第十一章 赤月に沈む

 成り行き上、仕方無しにジェノブロウと行動を共にすることとなったゼクティスは、全く以て不本意ながらも白装束の男の後に続いて移動していた。
目指す軌道エレベーターは、多階層に分かれるこの聖都を洸晰精製炉同様に刺し貫くかたちで存在する。向かうのは第四階層。皇帝であるジェノブロウ自身の生体認証のみを侵入可能パスとする、この聖都の最上層である。
第四階層と言っても、この階層に在る施設は皇帝の為の皇居のみ。面積は約三平方㎢弱と、聖都全体の規模から比較してみればおまけの様なもの。言葉通り〝雲の上〟に存在するこの第四階層ではあるが、建物外はドーム状に覆われており気候調整が成されている為、外部環境の影響を受ける事は無い。
ジェノブロウは片手の手袋を外し、、第四階層入口に備え付けられた液晶パネルに手を翳すと重厚な金属扉が音も無く左右にスライドする。エレベーターを降りたその先は、あれだけ溢れていた魔物の気配はおろか、命の気配とは無縁な空間であった。
舗装タイルも建物も外壁もただ一つの曇りも許されず、例外無く真白。良く言えば静謐、極端に表現すれば無機質な光景であった。先程の第三階層までは少ないなりにも未だ街路樹などの緑もあったのだが、それと比較しても異質なものだ。
風の音一つ無い。つい先刻までの騒ぎが嘘だったかの様な静寂に包まれていた。

「此処に私以外の人間は、私が承認しない限り立ち入る事は出来ない。此処に在るのは私独りだ」

「……一人? あんたの血縁なんかはココには居ねぇのか?」

一般的な認識として、此処はジェノブロウを始めとする皇族が住まう為の場所だと思っていたのだが、彼の他には誰も居ないと言う。

「血縁……家族の事か……」

背を向けて先を行くジェノブロウの表情は窺えない。歩みを止める事も無かったが、僅かに答えに詰まった様であった。しかし直ぐに事も無げ応えてみせた。

「我が母は、十年前に父が。父は私が皇帝の座に着いた六年前にこの私自身が……弑殺している。そう、間違いなく……この手でね」

「何だと……? おいおい冗談にしたって……趣味が悪すぎんじゃねぇのか?」

「残念だが……紛れもない事実だ」

微塵も予想出来るはずの無い答えに衝撃を禁じ得ない。悍ましさに思わず脚を止め半歩後退る。ジェノブロウも、後ろに続く青年の動揺に気付かないはずも無く、脚を止めて振り返らないまま続けた。

「……これは何も、私の代でのみ起こった事柄では無い。我々皇族は今日《こんにち》までこうして、同血族の死によって唯一の皇位を受け継いで来た。皇帝は先ず、親殺しの業を負って皇位を得る。けして抗う事の出来ない、本能に近い楔の様なものだ。だがこれは我らが血に課せられた呪いの一つに過ぎないのだよ」

皇家の内情がほとんど公にされていないのは、そう言う理由からかと思えば成る程と合点がいく。
この皇居——第四階層は唯一皇帝のみが存在を許される場。此処は正に世界の秘匿の真核を孕んだ場所なのだ。創世より秘匿とされてきただけあり、真っ当ではない。異常にも程がある。余りに受け入れ難く、人間性がもたらす道徳を根幹から覆す因習だ。

「新たな皇帝が据えられる時、世界の管理代行の力が委譲される。不要な物を消し去る能力。世界に奉仕する者に、身内への親愛は必要無い」

ジェノブロウは、おもむろに右手を持ち上げると、一つ指を鳴らす。すると、唐突にゼクティスの目の前に有った照明ランプが一つ、砂となって崩れて落ちた。

物質をこの世から〝削除〟する力。これを人間に使ったとて、例外ではないのだろう。
「……仮に抵抗しようとしたら、どうなる」

「我々も心を持つ人間だ。自ら望んで肉親を殺めるなど、正気の沙汰では有り得ない。幾度と無く拒否を試みた例はある様だが……回避出来た例は無い。粛々と、世界を管理し、世界に仕えるのみだ」

つまりはどう抗っても、定められた結末は変えられない。

「だが、けして増える事の無い血筋であるにも関わらず絶えることは無い。どうにも〝優秀な設計者〟のお陰か、良く出来た仕組みらしい」

「……あんたはさっき〝血に課せられた呪い〟って言ったな? そりゃどういう意味だ。呪いだって言うなら、何に因るものなんだ?」

ジェノブロウはようやく此方を振り返る。
常に穏やかな色を保っていた青い眼は、今や何者かへの憎悪で宵よりも尚暗く染まっていた。ほんの僅かな間であるが、今までの立ち居振る舞いからしてこの男がこれほどまでに醜悪な感情を人前で露にするなど想像出来なかった。握り締められた拳さえも、小刻みに震えている。

「……〝神〟……いや、正確には神の名を騙った、傲慢な管理者だよ」

「〝神〟? 管理者だと?」

まるで訳が判らないと言う様子のゼクティスに、ジェノブロウはただ静かに一つ頷いたのみ。再び踵を返し、今度はやや速足に歩き始める。此方もまた、それに倣った。
その先の言葉を待つが、ジェノブロウは口を噤んだまま。この階層の中央に位置する建物まで辿り着く。此処が皇居の本邸であろうか、扉が開かれ中へと通されると天が吹き抜けた中庭らしき場所へ出る。外観はそれこそ執政府の建物に似た近代的でシンプルさを強調したものだが、反して内装は円柱など。宮殿めいた様式を彷彿させるデザインが多い。
しばらく互いに押し黙ったままであったが、ようやく向かい合う形で互いに対面した。
ジェノブロウは後ろ手に組んでいた手を解き、宙に近く闇深い天を指すと再び口を開く。

「神の呪いとは、この世を形作る理の中に紛れ、密かに組み込まれ根を張った癌細胞の様なもの。恐らく現在に至るまで初めて私が認識する事が出来た事象だ。これから世界の理を越え、境界へ立ち入るのならば君に話しておかなくてはならない」

「おいおいちょっと待て。急に神だのなんだのと、そんなお伽話の中でのものを引っ張り出されてもよ。そもそも神語りしようってんならそれこそノクサス辺りの管轄だろ」

あまりに壮大な言葉の羅列に、今一つイメージが掴めないと言ったところか。ゼクティスは一旦制す声を上げる。
ジェノブロウは微かに苦笑し「確かに突然神など持ち出されても飛躍しているし、抽象的過ぎる」と頷いた。
要は現在この世界に於ける生態ピラミッドの頂上に居る人間よりも更に上、能力的に人間を越える上位種がかつて存在していたとすれば判り易いだろうか。

「魔操士、と言ったか。君らと共に居たあの……緑色の少年が居ただろう。あの少年が一つの具体例であり証拠だよ。あの様な超人的な能力を持った者が今でも存在するのならば、存外有り得ない話でも無いとは思わないかね?」

ああそう言えば、シージスの血筋も特別なんだったかと心中密かに思い出す。順に段階を追って解説されれば、成る程とも納得出来るかも知れない。いつの間に慣れてしまったのだろうか、回りを見渡してみれば案外あり得ないものに囲まれてしまっていた事に改めて気付かされる。
となれば、通常人とは逸脱した力を持つ存在──人間より上位に立つ存在を〝神〟と表現し神格化するのは古来よりありふれた事例だ。
ジェノブロウ曰く皇位を継承した際に他の血族を屠るのは、権力の分散の防止や権限の肥大化の抑止する為もある。だが、その際たる目的は不用意に血脈を拡散させ血が薄れる事を留める為だと言う。

「数が増えたところで、候補が複数居れば無駄な争いが起こるのは目に見えているからね」

「じゃあ要は……あんたが言いたいのは、皇家は神とやらの都合の良い様にコントロールをされてるって事、か?」

「我ら皇家だけが血に塗れているならば未だ良い」とジェノブロウは苦々しく表情を歪める。

「言ったはずだ。神の呪いとは、この世の理に静かに根を張る癌細胞の様なものだと。君らは、いや。この世界に生きる多くの人間は知り得ないだろうが、この世界は既に神に見捨てられている。……だと言うのに、未だ神の呪いだけがこの世界を支配し、私達人間を、普く命を、世界の滅びへ導く運命を回す歯車に縛り付けている。
その歯車によって回され、導かれる終焉へと向かうその道筋こそが〝秩序〟。この私が殉ずる事を強いられた——神の〝意志〟だ」

この世界は、奈落へと続く溝に沿って転がる球の様なもの。不条理に歪められた終焉へと向かう偽りの秩序の上に乗せられ、為すがままに転がされているに過ぎない。
そもそもの元凶は、三域に分けられた世界の構造にある。これにより、本来あるべき輪廻転生の概念が大いに削がれてしまっているのだと言う。

「死した魂や肉体は洸晰として分解され、また新たな命を作る材料となり一個世界を身体として血液の様に循環して行くのが本来の形だ。だが、今の世界構造がそれを阻害している」

一旦洸晰へ戻った魂の一部は、境界を越えた先へと流れていってしまっているのだ。本来ならば成層圏にある洸翼帯《こうよくたい》に全て流れ込んで行くのが正常な形であった。
境界へと導かれた魂はその先の黄泉をくぐることによって魔物へと堕ち、歪な形で再びこの世に還元されている。

「その証拠として、世界人口は今や数を減らした都市や派生都市でもほぼ許容出来るまでに減少している。加速度的にね」

そこで、想像するのも憚られる仮説が脳裏を過る。
元々人間のものであった魂が黄泉へ流れる事で魔物として還元されていると言うことは其即ち、魔物を殺す事は人間を殺しているのと大差無いのではないかと。
ゼクティスの背に、氷を流し込んだかの様に寒気が走る。

「……何ッだよソレ……胸糞悪ぃ話だな……。じゃあ今のこの状況も、ただ都合の良い様に殺し合いさせられてるだけって事かよ」

魔物と化した者の魂が再び正常に戻る事は無い。何れにせよ、殺傷本能に従って襲い来る魔物から身を守る為には殺傷を以て対処するより他に方法も無いのだ。今正に下層にて繰り広げられているであろう魔物との戦いは、ただ命を消費するばかりの実りなきものだ。
元凶を正さない限り、早かれ遅かれ人間と言う種の絶滅の運命は決定付けられている。

