、幸い部屋は近かったらしい。扉の横に掛かった手書きの名札を確認し、扉に手を掛けそっと引いてみるが、施錠はされていなかった。
これ幸いと静かに中へと身を滑り込ませる。

時間も時間とあって、寝台の上に乗っている者の他には誰も居る様子は無かった。

足を前に進めるのに一瞬躊躇いながらもゆっくりと寝台へと近付く。

「………」

目覚めてから、勿論レヴィアの事は真っ先に訊いていた。
深い、深い昏睡状態だが、確かに生きていると。それだけ聞いていた。
一週間ぶりに再開したレヴィアの姿に、ゼクティスは自ずと表情を歪めていた。
彼女の姿は己の怪我など未だ易しい方ではないかと、思わずにはいられない状態であった。
白い病人着を着せられたレヴィアは、最後に見た記憶の状態に比べれば顔色が若干ましには見えたが、少し痩せただろうか。暗闇の中では妙に目立っていた金髪も今は艶が無く、やはり陳腐な作り物の様だ。
片腕も失ったこの状態では死体に包帯を巻いて生命維持装置や点滴を繋いでいるようにしか見えない。

ゼクティスには生気の失せた“これ”が、眩いばかりの笑顔を絶やさないあの少女であるなどとはとても信じ難かった。何から何まで別人の有様だったのだ。

「……レヴィア……聞こえるか」

枕元に手をついて顔を寄せ、声を掛けたところで反応が返ってくるはずもない。
生命維持状況をつぶさに監視する機械の発する等間隔の電子音や、肺へ酸素を送り込むポンプの音だけがいやに耳に染みついた。

「…………」

ベッドの傍で何もするでもなく、暫し立ち尽くしていたが、ゼクティスははっと我に返ると思い出した様に上着のポケットを探る。

──有った。
幸い古い長衣と共に処分はされていなかった。それでもすっかり草臥れてしまった淡いピンク色のリボンを取り出す。
預かり物は返しておかなければ。

「……返しとく。『約束』だったからな」

ゼクティスは徐に寝台の横につき、身を屈めて残っている方である左腕に軽く結ぶ。
こうしておけば意図して外されない限り、無くす事はないだろう。

生気の無い顔に掛かる髪に、ふと手を伸ばしかけたが、指先すら触れられないままぴたりと手が止まる。ゼクティスはその手を固く握り締め、引っ込めると踵を返して寝台から離れる。

こんな有様で、約束を果たしたなどと言えるものか。

「…………悪ぃ」

一言、誰にも届かないほどに小さく呟くとそのまま部屋を出た。
ゼクティスは再び外を目指して病棟の廊下を壁伝いに進み始めた。

「おい、要安静の奴がこんな時間に何処へ行く?」

他に誰の気配の無いはずだった廊下の後方から声を投げられる。
全く気付けなかった辺り、感覚も戻り切っては居なかったかとゼクティスは舌打ち混じりに振り返った。

「エリザか……何でまだ起きてんだよ」

「……落ち着いて呑気に寝ていられる筈も無いだろう。お前と同じだよ」

エリザベートは呆れた様に頭を抱えて溜め息を吐き出す。彼女が寝ていられないと言うその理由は既に知れていた。

「ゼクト、私はお前が聖都を離れるのを別に引き止めるつもりは無い。
だがな、お前もそんな状態で何をそんなに急く必要がある?……それに未だ……」

「……あぁ判ってる。けど悪ぃ、このまま行かせてくれ」

「おいおい……面会も、する気は無いのか」

「……様子は、今見て来た」

「そう言う意味じゃあ……」とエリザベートは呆れ混じりに首を横に振るが、ゼクティスにはレヴィアの意識が戻るのを待つつもりは無いらしい事を察して口を噤む。

「……恨んでいるか?」

零れたのは、エリザベートらしかぬ弱々しい声であった。
確かに此処までエリザベートやレヴィアに巻き込まれるままに辿り着き、挙げ句がこの襤褸屑の様な有り様である。客観的に顧みれば恨みを持って然るべきではある。
しかしゼクティスは意外だとばかりに眼を見開き、直ぐに見当違いだと言わんばかりに「まさか」と否定する。それを言うなら、生命維持装置に繋がれているレヴィアの方が余程酷い状態である。
そして、ややあって躊躇いつつも口を開いた。

「……あいつにはもう会えねぇ。いや、多分会ってやんねぇ方が良いんだ。
相手の事しか考えない様なとんだお人好しだからな、あいつは。
幾ら恨みのある人間だろうが……怪我させたとあっちゃ自分が悪いとばっかり考えるだろ」

「……少佐の事は、聞いた」

「なら、解んだろ」

思わず自嘲に乾いた笑いが洩れる。
助けてやりたい、助けになってやりたいと自分ではあれだけ必死の思いでいたのに全て終わった結果はどうだと。全く以て惨憺たるものではないか。

「腕失くして……殺されかけて、和解したがってた兄貴は俺に殺されて!ただ、馬鹿の一つ覚えみてぇに邪魔なもん壊した。結果がこの様だ!
後に何が残った……!何一つ守れもしてねぇじゃねぇか……!!」

ゼクティスは固く握った拳を壁に叩き付け、気が付けば抑えが利かない感情の侭声を荒げていた。

「……んなのッ……!情け無ぇったら、ねぇだろ」

ゼクティスは肩を震わせ、固く眼を閉じて俯く。ぎり、と強く噛み合わされた奥歯が不快に軋る音をたてた。

「何を言っている。レヴィアが戻って来ただけでも、大した事だ」

エリザベートの言葉にもゼクティスは顔を俯かせたまま、頑なに首を横に振る。嵐の如く荒み、淀んだ感情は言葉を紡ぐ事すら邪魔をしていた。
やがて彼は肺腑に溜まった息を吐き出しつつゆっくりと顔を上げた。今やゼクティスの眼は死人の如く酷く濁った色をしている。

「悪ぃが、俺が付き合えるのはここまでだ。他の連中にも適当に言っといてくれ」

ゼクティスは踵を返すと、また壁を支えに身を引き摺る様に歩き始めた。

「おいゼクト、お前……馬鹿な事は考えるなよ」

「安心しろよ。やることやって、ジルバスに戻るだけだ」

「やること?」

「ただの後始末だ、大した事じゃねぇ」

ゼクティスは月詠の事は話さず、ぶっきらぼうに後始末とだけ告げる。どうせ此処を離れる為の言い訳の一つに過ぎない。
それ以上はエリザベートも止める事も無く、灯りの乏しい深夜の廊下の暗がりに紛れていく黒い姿をただ見送っていた。

「……。馬鹿め、お前は何も判っちゃいない。何処まで馬鹿者なんだ、大馬鹿者だよ。本当に……」

誰へともなく呟くと、エリザベートもまた踵を返した。鉛を提げた様な重たい足取りで廊下を後にした。