
一体どれほどの時間、地に伏したままでいたろうか。もしかすると、意識を失っていたのかも知れない。数時間経った気もすれば、数分も隔てていない気もする。消耗しきった体力の中で得られる感覚では、全てが曖昧であった。
「何が待ってる、だ……。勝手な事言いやがって……、コッチは場所も……判らねぇ、ってのに……」
レヴィアと消え去ったリオの言葉をそのまま真と取るならば、二人は境界へと向かったのだろう。だが、この現世と境界は隣り合っているとは言え擦れた位相。空間に存在している。境界内での記憶を少なからず有しているとは言え、肝心の移動手段までは己の知るところではなかった。
「……クッソ……ッ!」
沸き上がる苛立ちに任せ、力一杯に地を殴り付ける。
肝心な所でいつも届かない。煮えるばかりで向かう宛の無い憤りと悔しさに、ゼクティスは奥歯を噛み締めた。
兎に角、このまま落ちた虫の様に伏していてもどうしようもない。斬られた傷が痛もうが、立って歩みを進めなければ。肘を立てた所で、掌の下敷きになっていたピンク色の布地が視界に入った。
「……ん? ……あァしまった」
強く握り締め過ぎてしまった為に血が染み、砂埃に塗れてすっかり薄汚れたリボンの存在を今ようやく思い出した。
改めて見れば、このリボンは汚してしまった物の代わりにとアドミラで自分が買い与えた物だったかと気付く。その場しのぎのつもりで渡したものだったのだが、未だ使っているとは思わなかった。汚すなと渡した本人が汚してしまったとは、笑い話にもなりはしない。
逡巡するも、そのまま上着のポケットに突っ込んだ。
「……ったく、つくづく面倒な約束をさせられちまったもんだな……」
滑稽なものだと自嘲し、唇の端が上がる。
確証など何も無い。道筋すら立てられず、先の見えないこの状況。だが、こうして目に見える形で残されると案外何とかなりそうな気がしてしまっていた。
たかが布切れ一枚を持ち主に返す、ほんの些細な約束だ。この程度の約束、果たせなければ一生の嗤い者ではないか。
全うする為にも、先ずは立ち上がらなければ。
傍らに落ちていたRequiemを支えに痛みを堪えながら立ち上がる。顔を上げた所で、いつから居たのか。その視線の先にに現れていた存在にようやく気付いた。
「……そうか。その様子では、レヴィアは行ってしまった様だな」
「……カルミラ……⁉︎」
瞠目し、思わず名を呼んでいた。
灯りの乏しい夜闇の中だが、辛うじて伺えた淡青色の髪色に肩に携えた剣銃。そして聖都軍属を示す濃紺の佐官軍服。そこに在ったのは紛れも無くカルミラの姿であった。唐突な登場に驚きこそすれ、ゼクティスは直ぐに眉を寄せて彼を睨み据える。
「何、悠長な事を……!どうせてめぇも、レヴィアが来てんのは端ッから知ってたんだろ? 今更呑気に現れやがって、何しに来やがった!」
「……」
ゼクティスは憤りに任せ、早足に歩み寄るとカルミラの胸ぐらを掴み上げる。彼はそれに対し僅かに不愉快に表情を曇らせたのみで、何も応えない。
「てめぇが何考えてようと知ったこっちゃあ無ぇが……仮にもあいつの兄貴なんだろ? 何も思うところは無ぇのかよ」
「……」
「それとも、やっぱてめぇもあいつは人柱として使われるのが当然って思ってるクチか?」
「……」
「おい、聞いて……」
カルミラは何も応えず、暫し冷ややかにゼクティスを見詰めていた。やがて呆れ混じりの溜め息を吐き出す。ようやく開いた口から出た言葉はひどく凍え、声は低く潰されていた。
「甚だ迷惑な話だ。己の力量が及ばなかったが故の苛立ちを、俺にぶつけるな。——仮に俺が助力してやっていたとして、あれの命運は変わっていたとでも? 責めるとしてもお門違いにも程が有る。見苦しいな、ヴィルヘルム」