「あぁ、神が直接人に手を下すことは有り得ない。飽くまで〝人は人の手によって〟愚かしく惨めに滅びの運命を辿る運命の路を歩まなければならない」

あたかもそれが慈悲だと言わんばかりの超長期的なシステムである。しかし緩やかに滅びへと導くそのシステムも、境界の崩壊によってもうじき破綻する事だろう。

「境界を支えるNo.0もまた、この世界を守ると言う名目で楔に据えられ、この歪んだ輪廻を創る道具に組み込まれた、哀れな人形なのだよ」

今日まで人間が存続を保っていられたのも、No.0と言う延命機能があっての事。人柱無くして全ては成り立たなかっただろう。

「私は〝皇帝〟。残滓ながらも神の血を今に残す者。故に私に課せられた〝秩序を守る〟と言う使命の強制力は絶対だ。例え抗おうとも私が私である以上、この血に……この遺伝子に縫い付けられた鎖には逃れられない。私はただの駒、終焉へ導く為だけの虚像も……同然だ」

「なぁそれは……他にどの程度の人間が知ってんだ?」

不意な問いにジェノブロウは僅かに目を見開く。躊躇いつつも「いや」首を横に振る。

「……本来ならばこの様な疑念を他言すれば〝干渉〟が及び、何事も無かった状態へ〝リセット〟されるか、私のVanishによって処分されるはずなのだよ。博打に巻き込んでしまって済まない。……こうして皆まで話せたのは、君が初めてだ」

「……」

どこか安堵した様に、ジェノブロウは破顔する。
このジェノブロウと言う男は、彼自信も不条理な業を負わされ歪みの全てを識る唯一の存在でありながら、唯一の存在であったからこそ今まで己の使命に殉じて来たのだろう。
この些細な綻びがこの歪みを正す可能性を孕む、ただ一つの希望だと。その意志を頑なに信じて。

「やはり、世界の摂理の外で生まれた君やあの光使いの少女は、謂わばこの世界に於ける特異点。神からの干渉や呪いは君らには及ばない様だ」

「俺は知ったこっちゃねぇが……どうやら、あんたに似せた贋作らしいからな。良い迷惑だ」

頭を掻きつつ吐き捨てる様に呟くゼクティスの皮肉を「私はそちらの方が羨ましい位だがね」とジェノブロウは軽く受け流す。

「だが同じ特異点と言っても、蒼洸と光使い。君らの持つ性質は対を成している。君は境界への繋がりを完全に断ち切り、この仕組みを破壊する力を。レヴィア君は保ったまま更に延命させる力を」

「なら……」

口を開きかけたところで、いつの間に抜いたのか。ゼクティスの眼前には銀色の刃が突き付けられていた。
装飾剣を構えたジェノブロウの瞳からは、先程までの穏やかさなど僅かも残さず。ただ剣呑な色を湛えていた。

「——な、待て! 今更何の冗談だ! あんただって散々に言ってたじゃあねぇか。こんな産廃処理場みたいな世界の創りにはウンザリしてんだろ!」

この男との思惑は合意に至ったと思えたのだが、神の呪いとはそう容易く欺けるものでも無いらしい。

「……これも、言ったはずだ。私は神の意志でのみ動く事が許されるただの虚像。——私の意志など! この世界では何の力も、意味も持たない!」

牽制などではなく、本気でやりあうつもりなのか。ジェノブロウは重苦しい礼服の上着を脱ぎ捨て、袖無しの軽装の下の鍛え上げられた肉体を晒す。

「……例え君が認識の範囲外であったとしても、発生した〝可能性〟の芽は摘まなければならない。仮に此処で君を討てば私の使命は果たされる事になる。使命を全うする以上、私も全力を以て君に挑もう。
示すと良い。人が運命に抗う、その力を!」

面倒な状況など、幾度と無くそれこそ飽くほどこなしてきたつもりではあった。それと比較してもこの上無く厄介な事になった。
ジェノブロウの協力無くしてはこの先の境界へ向かう事は叶わないと言うのに、この様に刃を向けられるとは。既に十分、悠長とも言える程に言葉は交わし終えている。この状況から刃を収めさせる方法があるとするなら、腕尽くしか無いのだろうか。

(どうすりゃあ良い……!)

ゼクティスとしては一分一秒たりとて時間が惜しいのだ。こんな所で無用と思える争いに興じ入れる余裕など露も無い。此方もRequiemの柄に手を掛けてはいるものの、抜くまでには及んでいない。
だが火蓋は既に切り落とされている。
足元から吹き上がって来る様な殺気に首筋が粟立つ。今や剣呑な光を帯びた眼を此方に向けるジェノブロウは、未だ戦いへ気構えを向ける事が出来ないでいるゼクティスの動揺を見透かしたか。一歩、靭く踏み込み。先ずは噛ませの突きを繰り出す。
反射的に身を捻って反応はしたものの、一刹那の僅かなタイムラグが生まれる。避けはしたが反撃の体勢にまでは移しきれない。空の懐に入り込まれる。これでは大剣を抜き対応する事も出来ない。
だが、ジェノブロウとて返す刀で月詠を二撃目として繰り出すにも間合いが近過ぎる。そこに僅か一秒以下、コンマ一瞬の拮抗が生まれた。
ジェノブロウは空いている左手でゼクティスの胸ぐらを狙い澄ませて掴み捉えると、そのまま流れる様に容易く重心を崩して硬いタイル張りの地に渾身の力で叩き付けた。

「かッ……‼︎」

その衝撃は真白の舗装タイルにひびを入れて割る。
肺から強制的に空気が押し出され、呼吸が閊える。だが叩き付けた手が緩んだ隙を逃さず、ゼクティスは即座に体勢を立て直すと再び間合いを取ってから数度咳き込んで閊えた呼吸を正した。

「今の衝撃を受けておきながら僅かも怯まず対応するとはね。流石に打たれ強い様だ」

「そりゃどうも、自慢じゃねぇが叩きのめされんのにはいい加減慣れてんだ」

縫った際に打った麻酔が効いているのは傷の箇所のみ。痛む背に顔をしかめつつ皮肉混じりに言葉を返す。ジェノブロウは「それでこそ」と軽く笑みを浮かべる。

「さて、少しはやる気になってくれただろうか? ゼクティス君」

「……」

ゼクティスは逡巡するも、先程の明確な殺気を帯びた攻撃を思い出せば答えは一択である。今度は確と柄を握り締めて背の鞘から引き抜く。現れた黒刃、その滑らかな艶に「結構」とジェノブロウは満足気に一つ頷いた。
ようやく気付いた。否、今頃この男に気付かされたのだ。最早これ以上の迷いは塵ほども許されはしない事を。
これより向かうのは境界、人が存在するに叶わない死地にも等しい黄泉比良坂《よもつひらさか》。半端に揺らがせる脆弱な意志など、進撃の脚を留める枷にしかなるまい。
脳内で静かにスイッチを切り替える。動揺と言う思考を掻き乱すノイズを完全に遮断し、唯一絶対の目的の遂行にのみ従順となる様チャンネルを引き絞る。

「……解った。あんたがそう来るってんなら、俺も相応に対応する。逆に有り難ぇ、おっかなびっくり出方を窺うよりソッチのが単純で良い」

今度はゼクティスから距離を詰める。踏み込んだ勢いをそのまま剣に乗せ、横凪ぎに振るう。耳を劈く甲高い金属音に、防がれた事を悟る。だが、回避や反撃に移す間など与えはしない。直ぐ様手を返し、間髪入れずに再び剣戟を交わす。防がれ流されようとも怯まず次の攻撃へ繋ぎ、容赦無く斬り込んでゆく。

「獲物を刈り取る意志を持った、良い剣だ。余程この先に有るものが君を駆り立てていると見える」

如何にして身に付けた身体能力か。相対するジェノブロウはこの猛攻に対しても姿勢が崩される事も無く、重量のある大剣からの攻撃を一つも漏らさず受け切っている。

「ッ今更だ! 血反吐を吐こうが、意地でも俺は先に進まなきゃならねぇ。邪魔するってんなら、誰だろうが何だろうが斬り潰して通るしか無ぇだろうが」

先の戦いで身体に刻まれた傷から生温かくじわりと血が滲み出し、抑えられていた痛みも再び目覚めたかの様に次々首をもたげて悲鳴をあげる。僅かに表情を歪ませるが、しかしそれも奥歯を噛んで気力のみで全て押し殺し目を背ける。
何合目かと数えるのも煩わしい剣の交わりの末に、この一撃もまたジェノブロウの剣に受け止められる。構わず受け止められたままに大剣を捻ると、交わる支点を上方へ。容易く逃れられない様、三連の飾り刃をジェノブロウの剣と噛み合わせ、男の喉元へ全力で刃を押し付ける。
互いの力は拮抗し、これ以上は押すも退くも敵わない。それでもようやく捕らえたか。

「あんたを殺らなきゃこの先の境界に進めねぇってんならそうしてやる。そもそも、あんたの偽物だろうが、俺はあんたに気を遣う様な義理なんざ全く無ぇんだ」

ゼクティスは更に剣を持つ手に力を込める。冷えた鋭い刃が押し当てられた首筋の皮膚が裂け、血が滲み出る。
それでも尚ジェノブロウは、焦るどころか楽しんでさえいる様な笑みを口元に湛えている。微笑みながらも真綿の様に柔く、だが剣呑な殺気はこの男に異形の不気味さを纏わせていた。
相対するゼクティスとて露にした殺気は確実に獲物を捉えんとする猛禽の如し。青褪めるほどの青い眼が互いに交わる。

「ははは……何と悍しい、獣の様に素晴らしい眼だよ。この腐った運命を捩じ切る者に相応しい穢れた眼だ。それでこそ、それでいてこそだよ」

「随分余裕だな、あんた。今この剣に蒼洸を通せば、耐性が有ろうと首くらいなら簡単に吹っ飛ばせる。或いは頸動脈が切れても結果は一緒だろうが……」

「あぁ、はは。それは困る」

この窮地に未だ何か策でも——いや、窮地とすら見ていないのだろうか。ジェノブロウは冷や汗一つ浮かべずに苦笑する。首からは血が流れ、拮抗する力が擦り合う刃を軋ませていると言うのに。
肝が据わっているどころではない。気味の悪さにゼクティスは眉をひそめ、逆に冷や汗を浮かべる。
此方を見据えていたジェノブロウの目がふと細められ、笑みが失せた。

「忘れていた。一つ、君に告げておかなければならない事がある」

「……何のつもりだ? 悪ぃが聞く気は無ぇぞ」

「どうしてもこの先へ向かうと言うのなら、君も知っておかなければならない事実だ」

聞く耳持たずとゼクティスは遮るが、ジェノブロウは尚も続けた。男はただ淡々と口を動かす。

「君は、光使いの耐久期限──寿命はどの程度保つのか知っているかね?」

「何だと? そんなの……、……」

考えた事などあるはずも無い。今この時、己とこの男との間に何の関係があるものか。
馬鹿馬鹿しいと喉まで言葉が出かけはしたものの、そのまま口にして無下に一蹴する事は躊躇われた。
ゼクティスの眼に明らかな動揺が走るのを認めると、ジェノブロウは押し付けられたままの刃先を容易く払い除け、間合いを取った。

「やはりな。君にとっても看過出来ない話だろう」

此方の考えは見透かしているとでも言わんばかりの口振りに眉をしかめはしたが、躍起になってゼクティスから逃れた彼を追撃することは無かった。

「……光使いの寿命だと? それが……何だってんだ。あいつは同じだろうが、人間と」

「見た目だけはね。我々と何ら変わり無い普通の人間にしか見えないだろう。だが、その身体を形作る構造は余りに脆い。それ故に、洸晰を自在に操ると言う能力を得られている訳だが……。試算として、光使いの寿命は約三十年。……あの少女、レヴィア君ならば保ってあと十数年が限度だろう」

「は——何、だと……?」

洸晰と言うのは元々何の情報も付随されていない純粋な状態では個々が自由に飛び回り、集合する事はあっても原子化しない限りは結合する事は無い。それを無理矢理人の形に押し固め、脳と脊髄からの〝人体と同様の働きを保つ為の振る舞いをする〟という命令によって純粋な洸晰達は〝既に原子化している〟と誤認させているに過ぎない。
そんな風に、人間より遥かに危うい均衡の上で状態を維持し続けるとなれば、その限界点も相応な値となるだろう。
仮に彼が窮地を脱する為の与太話として出す話のネタとしては、余りにもナンセンス。それだけに妙に信憑性を帯びているのが、不快ですらあった。

「馬鹿言え、そんなの……!」

「信じられないかね? だが何れにしろこれは嘘偽らざる紛れもない事実。何せこの試算結果を出したのは光使いの生みの親、エイレンフェレス技術総監だからね」

「……ッ」

「光使いを仮に一人の人間として見たとして、使命に従うか反するか。どちらが彼女らにとっての生か死か、善か悪か……。これを踏まえた時、我々の尺度で判断するには少々難しくなって来るとは思わないかね?」

離した間合いを再びジェノブロウは自ら詰めて寄り、目を逸らしたゼクティスの顔を覗き込む。全てを識る世界の管理者の冷厳な青眼が、ゼクティスの眼を捉えていた。
「光使いは我々と同じ時を生きる事は出来ない。我々がどちらの選択を選んで示したとしても、所詮は我々の欺瞞でしかないのだから」
何故今その話を、と問いたくなったが口を開くより早く遮られた。遠く背後から、錆びた金属を擦擦る耳障りな聲が聞こえたのだ。

(——!)

まさか、と振り向き辺りを見回すが、未だ姿は見えない。

「……邪魔が入った様だ。無粋な……思ったよりも早い」

些か詰まらなそうにジェノブロウが呟き、武器を退けると戦闘の構えを解いた。ゼクティスもまた一旦構えていた大剣を下ろし、周囲に意識を向けた。
耳障りな唸り声は次々に数と音量を増し、とうとう何処からともなく黒塗りの醜い姿を湧き上がらせ此方に曝け出す。

「おいおい、こんな所まで魔物が出るのかよ……」

「此処は聖都の最上層だが、魔物に我々と同じ空間の概念は当て嵌まらない。魔物が寄り付かなかったのも単に獲物が居なかったと言う理由に過ぎない。後回しにされていたと言うだけであって、此処が特別安全な訳でも無いのだよ」

うんざりと独りごちるゼクティスに対して、ジェノブロウは飽くまで涼やかに、別段驚く事でも無いと言う。これ以上時間を無駄にする訳にもいかないが、これをまとも相手にしたところで次々涌き出るのが魔物である。埒が明かないのは目に見えていた。
どうする、と男へ目配せを寄越した──その時。
かつんと足元で地に踵を打ち鳴らす、この場に不似合いな軽い音が一つ耳に届いた。空耳かとも思える小さな音だ。
直後、突然ゼクティスの身体が地に沈む。いや、確と有ったはずの足場が真白の蟻地獄の様に円を描いて砂状となって崩れ落ちる。ジェノブロウの行使する、不要な物を消去する力──Vanishに因るものであった。

「何……ッ⁉︎」

跳んで逃れようにも最早時既に遅し。足元は柔らかな砂状と化し足を飲み込むばかり。伸ばした腕も届かない。崩れた足場と共に重力に従うまま、落ちるより他なかった。

「ってぇ!」

体感として十m弱は落ちたろうか。落下の衝撃で脚に激しい痺れはあるものの、幸い彼もろとも落下した砂のお陰であろう。骨折などの大した怪我は無さそうだ。
不思議な事に、足元に溜まっていた砂は風に浚われる様に跡形も残さず直ぐに掻き消えてしまった。
周囲の様子を伺うと、そこは円柱状の空間になっている様だ。柵など親切なものは有りはしないが、壁に沿って貼り付く様に螺旋階段が下へ下へと伸びている。照明は階段に沿って壁に転々と灯る蝋燭に似た橙色の心許ない光のみ。闇は濃く、深く、視界は利かない。どうやら下だけでなく上にも階段は続いているらしい。恐らくは上方に本来の侵入口が存在するのだろう。
余りに突然の出来事に全く理解が追い付かず、元々立っていたであろう上方を仰ぐ。ゼクティスは頼り無い月光を注がせる円い穴を忌々しげに睨んだ。

「クソ……また訳の判らねぇとこに……! おいジェノブロウ! ……聞こえてんなら返事しろ。人をこんなとこに落として、何のつもりだ!」

外とは一切隔絶された場所なのだろう、張り上げた声が反響して木霊する。だが、返事は返って来ない。
もう一度声を投げてみるかと息を吸い込んだ矢先、穴から注がれる月光が切れかけたランプの様に明滅する。穴から何か落とされたと理解したのは一秒後。黒い塊の様なものが降ってきたのだ。

「は——なに、」

咄嗟に後方へ飛び退くと、丁度ゼクティスが立っていた地点へ体長二mほどの魔物が階段に叩き付けられ、その躯が作り物のゴム人形の様に跳ねる。その拍子に、魔物の躯に刺さったままになっていた棒状の金属の様なものが抜ける。それは壁に当たってゼクティスの傍に落ちたが、魔物は既に事切れた後だったのか。もう一度地を跳ねると成すがままに階段の淵から落下していった。
たっぷり七秒ほど置いて、熟した果実が潰れるに似た生々しい音が遥か下方から微かに届いた。濃い闇の中で底無しの様にも見えるが、一応この空間にも底はあるらしい。
しかし、一体第四階層の何処にこの様な外界と完全に遮断された空間が隠されていたのか。
魔物らしき骸が一度叩き付けられた場所には血と肉片が散乱していたが、それには気にも留めず先程の金属音の主を拾い上げる。暗闇の中、微かに煌めく光沢が輪郭を描き出すと、その正体にまさかと我が眼を疑った。

「これ、ジェノブロウの持ってた剣じゃあ……」

淡く紫色を帯びた刀身や金色の装飾は、魔物特有の黒ずんだ血でねっとりと汚れてはいた。しかし鋏にも似た特殊な形を見紛うはずもない。ジェノブロウがつい先程迄携えていた装飾剣──〝月詠〟である。
意外な事に、これだけ手荒く扱われても装飾が欠けるどころか傷一つ付いてはいなかった。訝しみつつ剣を眺めていると、ようやく頭上から返答の声が降りてきた。

「君が持つそれは、夜の蝕国を治める者の銘を持つ剣であり、彼方とを繋ぐ鍵でもある。これ無くして境界に立ち入る事も、中枢に踏み入る事も出来ない。——少しばかり君に、預けておく」

ジェノブロウからは見えていないはず。だが、月詠を受け取ったのをおおよそ察したのだろうか。
恐らくは、最初からこうするつもりだったのだろう。ジェノブロウは意図してこの月詠を己の手に渡したのだ。ゼクティスとて、その行動の意味が判らぬほど愚鈍ではなかった。

「あんた、本当にそれで良いのか? 俺に行かせたとなれば、都合が悪いんじゃねぇのか」

「聖都を守る為にと、世界を守る為にと。全ては滅びへ向かう途を絶やす為。皆が生きる明日に、燦然たる暁光を望む為。普《あまね》く御霊に正しき輪廻を。
私の中では既に決まっていたこと。ここまで来た以上、語るべき言葉も無い。……私は、この腐り行くだけの連鎖に抗う剣を持つことすら赦されない。どうせこの虚構の身では何も出来はしないのだからね」

「……おい、俺はあんたの願い事を負える様な人間じゃあねぇぞ」

「何れにせよ、このままでは早かれ遅かれ人の世は屈辱的な作為によって終焉を迎える事に変わりは無い。気負いは無用だよ。ただ一つ君に望むのは……君はせめて、後悔の無い道を選んで進んで行き給え。例えその先に、苦悩にまみれた未来しか望めずとも。——それだけだ」

上方から響いてくる魔物のがなる唸り声は、激しさを増して聞こえ続けていた。それでもはっきりと、彼の声はゼクティスの耳に届いていた。
だが、得物を手放したあの男は自らの眼前の敵を如何に対処するつもりか。単騎で、しかも己の膂力のみで突破出来るとは思えない。ゼクティスは口を開きかける。

「ジェノ……」

「私の身なら心配に及ばない。構わずとも結構」

互いの姿を目視も出来ない状況でよくも此方の意図を察するものだ。「覚《さとり》かよ」と呟いた揶揄にさえ「勘だよ、我が写し」と返された。
次々現れ、迫り来る魔物の中ジェノブロウは捉えるべき獲物に素早く狙いを付けると、またしても指を鳴らす。それを合図に、数体隔てた先に居る魔物の躯が鎌の様な腕一本だけを遺して真白の砂状に崩れ落ちた。
迫る魔物の群れを掻い潜り、それを拾い上げると鎌の刃に似た魔物の腕を振るった。それは拾い物にしては余りに良質な武器として、手近な魔物の脇腹を見事に裂いたのだった。

「武器など、どうとでもなるさ」

元よりこの男、世界に対して何も手出し出来ない身でありながら此処までの筋書きを描き上げてしまう程のしたたか者である。どうやら、ジェノブロウの身は案ずるだけ杞憂らしい。