「な——! ……ンだとッ……‼︎」
カルミラは嫌悪感を露にゼクティスの手を荒く払い退けると、乱れた軍服の襟とネクタイを几帳面に正した。ゼクティスは舌打ちし、食って掛からんばかりに一層鋭く睨み付ける。
「……あいつは、あんたの事を心配してた。もう一度ちゃんと話したいって」
だがカルミラは冷めた一瞥を寄越し「そうか」と一言。素っ気なくと返すに留まる。
噴出するものをありたけ込めて一発でも殴ってやりたい所だったが、失血と傷の痛みで身体がままならず。表情を歪め、膝に手をついて項垂れた。
「は……そうかよ。所詮は凝り固まった軍思想に…染まりきった少佐様だ、ってか……。肉親の情を問うだけ端ッから無駄だったってとこか」
ゼクティスは息を乱しながら、この男の澄まし顔に軽蔑だけでも贈ってやろうと鼻で嗤って揶揄をくれてやった。
「……相変わらず不愉快しか生まん男だな、貴様は……!」
薄氷の仮面がひび割れる。カルミラは感情を露に忌々しく歯噛みし、項垂れた姿勢のゼクティスを見下げた。
「……ああ、その通り。俺の思想の大半を支配するのは光使いとして生まれた使命感であり、それ以外のものなど二の次三の次。それに勝るものは何を於いても有り得ない。……光使いとして如何に在るべきか。与えられ、俺自身が創り上げた思想に欠落などない」
「はぁ成る程? ご高尚なこって……」
カルミラは「だが」と此方に背を向け、逆接を以て尚も言葉を続けた。
「あれはその思想を創り上げられる前に一旦軍の手より離れた。身体の作りは成功だろうが、不必要に人間性に富んだ惰弱な精神面は……完全なる失敗作だ」
「失敗作……だと?」
低く抑えたゼクティスの訝しむ声音などまるで意に介さず、カルミラは「ああ」と頷く。
「生まれ出でた時からの使命たる人柱となることも恐れ、それどころか戦略兵器並みの力を持ちながら、小魔物一匹にすら無様に恐怖する……。見下げるほどに何の役にも立ちはしない失敗作だ」
そして此方を再び振り返った顔はいつもの毅然としたものではなく、その紫瞳には僅かな翳りを帯びていた。
「そうなる様に、俺は〝敢えて〟仕向けた。使命に殉ずべきとの思想が植え付けられるより前に、事故に見せ掛けあれを軍の手から放ってやった。……十一年前の事だ」
「……は?」
ゼクティスは一瞬意味が判らずに眼を剥いたが、やがて開いたままの口から力無く乾いた笑いが洩れだした。
「面倒な性格してやがんな。てっきり、情なんざただの一つも持ち合わせて無いもんかと思ってたが……あんたらホントに兄妹かよ……」
剣の柄頭に手を組んで顎を乗せ、ゼクティスは気怠く寄り掛かる。
「血の繋がりは無い。そして、勘違いをされても困る」
カルミラはくるりと踵を返し、此方の視線から逃れる様に背を向ける。
「正直なところ、貴様の言う肉親の情と言うものは俺には理解が出来ない。光使いとしての使命感も、俺の中では確固たるもの。
……俺がかつて、意志有るものとして生を受けたが故の尊厳をあれに委ねようと考えた事は……この顔の傷が残る限りは否定し難い事実……ではある」
「あぁもう、回りくどい言い方しやがって……。少なくともあんた等が本気で似てねぇ兄妹だってのはよっく解った」
血縁関係ではないとはいえ、仮にも兄妹であると言うのに。この男はレヴィアの様な素直さは欠片も持ち合わせていないらしい。ゼクティスは呆れ半分、至極面倒臭そうに数度頷いた。
背を向けたままの為、彼の表情は窺えないが心中を探る様にカルミラを鋭く見遣る。
「……で、今はどうなんだ? 役目《ロール》に従順な兵士のままか?」
カルミラは是非を答えるでも無く「さぁ? どうだろうな」と曖昧にはぐらかした。