「さぁ行き給え。私は此処で、常夜の夜明けと君らの帰還を待っている」

ゼクティスは黒髪に手を突っ込んで粗っぽく掻くと、溜め息混じりに呟いた。

「後悔、ねぇ……。今までしなかった試しなんざ無かったけどよ……」

ゼクティスは背の鞘に大剣を一旦収めて踵を返すと、壁の曲面に添って螺旋状に張り付く階段を段飛ばしに駆け下り始めた。

ジェノブロウが何故この選択の余地の無い瀬戸際で、光使いの命数の事実を教えたのか漠然とではあるが理解出来た気がした。
万一全ての事柄が上手く運びレヴィアを此方側へ連れ戻せたとする。だが、この先果たして何の憂いも柵も無く過ごせるという夢想が現実となる可能性など、果たしてどの程度のものであろうか。生存の中では、死へ飛び込んでしまった方がましだと思える事になど腐るほど出会すこの世の中だというのに。

「仮にあいつを取り戻せたとして、たった十年ばかし……くそ、俺にどうしろって……。考えるな。目先の〝約束〟事を片付けるまでは……」

視界も然して利かずひたすら闇に向かって延び続ける階段を下りてゆく内に考えまいと一度は仕舞ったつもりの記憶が無意識に呼び起こされる。堪らず呟いて奥歯を噛み締めた。

「畜生……何だよ……!」

つい脚が緩み、歩みも止めてしまう。眼を背けようとしてもそれは許さじとでも迫る様に、ジェノブロウより告げられた光使いの命の刻限が脳内に反芻してこびりつく。仮にレヴィアを助け出すことが出来たとしても、少女の時間は自分を置いて駆け足の様に過ぎて行くのだろう。
耐え難い理不尽さに、自制していた苛立ちが止めどなく沸き上がり抑え切れない。いつの間にか固く、固く握り締めていた拳をやけくそに壁に打ち付けた。

「……十年……十年、って何だよ……人並みにも生きちゃなんねぇのか、あいつは……クソッ……!」

ゼクティスは自身の呟いた声すら掻き消す様に、苛立った足音を空間に再び反響させていた。

長い長い螺旋階段を終え、最下部へ辿り着いた頃にはすっかり息が上がり、額には汗が浮かんでいた。閉鎖空間のはずだが、下層部へ近付くにつれ青白い霧が現れ始めていた。

「……無駄に長ぇ階段だったな……ようやく底かよ」

階段の内縁に添うように石柱が等間隔に建ってはいるものの、その内数本は経年劣化の為か途中から折れてしまっている。床には円をベースとした幾何学的な紋様が最下部の床全体に刻み込まれていた。
しかし何よりも真っ先に目に入ったのは、ほぼ中心辺りにひっそりと置かれている人間を模した石像だった。周囲は高さも大きさもまちまちな燭台が並んでおり、これは照明などではなく本物の火が灯され周囲をぼんやりと浮かび上がらせている。
妙な事に先に落下したはずの魔物の死骸は跡形も、肉片すらも残ってはいなかった。確かに固い地面に叩き付けられる音を聞いた。魔物の死骸は時間経過と共に霧散してしまうとはいえ、未だ消えてしまうほどの時間は経ってはいないはずだ。
ともあれ、境界へ通ずる途が此処にあると言うならば調べなければ。先ずは石像へと近付いてみる。
薄っすらと白く埃を被ったそれは、膝を折って傅《かしず》いて何かを捧げ持つ様に両腕を差し出した女性の像であった。地下深くとは言え、皇居の奥に隠されているのだから皇家にまつわる人物なのだろうが、少なくとも模した彼女を讃えるものでは無いだろう。死して尚、使命として此処に留まり続けているのか、或いは罰せられているかの様にも見えた。
こう言った美術品や歴史に造詣があるわけでも無いが、女性像が纏う豪奢な衣装と悲壮感さえ滲ませるこの姿。ジェノブロウが話していた『皇家の呪い』の起源に関連しているのかも知れない。
屈んで覗き込めば、首から下がった何かが揺れている。恐らく金属製のそれは、六角形の縁の中央に割れ目の走った紫色の玉石が嵌め込まれていた。それもすっかりこびりついた埃で曇りきって輝きを写す事もなかったが。
ジェノブロウはこの月詠が境界への鍵だと言っていたが、使い方を訊いた訳ではない。何か鍵穴となるような物があるのだろうかと再び辺りを見回してみるが、やはり他に目に付くものは無い。だが、その場に漂う不可視の空気は明らかに地上とは全く異なる異質な雰囲気を孕んでいるのは感じて取れる。身体に纏わり付く様な、或いは幾つもの視線を一身に受けているような気味の悪さだ。

「ん……?」

その時、闇の奥底から何処からともなく囁く声を聞いた気がした。空耳も有り得るが、何せ此処は自らが発する音以外は全くの静寂が支配している。
ゼクティスは目を閉じ息を殺して聴覚に意識を集中させる。
——今度は確かに。内容まで聞き取れはしないが、複数の囁き合う声たちが聞こえた。
やがてそれは数を増し、はっきりとした言葉として繰り返し唱えられていた。

ああ 芳しい 懐かしき 赤銅色の月の香り
月を継ぎし上位者よ 姿無き我らに星示す鐘を 遠望の眼を
憐れむならば 哀れみを 術無き我らに 思案の脳と屍血の刃を
冥空の虚に 星の遺子を指折り沈め 極夜を浸す赤銅色の御姿を
我らが黒き血を以て 絶え無き赤の奉血を与え給え
母なる月が詠ずる超越的な理を
総ての夜は 深淵《みふち》の底に還らるる

母なる月に抱かれし祝福の子 或いは呪い子よ
我らの声が 聞こえぬか そこに御座《おわ》しませ
我らの元 我らの手へ 護りの扉を開き 我らを解きたまえ

繰り返し唱えられようと内容などおおよそ理解出来るものでは無かったが、度々表れる〝月〟の言葉が引っ掛かった。

(何だ……この〝月詠〟の事か?)

この数多の声の主は月詠を欲していると言う事だろうか。しかし姿の無き者がどう受け取ると言うのか、問おうにも〝彼ら〟と会話をするのは不味いのでは無いだろうか。
仮に彼らが魂のみ、或いは思念のみの存在であるならば、認知出来ると悟られれば依代にされると聞いた事がある。冗談だとは思ったが、クルシュケイトの様に霊魂と交信できる〝死霊使い〟も存在するのだ。その上、此処は境界との隣接点。存外有り得ない話でもない。
此処で何か剣を捧げられる様なものといえば、やはりあの女性像以外に無いだろう。ゼクティスは再び石像に歩み寄ると、掲げられた両手に月詠を乗せた。すると、願いが届いたとばかりに先程の声達が一様に歓喜する。

ああ! 宵は結われた! 我らの生ける 赤銅色の月の夜だ!
幾星霜の時を経て 月の血族に因ってもたらされる 焦がれ続けた 那由多の夢
至高なる 月の上位者よ 我らの帰還に至上の感謝を
暁の守りは 破られた
鉄臭の芳香を 赤き血の 絶え無き祝宴を 全ての宵は 結われたのだ!

歓喜の声に呼応するかの様に、周囲の景色がどろどろと溶ける様に崩れ落ちて行く。壁も床も例外無く消え失せていった。やがて先程下りてきた螺旋階段も完全に姿を失い、閉鎖的な空間とは全くかけ離れた森の様相に取って変わったのだ。
森の中とは言え、青みがかった霧がいやに深く立ち込めており視界などは精々周囲十数mといったところか。昼間程の明るさは無いが、それでも上方からは濃霧越しに赤橙色の光が差し込んでおり、夕暮れ程度の明るさである。先程の常闇に近い環境から考えれば、充分過ぎる程だ。
変わらない物と言えば、月詠を乗せたままの女性像くらいなものだろうか。これだけは消えること無く残っていた。余りの景色の激変振りに、ゼクティスは暫し困惑する。

「境界に入った、のか……?」

気がついてみれば、先程の声も今は全く聞こえなくなっていた。
周囲を見回すが、森の中と言うに命の気配などまるで感じない。葉擦れの音一つしないのだ。余りに静謐で、木も苔も草も良くできた作り物の様な違和感だった。
そう言った気味の悪さはあるものの、境界と言う場所は想像よりも遥かに穏やかな姿であった。
深い霧のせいで今一つ方向が掴めないが、かといって此処でいつまでも立ち止まっている訳にはいかない。奥へ向かおうとしたが、直ぐに思い出した様に脚を引き留め、困った様に黒髪を掻いた。

「置いてくのは流石に不味いか……」

自分にはRequiemが有る。月詠は不要だろうと思ったのだが、一応は預かり物である。放置して紛失したともなれば宜しくは無いだろう。邪魔にならないように月詠はRequiemの鞘に取り付けた。
先程の声の歓喜した様がいやに不穏な影を持って頭に残響している。少なくとも此処は既に異界の地。人間が長居出来る様な場所では無いことは明確。
ゼクティスは再び霧深い森を奥へと早足に歩き始めた。

——————

ゼクティスが境界へ踏み込んだ頃。
聖都の夜空はかつて無い様相へと変貌を遂げていた。誰しもが空を仰いだ事であろう。夜よりも尚暗く深いその色に。
先刻までの宙《そら》には、星が散撒かれた漆黒に細い月が浮かんでいるいつもの夜と変わらない姿であったと言うのに、今はどうだ。突然空に厚い雲が立ち込め、覆い尽くしてしまったかと思うとそれも一時の事。切れ切れになる隙間から射し込む月の光が、雲を赤や紫色に染めていった。雲を染める程の月光の源は赤く灼けた色に、表面のクレーターさえ視認出来る程に大きく迫った満月であった。

「何っだありゃあ、気味の悪い……」

ソラージュと共に最前線へ赴いて魔物の対応に当たっていたカーライルも、肌が粟立つ感覚に寒気を覚え空の変容ぶりに眼を見開いた。

「判らん……が、これが境界が開かれたと言う事なのか…? と言うことは、この世界は黄泉に繋がった。明けることの無い夜の領域に入ったと……」

周囲に確認出来る分は粗方数を減らせたかと、魔物の血で塗れた騎槍を一旦地に突き立て、ソラージュも腕を休める。身に纏った濃紺の軍服も、互いに返り血や土埃で酷く汚れてしまっていた。

「ああ……、いつだったか陛下の仰有っていた〝夜の蝕国〟……か。だとすると、成る程な。あの気味の悪い満月が魔物さんの大好きな〝赤銅色の月〟って奴か、見たまんまだな」

境界との隔たりが開かれたと言う事は、魔物の現出が更に容易くなってしまう事を意味する。更に黄泉域との境目が曖昧になってしまう為、現世の昼夜を問わず魔物にとってはより都合の良い環境が作り出されるのだ。
それが〝夜の蝕国〟である。以降、魔物の攻勢はより激しさを増す事であろう。
その時、何処からともなく魔物の咆哮が聖都一帯から響き渡る。そしてそれに呼応する様に次々と耳障りな魔物の叫びが吠えあがる。それは慟哭にも、或いは歓喜の聲にも聞こえた。双子は険しい表情で目配せを交わし頷き合う。

「精々気張ろうや、兄貴。何としても此処を守り抜いて、陛下に聖都の夜明けを見せたいしよ」

「……今更口にするまでも無い。例え四肢が砕けようとも、我らのこの身は全て陛下の意志が指し示すものの為に、だ」

ソラージュは一つ息を吐くと後ろを振り返る。此処まで予断無く指示を飛ばしつつ、自分自身もまた余裕無く掃討に当たっていた為、己が率いていた部下達も満足に顧みれては居なかったことを思い出したのだ。
久方振りの部隊指揮とは言え状況把握を怠っていたとは、と自戒する。
カーライルと共に部隊の頭目としてより多くの魔物を引き受けてはいたものの、カーライルも治療を受けたとはいえ手負いの身。引き受けるにも限界がある。後ろに着いてきている者達の知った顔がいつの間にか何人も見えなくなっている事にようやく気付き密かに歯噛みする。

「……大分、減ってしまったか」

「……そうだな。なら、俺らは余計に情け無ぇところなんか見せてらんねぇな」

カーライルは騎槍を肩に担ぎ直すと、口角を上げて明朗に笑みを浮かべた。緊張感などあったものでは無いその顔に思わず額を押さえ、ソラージュはやや呆れ混じりに嘆息する。

「不本意ながら、貴様のそう言う所は関心するぞ」

「どうも、誉め言葉として貰っとくぜ」

まるで真反対な性格の違い故に昔からと自然と役割り分担が決まっていた。整然たる規律を作るのはソラージュの役目、戦いの士気を保つのはカーライルの役目、と言う風に。これが双子と言うものかと思うと、頭痛を催すものだが。
再び魔物が怖気を催す呻き声と共に湧き出して来る。今まで魔物の眼は一様に濁った黄金色をしていたのだが、新しく現れたものは赤月に憑かれたかの様な赤色に変色していた。魔物はこれまで以上の力を以て、より獰猛に襲い来る。
魔物が群衆となって現れてゆくのに伴って左耳に装着している無線のイヤホンマイクからは他区画からの出現報告の声がノイズ混じりに飛び交う。

「魔物の勢力が増している。何処から現れるか予想が付かん。混戦を避ける為、隊列は散開させる。各員、少人数で組を作って死角を無くし、一体一体を確実に潰してゆけ! 孤立は絶対に控えろ。常に近くの隊と連携を取る様に! 負傷した者は速やかに退避行動へ移れ!」

混線する無線の間を見計らい指示を飛ばす。
陣形や隊列を組んだ所で、空間の概念等関係無く現出してくる魔物に対しては全く以て意味を成さない。相応に犠牲を払うことになるだろうが、せめて陣を拡げ勢力を分散させるのが得策だろう。

「やはり、これからが魔物の本隊と言う訳か」

ソラージュは呟くと共に、地に突き立てた騎槍を掴んで構え直す。
地を揺らす足音と共に正面から突っ込んでくる魔物に対し姿勢を屈めて懐へ潜り込むと、下方から首を突き上げ風穴を空ける。首を串刺しにされ、動きが止まったのを機に横一閃に槍を薙いでその侭頭を吹っ飛ばす。
首から根刮ぎ頭を千切り飛ばされた魔物は即死も同然に事切れ、三m近い体躯を地に沈めた。頭をもがれた断面から静かに血が流れ、地に溜まりを作る。
一般兵ならば三人掛かりでようやく相手に出来るであろう魔物を容易く討ち果たす。この将の勇姿無くして、疲弊する部下を鼓舞など出来はしない。
ソラージュとカーライルはそれぞれ無線のマイクスイッチをONに入れる。

「聖都の掲げる秩序はあの様な穢れた輩を塵芥も赦しはしない。不運にも我々の前に現れ、須《すべから》く死滅する運命を決定付けられた事を苦悶を以て後悔させてやろうではないか」

「我ら聖都軍、高潔なる正義に殉じ、清廉なる秩序がもたらす安寧を永劫守護せし輩《ともがら》なり。
俺らがあんなもんに好き勝手やられようもんなら、カッコ悪くて死んでも死にきれねぇってもんだ。……さぁ、もう一頑張りしようぜ、皆」

その後、怒濤の勢いで返ってくる『了解』の声によってまたしても混線する無線に双大将は苦笑を浮かべていた。

——————

 

いつの間に意識を手放していたのだろうか。
目覚めに従って、レヴィアは閉じられていた瞼をゆっくりと開いた。数度瞬きを繰り返す内に、霞んで二重に重なる像がはっきりと形を成して視界に映し出される。
見覚えは無い。だが、何処かの古い建物内の様だ。今、自分の身体を横たえている固い床板に艶など無く、至る所剥がれている上に斑に黒ずんでおり薄っすらと埃が積もっていた。壁際に並んだ棚には、赤茶色に汚れてしまい中身こそ見えないが、紙ラベルの貼られた薬瓶らしきものが乱雑に並べられていた。中には、蒼い結晶が入ったものも見える。
息苦しさを感じるのは、埃に塗れた空気のせいだけではないのかも知れない。
ひび割れて、外も見えない程に曇り切っている窓からはぼんやりと、橙ではあるが陽光とは違う温みの無い光が部屋に差し込んでいた。

「ここ、は……。私、どうなって……! ──ッつぅ……! んぐっ、ぅ……!」

鉛の様に重怠い身体にじわじわと感覚が戻って来た所で、傷を負ったままの右腕に鈍痛が走る。この傷のせいで恐らく熱も出ているのだろうか、頭を中心に身体が蒸される様に暑い。それに加えて両腕の圧迫感。頭の上で両腕が固定され、身動きが取れないと気付いた所でようやく拘束されている事に気付いた。
己が縛り付けられているものに目を向ける。形は時代外れに旧く長らく使われた形跡も見られないものの、側に点滴台や器械台があることからして恐らく施術用の寝台なのだろう。鉄製の長い脚に、自分の腕で輪を掛けている様な格好だ。

「あ……!」

直感的に此処が本来何の為の部屋であるかを悟った。

「い、嫌だ……ここはこわい……いや……!」

手術室、或いは実験室の類いであろう。医療道具の並ぶ部屋に本能的な恐怖を覚える。幼少の時分、心の奥深くから刻み付いてしまったトラウマである。
逃げなければ。
レヴィアは拘束を解く為に慌てて光使いの力を発動させようとするが、何故か上手く操作が利かない。いつも通り光を放ち、離散しかけた所でまた元の状態に戻ってしまうのだ。

「なな、な、何で……ぅあッ!」

突然頭蓋に杭を打たれた様な痛みが走り、悶えながら身を折り曲げて縮こませる。
熱のせいだとしてもおかしい。今まで幾度と無く力を使ってきたが、こんな事は一度たりとも無かった。

「っあ……ぐッ……うぅ……!」

脈打つ様に一定の間隔で締め付けて来る痛みを、奥歯を噛んで堪える。
再度洸晰の操作を試みるも、やはり激しい頭痛が走り集中どころではなくなってしまう。酷い痛みのせいで吐き気すら催す。噛み締めた歯の間から荒い息が漏れた。
腕を縛るのは何の変哲の無い皮ベルト、聖都軍に捕らわれた時の様に特別な道具で封じられている訳ではない。あの時は反応すら示さなかった。ならば何故操作が利かないのだろうか。他の要因でもあると言うことなのだろうか。

その時、扉の蝶番が軋む音と共に固い靴底が床板を踏む足音が響いてきた。
「光使いの力を使えば逃げるのは容易いでしょうが、無駄な事です。私と共に居たとは言え、生身で境界を突破した。貴女を形作る洸晰は、身体としての形に留める事で精一杯のはず。そしてこの中は濃度が低いものの、瘴気混じりの空気である事に変わりありません。今その力を使うのは命取りですよ。
自分の身でありながらその程度の把握も出来ないとは……貴女それでも光使いですか。嗤わせる」

額に汗を浮かべ、僅かに顔を上げる。冷淡に話す声の方へと視線を向けると、片眼を黒の眼帯で覆った見知らぬ女性が現れていた。

「……誰、ですか」

痛みに乱され混乱しきった頭ではあったが、レヴィアは何とかそれだけを言葉として絞り出す事が出来た。
女は僅かに眉を潜めたものの「ああ」と納得した様に軽く頷くと、組んでいた右手を己の顔の前へひらひらと翳して、外す。まるで手品の様にその顔が一瞬で、漆黒の面兜で覆われていた。忘れ様も無いその姿に、レヴィアの紫瞳が見開かれる。

「——!」

「そう言えば素顔で会うのは始めてでしたかね。どうも、貴女方の仇敵です」

「あなたがっ……!」

レヴィアは腕を固定されたまま、膝を立て何とか半身を起こす。ゼクティスへ何度も刃を突き立てていたあの人物だと、憎悪にさえ似た怒りが沸々とこみ上げる。彼女と聖都での邂逅を思い出し、強く睨み据えた。
対するリオは携えていたDIABOLOSを黙視も敵わぬ速度で抜刀すると、次の瞬間にはレヴィアの鼻先数㎝に切っ先を向けていた。

「そんな風に不愉快極まりない眼で見ないで下さい鬱陶しい。潰したくなってしまいます」

「……」

押し黙ったままのレヴィアは言われずとも、とばかりに顔を背ける。リオもまた、突き付けていた抜き身の刀を引かせた。

「……所で、何やら私の馬鹿弟子が随分と世話になった様で。四年振りに会ったと思えばあの変わり様、驚きましたよ」

リオは再び兜を消して元の素顔の状態に戻ると、世間話でもする調子で語りかけて来た。

「弟子……?」

「ええ、私がゼクティスの〝先生〟です。……ま、今となってはそれも只の過去に過ぎませんがね」

『先生』と言う言葉に、レヴィアの中で記憶が繋がる。雪山の研究施設に泊まった際にゼクティスが話していた〝先生〟の存在。まさか彼女こそがその人物だと言うのか。ならば尚更怒りと共に疑問が浮かぶ。