「……おい、コッチはそろそろこうやって立って話してんのも限界なんだ。頼むから回りくどい物言いをするんじゃ無ぇよ」
「そうだな、貴様を運ぶなどなれば最悪だ。あぁ最悪だ。平に御免被りたい」とカルミラは心底嫌そうに首を振り、怖気を露に振り返る。
「このタイミングで俺の前にわざわざ出て来たって事は……あんたも何かしら思うところが有るんだろ?」
「悪いが、貴様が期待出来る様な意図は無いと思って貰おうか。……来訪者の手にあれが渡り、人柱に成り果てたとして……それは想定の範囲内。とうに見えていた結果だ」
冷然とした態度に戻ってしまったカルミラにゼクティスはまたも苦く表情をしかめる。この男から僅かに見え隠れする本意が引き出せずに焦れるばかりだ。
「それよりも不都合なのは、その後の事だ」
「……その後?」
カルミラは「あぁ」と短く頷き、続ける。
「No.0の事だ。言っていたろうが、大方あの来訪者はこの世界の形は維持する気は有っても人間の存在は残す気は無い。あれは相当に人間が疎ましいらしい」
カルミラの言う『来訪者』とはリオの事だろうか。平素から彼女は取り繕った丁寧口調ではある。だが先刻、それがことごとく崩れるほどに憎悪を露にし、人への疎ましさを語っていた。
この世で安穏と生きている人間が憎くて憎くて仕方が無い、と。
「最悪なのは来訪者が人柱の交換と共にNo.0を奪還し、黄泉の穢れを引き連れ世に放たれる事だ。それだけは何としても阻止せねばならん」
そこまで聞けば、ゼクティスの回転の鈍った頭でも容易に察しはついた。
「成る程……じゃあ、少なくともあんたらの目的と俺の目的の半分は同じな訳か」
だが納得した様なゼクティスの言葉に、カルミラは渋く眉をひそめる。
「『半分は』……だと? 貴様、この期に及んで未だあれを〝助けよう〟などと思っているのか」
語調は変わり無く厳格。だが、自然と口から溢れ出たであろう言葉の奥に浮かぶ真意。ようやく確信を得たゼクティスは、言質取ったりと口角を上げた。不遜に「言ったな」とカルミラを揶揄と共に嗤ってみせる。
「何だかんだと言ってやがったが、人柱になるのを良くは思って無ぇんだな。でなけりゃ『助ける』なんて言葉は出るはずが無ぇ」
「……解っているのか。変えなければ世界が死ぬぞ」
此方に重く苦しく圧を掛ける、低く抑えたカルミラの声。だが、ゼクティスは尚も自嘲気味に苦笑する。
「……正直なとこ、俺からしてみればそんなの知るか、だ。世界がどうのこうのと尺のでかい事言われたってピンと来るわけ無ぇだろ。人の手に収まらねぇものを天秤に掛けて、あれこれ悩む時間を無駄に費やすくらいなら、俺は目先に見える後悔の種を拾い上げる方を選ぶ」
「……」
カルミラは腕を組み、黙している。ややあって「成る程」と呆れ混じりの溜め息を一つ吐いた。
「了見の狭い愚か者である貴様らしい答えだな、ヴィルヘルム」
「……いい加減あんたの嫌味も聞き慣れてきた……」
ゼクティスは耳が疲れたとばかりに、やれやれと嘆息する。
渋面を張り付けていたカルミラは不意に唇の端を上げると「その答え、否定はしない」と言った。
「けど、賛同もしやしねぇんだろ……どうせ」
「ふん、無論だ。……だが、貴様程の愚か者ならば或いは……面白い結果を生む可能性が有ると言うのも……」
「あ? 何の話だ?」
しかしカルミラそれには応えず、「此方の話だ」と適当にはぐらかすのみ。再び踵を返し歩き出す。此方が待てと止めるより早く、首だけ振り返って言葉を投げた。
「境界への途を求めるならば俺に着いてくると良い。……貴様の仲間も居る」
「……ソレが本題か。ああ良いぜ、上等だ。……端ッからそう言えよ。……ったく」
ぼやきながらもゼクティスは大剣を引き摺りながら歩き始めた。
此方のの体力は限界に近かったが、お互い手を貸すのも借りるのも御免だとばかりに黙々と歩を進めた。半ば、意地の張り合いであった。聖都内に溢れた魔物が次々襲っては来たが、カルミラが片付けていったお陰でゼクティスが相手をする事も置き去りにされる事も無かったのは幸いだろうか。時折此方を振り返っては『役立たずめ』と貶む視線を注がれはしたが。
やがてどう進んでいったのかもよく判らないまま、二人は執政府前まで無事に辿り着いていた。
——————
「——おい、ゼクト。まさか死んじゃあいないだろうな?」
一瞬意識が落ちていたらしい。髪を掴まれて荒く頭を揺さぶられ、ゼクティスははっと我に返る。
冷たい床に座り込んだ格好の此方の顔を、エリザベートは品無くしゃがみ込んで覗き込んでいた。思わず肝が縮み上がるほど恐ろしい剣幕、眼光。だがゼクティスには、最早まともに反応する気力すらも残ってはいなかった。
「……ソレがあんたの怪我人に対する扱いかよ」
「あ? それがしくじった者の態度か? ミリア殿の手前、拳一発で済んだだけ寛大だと思って欲しいが?」
「……」
まるで返す言葉も無く、ただ押し黙る。
ゼクティスはようやくエリザベート達のグループと合流する事が出来たが、此方もノクサスの負傷にレイシェントが行方不明と状況は思わしく無いらしい。そんな中でレヴィアが浚われたなどと報告すれば──その後の結果は、想像に難くないだろう。
エリザベートの性分を鑑みれば、一発殴られただけで済んだのは幸いと言って良いだろう。しかし今日だけで何度顔を殴られ蹴られただろうか。そろそろ顔が歪んできてもおかしく無いのではなどとつまらない戯言が頭に浮かぶ。
「あっはっは、便利屋君。男が上がったな」
声の方向をちらと見遣ると、カーライルが椅子に腰掛け頬杖をついて眺めていた。リオに斬られた腹には白い包帯が巻かれており、黒いカッターシャツの上から軍服の上着を羽織っている。
(……あんたが言うか)
まるで他人事の様に笑う男を恨めしく睨み付けると、彼はわざとらしく逃げるように眼を逸らした。
エリザベートのこの怒りは恐らく己自身に対してのものも含まれるのだろう。もしかすると彼女にとってレヴィアは理性の箍の様な存在であったのだろうか。それなりに理解していたつもりではあったが、想像以上に幼馴染へ精神的に依存していたらしい。
実際ゼクティスに手を出したのは彼女が先程言った通り拳一発だが、その後の言葉による責めは一向に収まる気配が無い。
しかしゼクティスの手当てもしてやらなければ。そろそろ誰か助け船を出してやらなければ話が進まない。とは言え、荒れた状態のエリザベートには、例え誰であっても近寄り難い。
カーライルはこの場の面々──ジェノブロウやノクサスは別としてカルミラ、シージス、クルシュケイト、イルミリア──と一周見渡し、最後にソラージュと眼が合った。
これで一応双子である。此方へ向く視線の意図を察せない筈もなく、直感的にまずい展開を予感したがやはりその通り。ソラージュは早足で此方に歩み寄ると、顎でエリザベートを指し、小声で呟く。
「……一番の適任だ、早く収めて来い」
「いや兄貴、本気で言ってんのか? どっちかってぇとソレならミリア君の方じゃあ……」
冷や汗を浮かべ、引き攣った笑いに口を歪めるカーライルだが、ソラージュは「ずべこべ言うな」と反論と嫌味を含めて突っ撥ねる。
「女性の扱いは慣れているのだろう」
「彼女を並みの女性扱い出来る奴が居るんなら、見てみたいもんだ……」
いっそ開き直って流石と賞賛すべきか。自分に対してのこの容赦無い扱いなど、今に始まった事では無いが。
「ったくよぉ……いてて、はいはい了解。」