「ゼクトの先生なら! どうしてあんな……酷い事をするんです!」

「おや、おやおやこれは異なことを言いますね。先生が皆優しいとでも思っているんですか?」と額を押さえ、呆れた様に嘆息した。

「先生だからですよ。私はあの虚けに教育的指導を施したまで。貴女の〝先生〟はお優しかった様ですねぇ」

「それはっ……。関係、ありません……」

レヴィアがかつて先生と呼んでいた人物とて、けして優しさを注がれた訳では無い。しかし、それを差し引いたとて解せない。
青年が語った彼女の思い出話には、少なからず恩師への感謝と敬意があった。彼が語った〝先生〟と目の前の人物との間には別人とも思えるほどの印象の乖離がある。

「それにしてもゼクティスと言い貴女と言い……全く度し難い。ゼクティスと貴女はたまたま知り合ったと言うだけで、元より何の縁も無い他人。 何故互いにそんなに入れ込むのですか。煩わしいでしょう、一々他人の心配をするのは」

「ゼクトは……光使いとかじゃなくて、私を私と言う一人の人間として認めてくれました。そして、助けてくれました。エリザ達と同じ様に、私にとっては凄く……凄く、大切な人です。大切な人を想うのに、理由が必要なんですか」

リオは軽く鼻で嗤うと否定の意を示す様に、しずかに首を横に振る。
次の瞬間、弾かれる様な鋭い音が鼓膜に刺さったかと思えば視界は汚れた床に伏されていた。

「──っ! ……う……」

遅れて頬に鈍い痛みと熱、口内には鉄の味が広がってゆく。

「……成る程。やはりどこまでも不愉快ですよ、貴女。絶望なんぞ味わった事も無いような呑気で眠たい考え、お花畑で蜜でも吸って生きてきたのでしょうね。胃が引っくり返って反吐が出そうです」

リオは不快感を露わに振り抜いた拳を払うと、少女を睥睨する。
痛みを堪えようと奥歯を噛み締め、レヴィアは顔を上げる。

「あなたには……そんな人は居ないんですか」

「相互扶助……いや、依存し得る様な第三者、ですか。生憎と〝今の私〟には、理解出来ても共感はし得ない。今の世には最早何の執着も有りませんのでね」

「今……と言うことは、昔は違ってたんですよね? なら……」

「過去を顧みた所でこうして既にもたらされている結果に変わりはありません。所詮、後に残るのは結果のみです」

レヴィアの口から「どうして……」と思わず声が漏れるが、リオはにべもなく溜め息混じりに鬱陶しく手を払う。

「境界の部品でしかない貴女に故まで語る筋合いも有りませんし、これで充分過ぎる答えだと思いますがね。全く、要らない口をよく叩く。幾ら出来損ないでも部品なら部品らしく黙って転がって使われるのを待っていれば良いものを………」

皆まで言い終わるのを待たず、リオに向かって小さな刃物の様な物が音も無く飛んでくる。
完全に不意を突かれたものの首を捻って容易く躱し、眼帯の片帯と頬の薄皮一枚程度が裂けたまでに終わった。背後の壁を振り返ると、洸晰で形作られた小さな破片が刺さっていた。

「──私は、部品じゃない!」

聞捨てならないリオの言葉に激昂し、叩き返す様に否定する。ほんの小さな洸晰の破片しか作ることは出来なかったが、それが今のレヴィアに出来る精一杯の反抗であった。

「……ほぉ、ならば……貴女は何だと言うんです? 精々十年、その場凌ぎの代用品として使われるしか価値の無い貴女がただの機械の螺子と同じ、使い捨ての部品と言わず何だと?」

洸晰の破片が消えても尚、此方に一瞥すら寄越さず背後の壁に顔を向けたまま、リオが問う。
小さな破片とは言え、無理矢理に洸晰を操作した代償にレヴィアは再び頭蓋ごと割れんばかりの激しい頭痛に襲われる。罰とも思える痛苦。それでも負けじと溢れ出る思いのまま、必死に言葉を紡ぐ。

「違う……違います……! わ、私はっ……私、です。ただの……レヴィア・セイン・ログリフィル……です……! 他の、何かじゃなくて……!」

仔細は違えど、レヴィアは自ずと聖都へ赴く前の夜にゼクティスに訊ねた際に彼から返された問いの答えのままを、リオへ返していた。視界が滲み、歪んで行く。涙が溢れるのは頭痛のせいもあるのかも知れない。

「……それは……境界を動かす為に組まれた人格から自己認識を得たまでの事。ですが貴女はその自己認識を持つが故に〝人間〟と同義であると……?」

「経緯、は……関係有りません……! でも……私が私として、こうして生きていて。皆と同じ様に、生きたいっていうのはおかしいんですか! 誰かに決められた運命や役割が恐ろしくて! ……辛くて逃げ出したいって思うのは、そんなにいけない事なんですか!」

「世界の命運より我が身可愛さ……ですか。何と愚かな……流石は出来損ない」

「こんなのっ……自分勝手だって……解ってます。人ですらない、作り物の……こんな私でも、世界に少しの間でも平穏を作ることが出来るのなら、それは凄く素敵な事だって……思います。でも……!」

「……」

リオはレヴィアの言葉を一言一句洩らさぬ様に耳を傾けているのだろうか、或いはその逆か。完全に沈黙している。

「でも! 私にだって、叶えたい願いはあります……。この世界で大切な人と一緒に生きたいって願うのは……そんなに許されない事なんですか‼︎」

古びた部屋に叫びにも似た声が響く。それは残響するでもなく、雪の日にも似た静寂に虚しく吸い込まれていった。後に残り、両者の間に横たわるのはただただ沈黙、敢えて言うならば呼吸の音のみ。
「……言いたい事は……以上ですか?」

「……っ」

ようやく口を開いたリオの声は更に温度を失い、底冷えすらもたらすほどに淡々としたものだった。。
レヴィアはぎり、と唇を噛む。やはりこの人物には自分が何を言ったところで、その心に落葉程度の波紋すら作れはしないのだろうか。そもそもが自分本意の見解なのだから、相容れず当然と言えば当然の事ではあるのだが。
やがてリオの肩が小刻みに震えだす。くつくつと喉を鳴らして漏れ出す様な声は次第に明確に耳に届くものとなり、明瞭に笑い声として音量を増して行く。俄には信じ難かったが、今の今まで鉄面皮を保っていたあのリオが、笑っていると言うのか。
いつしかその笑い声は狂気じみた哄笑へと変わっていた。訳が判らない。レヴィアは本能的に形容し難い恐怖を覚える。
一頻り高笑いをしていたリオは耳で引っ掛かり、仕事をしなくなっていた眼帯を突然荒く毟り取るとその侭床へ叩き付けた。
レヴィアは思わずびくりと身を竦ませる。床に落ちた眼帯と、ぐるりと振り返ったリオの顔を見て喉奥から引き攣った悲鳴を洩らした。
眼帯が覆っていた顔半分は黒く染まっており、右の眼窩には魔物と同じく黒地に濁った金色の眼球が嵌まっていた。リオの表情は怒りに囚われ、理性など如何程残っていようものか。ゆっくりと腰の刀の柄に手を掛け確と握り締め、じりじりと間合いを詰めて寄る。

「全く、救い様が無い……。たかが人格を得ただけの屑木偶が、碌に身の程弁えず真っ当に生を望むだと……。みっともない……穢らわしいッ……! 罪深い! 欲深い! 業深いにもほどがある……畜生以下の分際で、人間様ぶって喧しく喚き散らすんじゃあ無い‼︎」

一度は収めたDIABOLOSが再び抜かれ、目眩む程の紫色の一閃が目前を疾る。その残影が消え行くと共に、視界一杯に染め上げる程の赤色の飛沫が上がった。

「……え」

「──あぁそうそう、最期に一つ言っておきましょう。〝あれ〟は、私のものですよ」

何が起こったのか。
理解する間も無く幕を下ろされた様に視界が暗転し、ぽつぽつと目の前に見た事もない赤字が羅列されてゆく。

『―ALERT!―
Functional decline due to the high load to control the central institutions “Luminous mind”.
As a top priority the maintenance of body structure, and shuts down all functions.
To calculate the next time re-awakening predicted time.
… Because of damage excess, calculated failure.
The “Light player” as an automatic defense function, and then start the preparation of re-resident …』

どういう意味、だろうか。
自分自身の脳が視せているはずだが、それをレヴィアが呆然と眺めるばかり。そして理解する間も無く文字列は突然ノイズ混じりにかき消える。そこでようやく悟ったが、気付いた所でもうどうすることも出来なかった。
待って、と声の限りに叫んだつもりだったが、その声は自分の耳にすら届かなかった。
飲まれてはいけない、戻らなければ。叶えたい〝約束〟が未だ残っているのに。此処で終わってしまう訳にはいかないのに。
だがレヴィアの意志とは無関係に、彼女の意識は遠くへ。容易く戻っては来られぬほどに深く遠い暗闇の果てへと吹き飛ばされていた。

 

感情のまま無様に剣を抜くなど、この先一度たりともあろうものかと考えてすらいなかった。それがまさか人間ですらない〝擬き〟に精神を乱され、煮える思いのままに激昂をぶつけることになろうとは、醜態にもほどがある。
獣に似た荒い息がようやく治まった頃、リオは振り抜いた侭の刀を指先の震えを制しつつ鞘に収めた。

「やっと、静かになりましたか……。やれやれ、最初からこうしておけば良かった……」

衣服へ僅かに跳ね返った返り血に忌々しく表情を歪ませる。リオが見下ろす足元の先には、本来白色であった衣服やその下の床まで自身の血で深い赤色に染めて横たわるレヴィアの身体。
埃臭いだけであった部屋には真新しい鮮血の臭いが満ちている。
見開きっぱなしの眼は精々良く出来た作り物の様で、皮膚は生気を失い蒼白に変わっていた。口や鼻からも内臓から逆流してきた血が溢れている。時折思い出した様に身体を痙攣させているのが、レヴィアが未だ生きていると言う唯一の証明だろうか。

「成る程……致命的な損傷を被った際、緊急的な措置として脳と脊髄を守る為に身体機能を全てシャットダウン──つまり仮死状態へ移行し身体構造を保つ、とはね。あの学者さんもよく創っているものです……まぁそうでなければ人柱として耐えられませんか。人が創ったにしては、良く出来た〝お人形〟ですね」