首筋を掻きつつ、カーライルは溜め息と共に傷を押さえて立ち上がる。エリザベートに歩み寄ると、軽く彼女の肩を叩いた。
「ほらエリザ君、もうその辺にしてやんな。便利屋君が参っちまってる。君も知ってるだろ? あの化物が相手だったんだ、こればっかはどうしようも無かった。解るだろ?」
エリザベートはゼクティスからようやく手を離し、此方を振り返る。
「……私にとってあの子の、レヴィアの価値がどんなものであるかなど……貴方には解りますまい」
上辺の礼を欠いてこそいないが、応える声は低く潰れている。振り返った双眸は鈍く光る刃の様な、向けられれば例外無く悍ましさを催す眼だ。だが、カーライルは然して動じる事も無く「そんなの、当たり前だろ」と苦笑を浮かべた。
「……まぁでも、あのお嬢さんの為に形振り構わず軍を飛び出して行っちまうくらいだ。ある程度は、察しちゃいるさ」
「……」
「昔、言ってたもんな。こっち《聖都》に呼び寄せたい娘が居るって」
心の内に秘めていたつもりであったが、ただ一度だけ人に溢した事もあったか。あれは確か、功を急いで最前線へ踊り出た戦場でのこと。この男、よく憶えているものだ。
エリザベートは変わらず険しい顔で奥歯を噛み締め、ただ口を噤んでいた。カーライルはやれやれとばかりに首を振って嘆息する。
「過ぎた事を悔やんで気持ちが捕らわれるなんて、君らしく無ぇな。俺の知ってるエリザ君なら直ぐ次に目を向ける。それに——」
「……それに?」
エリザベートの眉間に人差し指を向けると片目を瞑り、歯を覗かせて笑って見せた。
「そんな険しい皺作ってちゃあ、折角の美人が台無しだぜ? ファンが泣いちまう。勿論、俺込みで」
「は?」と眼を丸めたエリザベートから思わず間の抜けた声が漏れる。口にしてこそいないが、その冷めた眼は「何を訳の判らない事を言っているのか」と如実に語っていた。
彼女は俯いて重そうな額を押さえると、ややあって長い長い溜め息を吐いた。再び面を上げたエリザベートの口元には、皮肉っぽく笑みが浮かんでいた。
「……有難う御座います、お陰で頭が冷えました」
「……うーん、俺的にはも少し可愛らしく照れるリアクションが……。ま、エリザ君らしいか」
カーライルは首を掻きつつ、再び立ち上がった。ゼクティスを見遣ると、イルミリアが早速手当てに掛かっていたところであった。
「さってと……義姉さん、便利屋君はどんな具合だい?」
傷の数こそ多かったが、ほとんどが浅いものばかりで出血は止まっていた。今は一番深い背と胸の傷を看ている様だ。背の傷は抉られているせいで中の肉まで見えてしまっている。痛々しい様だが流石軍医と言うべきか、彼女は僅かも狼狽える様子は無い。
「これは……うぅーん……うん、そうですわね。この場で縫ってしまいましょうか」
イルミリアは顎に指を添えて唸っていたが、事も無げに呟いて一つ頷く。拡げた医療鞄を探り、簡易的にだが身支度を整えた。
軍医と言うだけあって、外傷の治療など彼女にとっては手慣れたもの。あれよ言う間に個包を破って取り出した注射器を小瓶に射し、中の液薬品を吸わせて準備を進めてゆく。
いや待て、何を気易く言ってくれてるのか。ゼクティスは「えっ」と強張った声を洩らし、慌てて振り返る。
「いっ……⁉︎」
それと同時に、ちくりとした痛みと皮下に染み広がるような冷たい感覚。振り返った先でイルミリアと眼が合い、彼女は眼を丸めるが直ぐに「あら」とたおやかににっこり微笑む。
「心配しなくとも、私がやるからには直ぐ終わりますし痕も残りませんわ。十分もすれば麻酔が効いてきますけれど……お急ぎの様ですし、効くのを待つ間に終わってしまいますから先にやってしまいましょうか!」
「……は? いや、ソレ……麻酔の意味全く無ぇんじゃあ……」
訳が判らず狼狽するゼクティスにイルミリアは青鈍の眼を尖らせ嗜める。
「もう、男の子でしょう? 頑張って我慢なさいな」
「ゼクト、麻酔があるだけ厚待遇も良いとこだと思え。それにミリア殿の縫合技術は天下一品、戦場の只中でも破れた頸動脈を繋げられる腕前だ。何を心配する事がある?」
「いや、んな問題じゃ……」と二人に反論し掛けたが、エリザベートの口に微かに見えた嗤いに最早その気も消え失せてしまった。
結局ゼクティスは、麻痺し始めていた痛みを再び呼び起こされ、激痛に神経を磨り減らされながら成すがままにされるより他無かった。確か彼女の技術に偽り無く、イルミリアの処置は早かったものの、苦痛の時間と言うのはかくも長いものなのかと彼は身を以って理解させられたのだった。
「ッ……! おいクソガ……シージス! いい加減退きやがれ……!」
「あ、もう終わったんですか?」
シージスは寝技で身体の下に絞め固めていたゼクティスの声に気付き、技を解く。気管をぎりぎりの加減で絞められて居た為、圧迫から開放されると喉元を押さえて咳き込んだ。
「お前……途中マジで落としに掛かったろ……」
「ゼクトさんってばやだなぁ! そんな訳無いじゃないですか!」
縫合の間、下手に動かれては手元が狂うと動きを押さえられていたのだ。
ゼクティスとしては屈辱的且つ大変不本意ではあったが、仲間内なら気易いだろうとシージス自らこの役を買って出たのだった。体格差が有るとはいえ、抵抗が無いのならば動きを固めるなど容易いもの。
気分は憔悴しきっていたものの、ようやくゼクティスは床に臥せられていた身を起こす。包帯が巻かれた上から黒の上着を羽織るが、僅かに顔をしかめた。すっかり鉄臭さに塗れた服だが仕方無い。
「ふふ、よく頑張りましたわね。もう痛くも無いでしょう?」
「はぁ……まぁ」
麻酔も今頃になって効いてきたらしく、先程までの酷い痛みは僅かも無い。また以前の無痛の身体の状態に戻ったような錯覚。
イルミリアはといえば、満足気にマスクと血の付いた手袋を外しながらにこにこと笑みを浮かべている。複雑な心持ちだが、治療をして貰った事には変わり無いのだ。取り敢えずは一言、礼を告げておいた。
そして機を計ったかの様にカルミラが此方へ早足に近付き「終わった様だな」と声を掛ける。
「早速だが、奥の部屋へ来い。〝話〟の続きだ」
『話』とは、大方先程カルミラ本人が口にした境界への途《みち》の事だろうか。ゼクティスは「あぁ」と一言短く返事を返すとカルミラの背を追った。
指示された部屋——会議室の一つらしい——に入ると、先程の面子にノクサスと白い礼服の男が加わって皆揃っていた。
己の居ぬ間にほぼ視力を失ったらしいノクサスの両眼は、包帯を巻かれ塞がれていた。
一斉に集まる視線に居心地の悪さを感じ、何処へともなく目線を逃がす。白装束の男──ジェノブロウもまた、此方の姿を認めてか。薄く笑みを湛え、感慨に浸るかの様ゼクティスの姿を見詰めて目を細める。
直感的にこの男からは通常人とは一線を画す、底知れないものを感じていた。
「やぁ、君がゼクティス君か。話はそれとなく皆から聞いているよ。……そうか、君が」
しかしゼクティスが応えを返すより先に、ノクサスが格好だけだがジェノブロウを見上げると怪訝な色で言葉を挟んだ。
「ジェノ。しつこい様だけど、さっきの話は本当なのかい? ……疑っている訳じゃあないが、信じるにしてもその……やっぱり突飛過ぎるものでね……」
「運命と言うものは得てして数奇なものだよ。必然の元に巡り合って此処に帰着したに過ぎない。そして、君が結んだものでもある」
「しかしねぇ……」