派手に出血してこそいるが、それはリオの剣が深く斬り裂いた際に瞬間的に溢れ出たもので以降は出血してはいない。両断していないとは言え、本来なら中身の臓物を撒き散らすほど開かれたのだ。にも関わらずそれも無いのは、洸晰によって裂かれた傷を繋ぐように自己補完している為か。
但し致命傷の緊急的な補完はすれど、けして回復している訳ではない。少なくとも、以後この少女が再び動き出す事は恐らく無い。
後は境界の人柱として放り込んでしまえば、これは立派に役割を果たす事だろう。つい先程まであれだけ生きたい生きたいだのと喚いていた割りには、何とも呆気ない話だ。

「擬きは擬き……所詮は都合良く使われるだけの道具……。ならばそれらしく、正しく使われるのが貴女が得るに相応しい幸福なんですよ。不運にも貴女は周囲の偽善者に惑わされ、甘いまやかしに取り憑かれてしまった。同情しますよ。夢を視過ぎましたね」

リオはおもむろにレヴィアの傍らに跪き、開きっぱなしの瞼を閉じさせる。語り掛けた所でその耳に届いてもいないだろうが、リオは続けた。

「光使いさん。私は貴女が大嫌いです。無力で有りながら、子供の様にひたすら理想に追い縋る愚かしい貴女が。それはもう疎ましいほどにね。貴女は私ととてもよく似ているんですよ。故に、ひどく哀れだ。
辛いでしょう、叶わない夢を視せられて、舞台の指揮者に面白おかしく踊らされて最期には使い捨てです」

「ですが」とリオは必要無くなった皮ベルトを切り拘束を解く。

「もうそれも終わりです。何に心を乱される事も、傷付けられる事も砕かれる事も無い。痛みとも悲しみとも無縁な安らかで平穏な世が訪れます。それが、貴女でも得ることが許される唯一の救いです」

移動をさせる為に片腕を持って引き摺ろうとしたが、ぬるついた血のせいで腕はリオの手から抜けてばたりと床へ落ちる。面倒だと言わんばかりに一つ溜め息を吐き出すと、手首より上、橈骨と尺骨の間へ引っ掛ける様に刀の刃を突き通す。
レヴィアの腕がまたびくりと跳ねるが、ただそれだけ。引き摺られた跡には赤絨毯の様な道が残って行く。

「さて〝鍵〟はどちらが持ってきてくれるのやら……まぁ、どちらであろうと関係は有りませんがね」

——————

——聖都・工場区画。

部下との通信を終え、暫しユーリックは煙管を吹かせつつ無傷の方の脚を軸に回転椅子を所在無く揺らしていた。右足は段々と、負傷している膝より下の感覚が麻痺し始めていた。
現時刻は午前三時十一分。
彼自身、先程部下から言い付けられた様に一刻も早く軍本部へ戻るべきかと考えてはいた。だが、仮に単身でしかもこの移動も儘ならない手負いの状態で魔物が溢れる外へ繰り出そうと言うならそれは余りにも無謀である。自ら命を投げ捨てるも同然だ。
状況を打開しようにも、策を講じれる程の手札が此方には無い。
閉め切った扉の向こう側からは魔物の不快な唸り声が、段々とはっきり聞こえる様になって来ている。やがてその気配は、扉一枚隔てた向こう側まで迫っていた。
金属製の扉は激しく叩かれ、滑らかだった表面も波打つ様に凹凸が浮かび上がっていた。気怠く其方を見遣ると、溜め息を吐く。どうやら時間的にも体力的にも余り猶予は残されてはいないらしい。

「やれやれ……もう少しゆっくりさせて貰いたかったものだが……」

ユーリックは気怠く、疲労感たっぷりに呟くと、壁に立て掛けていた関節剣に手を伸ばす。悠長に椅子に腰掛けたままではあるが、いつでも抜剣出来る様に柄と鞘に手を掛けて構える。
やがて耳を劈く破砕音と共に、蝶番ごと分厚い扉がぶち抜かれる。
耳障りな声で吼える濁り色の醜い姿は正しく魔物であるが、取って付けた様な双眸は黄金ではなくこれまた汚ならしい赤色が灯っていた。赤目の魔物は初めて見たが、連中はすべからく彼方側からやって来るもの、ともするとこれは境界と繋がった影響であろうか。だが、排すべき敵であると言う事に些かも変わりは無い。
ユーリックは尚も脚を組んで腰掛けた椅子から離れる事無く、二m近い体躯は有るだろうか。管理室に踏み込んで来た魔物と対峙する。

「喧しいな。その小煩い口を閉じ給えよ、愚か者が。ボクは騒々しいのが何より嫌いでね」

躯に対して縦に裂け、人間の胴など容易く食い千切れるであろう大口をがばりと開いて覆い被さる様に魔物は突進してくる。ユーリックは抜剣と共に鎖状に伸びる関節剣を前方ではなく背後へと全力で振るった。
目視は無いが、硝子が砕け散る音で命中したと判断する。咄嗟に目を伏せると、脚で床を蹴って椅子のキャスターを勢い良く転がす。魔物から逃れる事を優先し、余り見当を付けずに思い切り椅子を転がした為、強かに壁に背をぶつける事になったが、この程度は誤差の許容範囲内だろう。頭から喰われるよりは万倍ましだ。
壁にぶつけて痛む腰を押さえつつ、回転椅子の背凭れを支えにして立ち上がる。先程までユーリックが居た場所はピンポイントに光線の様な光が射し込まれていた。
入射角、照射範囲等計算ずくで破られた遮光硝子から漏れ出しているのは洸晰炉からの強烈な光である。魔物にとっては高圧電磁砲に等しいこの光線の中で、形を保っていられるはずも無い。
だが、その予想が外れた事にユーリックは表情を歪ませる。

「ッ……馬鹿な、冗談も程々にし給え……!」

この凶悪な光の中から魔物がまたしても襲い掛かって来たのだ。多少の足元のふらつきを見る限り、弱らせる事は出来た様だが当てが外れた事に変わり無い。

「徹頭徹尾忌々しい存在だ、魔物と言うのは……!」

咄嗟に剣を振るい頭を打つが、刃で顔面を削ぎ取られようと僅かも怯みはしない。そして躱そうにもこの踏ん張りの利かない脚では躱しきれはしないだろう。ならば、と相討ち同然に元の形に戻った剣を魔物の脳天目掛けて、鍔に引っ掛かるまで突き込むと引抜きざまに後へと退く。
流石に一瞬動きは止まり鈍りもしたが、頭から酸化色の血を止めどなく垂れ流しながらも未々動けるとばかりに魔物は再び迫る。傷口は確実に頭を貫通しているにも関わらず。

「っこれは……弱った。頭を完全に吹っ飛ばさなければ駄目か……」

生憎とこの剣にそこまでの破壊力を発揮出来る様な仕掛けは施してはいない。一体あと何回刺せば倒れるのだろうか。ユーリックは苦虫を噛み潰した様な顔で更に二歩、三歩と役立たずの片脚を引摺りながら後退する。
しかし元々此処は狭い部屋、直ぐに先程背をぶつけた壁に行き着いてしまう。
しまった、と思うより早く魔物の手が伸びる。そのまま握り潰さん限りにユーリックの肩を掴むと、先程よりもおおよそ十倍あろうかと言う勢いで壁に叩き付けた。

「──ッぐぅ!」

けたたましい音の中でも不思議と自らの肩がごきり、と嫌な音を鳴らすのははっきりと聞こえた。息が閊えて呼吸も儘ならない。折れたか外れたか、など見当を付ける余裕もあろうはずも無い。
それでも、逃れなければ。眩む頭で考える。
爪らしき物ががっちりと肩の肉迄食い込んでしまっている為、容易く外れはしないだろうならば腕から断ち斬ろうと剣を握り直しかける。しかしそれは叶わず更にもう一度、同等の力で壁に叩き付けられた。
全身の骨や関節が一斉に悲鳴をあげているかの様な痛みに襲われる。
感覚を失い、力の入らなくなった手から剣が滑り落ちる。それは酷く虚しく、乾いた音をたてた。

(成る程、ここで終わるか……。独り魔物に食われて死ぬとは何とも惨めな……いや。何ともボクに似合いな最期じゃあないか)

全身を灼き炙られ、その上電流を流されている様な痛みの中でも、思いのほか思考だけは自嘲出来るほど冷然を保ち、冴えていた。
顔を上げれば、真ん中を酷く削がれた口を大きく開いた魔物の顔が、直ぐに眼前に有った。その醜悪な姿に、ああやはり見ない方が良かったか、と少しばかり後悔して再び眼を伏せた。
その時、鼓膜を突き抜ける様な〝銃声〟が数度、狭い部屋に響く。
同時に、絞り出された様な魔物の苦悶の声が洩れ聞こえたかと思うと、びちゃびちゃと水音をたてて生暖かい物が頭から降り注いだ。

「な、に……?」

力が抜け、床に沈みゆく魔物の体重に引き摺られる様にユーリックもまたずるずると座り込む。どうやら魔物はまるで風船が弾ける様に頭が潰れ、絶命したらしい。視界も霞み、酷い痛みが全身を襲っている中では実感として曖昧だが、どうやら命拾いをしたのか。
絶命しても未だしぶとく肩に食い込んだままの爪を抜き、引き剥がして鬱陶しく適当に投げ遣る。浅かった呼吸が若干整うのに従ってユーリックは顔を上げ、銃声の主の姿を認めた。

「……イングレンス……少佐か、何故君がこんな所に……どうかしたかね」

「──総監!」

壁に凭れて半身を起こしているのもやっとではあった。だが、珍しく焦りを露にしたカルミラの様子にユーリックは口の端から零れ出た血を袖で拭うと、わざとらしくも何の事は無い風を薄い笑みで装う。
カルミラは銃を下ろすと、早足で歩み寄る。床に横たわる魔物の死骸を邪魔だとばかりに蹴って退かすとユーリックの前に跪いた。

「お看せ下さい。携帯用のセットしか持ち合わせが有りませんが、応急手当をしなければ」

「なに、ほとんど……返り血、だよ。大した事は……無い」

携行装備を探るカルミラを制しながら、浴びた血で汚れてしまった片眼鏡を外して拭おうとしたところで、片腕が動かせない事に気付く。幸い折れはしていないが、やはり肩が外れてしまっていたらしい。無理矢理動かそうとすれば、途端に電流を流された様な鋭い痛みが走る。
ユーリックは決まり悪そうに首筋を掻くと「済まない、嵌めてくれ」と仕方無くカルミラに頼んだ。
カルミラは躊躇いなく頷き「失礼」と一言断ると、肩を掴んで動かない様に固定する。そして、ゆっくりと力を強めつつ思い切り腕を引き始める。普通なら悲鳴をあげていてもおかしく無い激痛だが、僅かな呻き声を洩らす程度で堪えている。
そのまま捩じり込む様にゆっくり上方へ上げてゆくとまたも先程と同じく、肩からごきりと言う音が鳴った。どうやら、上手く嵌まってくれたらしい。
声を出すまいと肺に溜めていた空気を疲労感と共に一気に吐き出し、荒い深呼吸を繰り返した。