ノクサスが溜め息混じりに此方に顔を向ける。巻かれた包帯越しでも、此方を案ずる様子は見て取れた。自分だけ話について行けてない状況にゼクティスは顔をしかめ、堪らず声をあげた。
「おい、さっきから……何の話だ?」
「あ、あぁごめんね。実は……」
ノクサスが何事か言い掛けるが、彼の肩を軽く叩いて「私が。全て把握している者の方が伝え易いだろう」とジェノブロウが遮る。
「少佐から予め聞いていたろうけれど、境界への途《みち》の事だよ」
「ああ、着いてくれば判るってだけ言われたけどな。コッチとアッチでずれた空間を生身で行き来する方法でも持ってたりするのかと、安易な想像してたが……」
ゼクティスは腕を組みつつ頷く。一呼吸の間を置いて「そうか」とジェノブロウは呟いた。
「実を言うと、彼方側へ行く方法に関しては然したる問題ではない。干渉が必要になった時に定められた場所から繋がる様になっているのだよ。そこを通れば良い。
しかし、一番の問題は彼方側へ留まれる者が極端に限られていると言うことだ。……普通の人間では、穢れきった気に満ちた境界の中に1時間の間も留まれはしない」
「……何だと?じゃあレヴィアは……!」
「安心したまえ。来訪者もその辺りは織り込み済みだろう。光使いが失われれば、No.0を解放すると言う彼女の目的は達せられないはずだからね」
ゼクティスは表情を曇らせ、呻く様に声を洩らす。だが、ジェノブロウは構わず真っ直ぐに此方を青の眼で見据えると、一切の躊躇い無く敢然に続けた。
「彼方側へ行けるのは、境界に満ちた瘴気への耐性が有る者。つまり世界の秩序の現管理者である私か、その〝写し〟である君か。この二人に一人だ」
ゼクティスはまるでジェノブロウの言った言葉の意味が解らず、中途半端に口を開いたまま茫然とした顔であった。ややあって我に返ったのか、眉間を押さえると「ちょっと待ってくれ」と制する様に掌を向ける。
「どういう意味だソレ……。いや、大方俺じゃなくともあんたが何を言っているのか解らねぇと思うけどよ……。面倒な言い回しは勘弁してくれ。『写し』ってのは…どういう比喩だ?」
だが、ジェノブロウは変わらずの涼やかな顔で「比喩も何も、そのままの意味だよ」と言ってのける。
「結論から端的に言おう、君は私の体組成情報をその侭焼き込まれた……謂わば複製の様な存在だ」
即座にゼクティスは狼狽しつつも「いやいや」と、小馬鹿にさえしているかの様に首を振る。
「噛み砕いて言われたからって、んな突拍子も無い話をはいそうですかと飲み込める訳が無ぇだろってんだ。俺が、あんたの? 何を根拠に……」
「それは……」
「あぁ諸公方、取り込み中失礼するよ」
ジェノブロウが口を開きかけた所で、突然部屋の扉がノックも無しに開かれたかと思うと壮年の男が早足で入ってくる。黒軍服を纏ったその男は、そのまま真っ直ぐジェノブロウの前に立つと、恭しく頭を垂れた。
「何分此方も大変な混乱状態だったもので、上手く出るにも出れず……勿体無くも陛下の玉命たる御呼びに遅参するとは、全く面目次第も御座いません」
男は顔を上げると、痩せた顔に表面的な笑みを浮かべた。
「ユーリック・エイレンフェレス、ただいま此処に参上致しました。さて、と……。陛下の御前にして僭越だが、後の詳しい説明はボクにやらせて頂こうかな」
聞き覚えのある声にゼクティスは反射的にぎくりと身を強張らせる。もしや、といつかの記憶が掘り返えされた。
いやに耳に焼き付いているこの声。これは、聖都軍基地に初めて侵入した際に聞いたものでは無かっただろうか。だとしたら、互いに刃を向き合わせた間柄。非常に顔を会わせ辛い人物である。が、あの暗闇の中で顔を認識されていたとは考え難い。