「如何ですか」

「……ッ、上出来、だ」

未だ酷い痛みが余韻の様に纏わり付いてはいるが、試しに多少動かしてみても特に動きには問題は無さそうだ。今度こそ片眼鏡のレンズを拭きながらカルミラに改めて問う。

「……それで?何故、君が…こんな所に居る? 君は君の負うべき職務が有るはずだろう」

幾ら何でもこのカルミラの登場は余りにも都合が良過ぎるのではないか。そもそも彼は普通の一兵士として魔物を処理する為、本来ならば現場指揮に当たらなければならないはずである。しかも佐官クラス。この様に人気の無い場所へ出張っている場合では無い。
カルミラは応える代わりに、傍らに置いていた自身の得物である銃を持ち上げて示した。それはいつも使用している長銃に剣先を取り付けた物ではなく、二つバレルが並んだショットガンであった。
あの長銃に比べれば貫通性能や射程距離は劣るが、衝撃・破砕力が勝るのが利点である。先程魔物の頭を吹き飛ばしたのもこれのお陰なのだろう。長銃の方は恐らく背に負ったライフルケースの中に入っているのか。

「ハル技術大佐から俺の端末に連絡がありまして、総監の身柄の安全確保をと。それと共にこの連装銃と装甲軽車輌を一台預かった次第です」

カルミラは淀み無く事の経緯を説明する。
彼の言う『ハル技術大佐』とは、先刻ユーリックが連絡を取っていた部下のハルタミアの事である。あれは自分と違って比較的気易い性格をしている為、昔からカルミラに自らを略称で呼ばせているのだ。

「成程……全く、あの世話焼きめ……」

この非常時に一体何を優先してくれているのか、とユーリックは頭痛でも催した気分で思わず額を押さえ天井を仰ぐ。本来、階級名が上だろうが技術士官に武官──よもや佐官クラスの者を動かせる権限など一切持ち得はしないのだ。カルミラとて立場を負うものならばその責務は重々に理解しているはず。だと言うのに律儀にそれを遂行するとは。
説教でもしたい気分であったが、よもやそんな体力が有るはずも無かった。そして当のカルミラはこれこそ我が務めと言わんばかりに手を休める事無く応急手当を進めていた。
そして処置が粗方終わった頃、ふとカルミラが自ら口を開く。

「……総監、外の様子は御覧になられましたか」

「ん? いや、此処からではあの監視カメラの映す限りでしか見ていないが……やはりもう……」

カルミラの言わんとする事をおおよそ察したユーリックは顔を上げ、彼に向き直る。青年は強く頷きつつ、応えた。

「ええ、今空に在るのは赤月です。〝夜〟が、始まりました」

先程の凶暴化した魔物の様子からも鑑みるに、境界との隔たりが失われたと推察して間違いは無いだろうとは思っていたが、カルミラの言葉でそれは確定事項となる。

「そう、か……。とうとう、繋がったか……。情け無い。もっと早く対処出来ていれば聖都もこんな事には……いや、今更言った所で詮無い事か……。
……それで? 少佐、君はやはり往くのかね。帰路さえ判らぬ〝彼方《あちら》側〟へ」

カルミラは俯き気味に視線を彷徨わせたが、改めて居住まいを正すと「往く前に、こうして御挨拶が出来て良かった」と厳かに頭を下げた。
余りにも愚直なまでの真摯な態度にそうか、とユーリックはようやく察する。何故彼が己が任を放棄してまで此処に来たのかを。

「全く……要らん義理を払うものだ。ボクなど、ただ此方の都合で君を使い捨てる為だけに創った制作者に過ぎない。本来ならば礼を弁える筋合いさえも無いと言うのに」

カルミラから己に対してこの様な言葉が出るなど思っても見なかったユーリックは、何と滑稽な事かと思わず自嘲の笑みを洩らす。

「しかし、総監が創り思考を与えて下さったからこそ、今の俺は在る。それを蔑ろにするなど……不義理極まりない」

この〝九番目〟のカルミラはあわよくばレヴィアの代わりに人柱として利用される可能性の有った素体であった。それ故、此方には従順である様に教育を施してはきたものの、自己意志が無ければ境界の制御が出来ない為に洗脳までは施せない。
本来ならば、真っ向から歯向かわれた所で何ら不思議ではないのだ。ともすれば、背後から突然刺されたとして相応の扱いをカルミラにはしてきたつもりだ。制作者とは言え、自分の様な柵《しがらみ》に拘る筋合いこそ無いものなのだ。
だが、それでも彼はかつての〝ただ一度の反抗〟以外、此方に反目した事は一切無い。その証拠に、こうして今正に此方に頭を垂れている。
元々高慢な気性で不遜な態度が常であり、能力が己よりも低いと見なした者には上官であっても例外無く下瞰する様なこの男がだ。何とも解せず、奇妙なものである。

「君ら光使いなど……元々使い捨ての命だ。誰の意志でどの様に使い捨てられようとも、迎える結末に変わり様があろうものか」

ユーリックの皮肉な物言いにカルミラは動じる事無く再び顔を上げる。

「そうして、与えて下さった可能性すらも俺は蔑ろにしました」

だが、ユーリックは最早とうに諦めているとばかりに眼を伏せると、顔を逸らした。

「君がその選択をした以上は……尚更何者にも変えられまいよ」

「……」

二人の間に暫し重苦しい沈黙が流れる。
やがて、カルミラは「表の車輌をお使い下さい」と小さく呟くと、静かに立ち上がりゆっくりと踵を返す。此方に背を向けたカルミラを見遣るとふいに、少し俯き気味のその背が何故か幼い頃の彼を思い出させた。
然して優しく接してやった覚えなど無いが、自分が仕事に没頭していたり相手にもせず酷く冷たくあしらうとこうして知らず知らずの内に静かに離れて行くのだ。そしてまた間を置いて戻ってくるのが常であった。
かつては。
軍人として立派に成長したかと思えば、こう言う所は存外変わっていないのかと思わず苦笑が漏れる。

「……そうだね、〝カルミラ〟。君は元よりそう言う子だった。これと決めたら他の可能性など見向きもしない。例えそれが我々の都合良く作り上げた偽りの使命であっても、疑い無く、愚直に、懸命に追っていた。今も尚、だ」

「総監……」

思いがけず昔の呼ばれ方をされ、カルミラは驚いた様に紫眼を見開く。

「何かね。往くなら早く往き給えよ、愚か者。他者に作り上げられた偽りばかりの脆い生にしがみつく故も無いならば、そのまま未練無く捨ててしまうが良い。……そして、次はもう少しマシな生まれ方をし給え。ボクの知らぬ所、縁など二度と結えぬ様な届かぬ場所で」

餞別として手向けるにはあんまりな言葉であるが、カルミラとてユーリックがこの様な物言いしかしないのは良く解っていた。カルミラは再び此方に向き直ると、毅然と胸を張った。

「総監、貴方が俺に与えた給うた意志はけして偽りなどではない!このカルミラ・イングレンスが光使いとして生きた証として、誇って掲げるに値するものです。例えこの身が如何な宿命と相対しようと、それは手折れぬ事無く遺りましょう。
……貴方の元で創られた事、俺は感謝しています」

「……それはどうも」

皮肉っぽく笑みを浮かべつつも飽くまで素っ気のない返事だが、それでも満足げにカルミラもまた口元には笑みを浮かべていた。

「それでは総監、もう行かなければ。……どうかいつまでも、ご健勝で」

 

カルミラが部屋を立ち去ってから間も無く。微かにエンジンの駆動音が聞こえ、遠ざかっていった。ユーリックは剣を杖にして何とか立ち上がり、移動を始める。
先刻レイシェントと争った倉庫はシャッターが開けられ、赤銅色の月明かりが射し込んでいる。そこにはカルミラの言った通り、装甲車輌が停められていた。だが、周囲に眼を凝らせど青年の姿は何処にも見当たらなかった。有るのは魔物の気配くらいなものだ。
先程のエンジン音は、恐らくカルミラのもの。もう行ってしまったのか。
知らず知らずの内に溜め息と、呟く声が口から洩れていた。

「何故ボクの周りには愚か者ばかりが集まる……。そして決まって皆先へ行ってしまう、誰一人として残っておいてはくれない……。ふふ……真の愚か者は、誰なのやら……」

呟く間に魔物がまたも現れ始める。つくづく魔物と言うのは度し難く、忌々しい存在であるのだろうか。軽く歯噛みしつつも装甲車輌に乗り込んだ。
キーを回してエンジンだけ掛けると何もせずに腕を組んで暫し待つ。この怪我で運転するのは厳しいというのもあるが、あの部下がこれを寄越したと言う事は〝ただの装甲車輌〟であるはずが無いのだ。

『……。……、き……ますか……あー、聞こえますかー?』

間も無く、ラジオを利用した無線からノイズ交じりの部下の声が聴こえて来た。

『ハルです。聞こえていたら応答願います』

「回線良好、聞こえている」とユーリックは簡潔に応える。

『総監、小佐とはお会い出来ましたか? ──あ、シートベルトして下さいね』

「……あぁ、もう行ったようだがね。全く君は……必ず何か余計な事をしてくれるな」

無線越しに話しつつ、車がひとりでに動き出す。ユーリックにとってはやはりと言ったところだが、この車には遠隔操作機能が付けられていた。装甲車は群がりつつあった魔物を振り切り、工業区画を走り抜けて行く。

『でも総監? 私が余計な事をしなければ、総監はまた悔やんで気を病まれる事になったでしょうね。もう少し……それこそ少佐の様に素直になったら如何です? 良い歳してツンデレはどうかと思いますよ』

「は? ……?」

『偏屈だと申し上げてるんです』

「ああ……それこそ大いに余計な事だ。あれはあれ自身で決めたこと、どうなろうとボクが気を病む様な筋合いは無いと思うがね?」

『……だと良いんですが、ねぇ』

ややあってユーリックは「だが」と不意に逆接を呟く。

「……あれが気の済む永訣が出来たのなら……まぁ、良いのではないだろうかね」

疎まれて然るこの身である。手向けなど何一つくれてはやらなかった。だがそれでも、最後に見たカルミラの顔は確かに晴れていた。
あれは人が膿ませた業によって創られた身である。
救済など端から望むべくもないが、暁光が往く路を照らす事を願うくらいは。
せめて許して貰いたいものだ。