咄嗟に眼を彼方へ逸らすも、此方を振り返った黒軍服の男──ユーリックは、ゼクティスの姿を認めると「ああ君は……。いつぞやは、どうも」と右手を擦りながら不穏に底冷えのする笑みを浮かべた。やはり、とうにこの男にも此方の身元はばれていたらしい。
ユーリックはこの場に居る面子を改めて一周見回すと、やれやれと一つ息を吐く。
「……それにしても、何と言うか……この世の一大事にこうも見知った顔が揃うとは、奇縁にも程がある」
「世界を巡る物語とは得てしてそう言うものだ、エイレンフェレス技術総監。無理を承知の召令だったが……応じてくれた事、感謝する」
礼を告げるジェノブロウに「いやはや、光栄の極みですな」とユーリックは苦笑混じりに首を振る。
そして此方へと踵を返して向き直ると「暫しの長話にお付き合い頂きたい」と前置きして今日《こんにち》までの光使い開発に関わる経緯を語り始めた。
「ボクはかつて境界の崩壊に伴う今回の人柱の交換へ向け、ここ聖都より少々離れた辺境の地で光使いの研究開発の任を負っていてね……。まぁ、既に御存知の方も居られる事だろうが」
本来ならばこれは秘匿事項であるが、この状況でそんな事は最早然したる問題では無くなっていた。ユーリックは二十四年程前から進められた光使い開発の経緯から語り始めた。
光使いというのは当初、稀代の天才生物学者との評価を受けていたイレイン・リグレット博士が、軍の技術開発局に残した未完成の原論文のアイデアを足掛かりとして洸晰を己の手足の如く操れる存在の制作を目指した所から始まる。
この世の形有るもの、万物の基礎となる洸晰を操作出来たならば、その存在を要としてすげ替える事も出来るのでは無いかと。
「けれども、如何に天才と呼ばれたリグレット博士のアイデアであってもその未完成の理論は推考実験もされていない……それこそただの思い付きのメモ書きの様なもの。それを頼るにも、打破すべき課題が山と積まれて目の前に立ちはだかった」
それでもこれは、この世界の根幹を保つ為に〝如何なるもの〟を犠牲にしようとも代え難い使命である。無論、倫理道徳観などの真っ当な思想は真っ先に屠られた。否、麻痺してしまったと言った方が正しいだろうか。
数多の実験を繰返し、相応の命の犠牲を積み重ね、地道に一つ一つ課題を攻略し尽くした果て。その末に、漸く状態の安定したカルミラが完成する。
だが、そこまでが限界だった。本来ならば。
「……残念ながら、ようやくこぎ着けた先であるこのイングレンス少佐でさえも境界を支えるほど大質量の洸晰を制御するには至らなかった。最早我々は完全に御手上げ状態、一旦光使いの開発はそこでストップしてしまったのだよ」
その間が、カルミラとレヴィアの間に生まれた空白の六年間。
ゼクティスはちらとカルミラを見遣るが、彼自身にとってはとうに承知の事実らしい。詳らかにされたとて『それがどうした』とばかりに鉄面皮の様な無表情を張り付けたまま。僅かも狼狽える様子は無く、微動だにしない。
「……はて、展望の無いまま二年も経った頃だろうか。突然ボクの前にと〝ある人物〟が現れてね。全て見越しているかの様に、此方に一つの提案と交換条件を出してきた。
『私のちょっとしたお手伝いをして貰えれば、貴方の困り事を万事解決してあげますが』……なんて、まるで魔法使いの様に超然と、そして気易くね。それが後に我らを騒がすかの〝竜騎士〟だなどと……誰が思ったろうか」
「『竜騎士』だと……? 先生、いや……リオ、の事か」
呻く様に呟くゼクティスに、ユーリックは「左様」と頷く。
先刻のリオの言葉、『良く出来た貴方を壊すのは惜しいこと……』などとあたかも制作者であるかの様な口振りからも察するに、彼女が己の出自に関わっていたのは紛れも無い事実なのか。
「普通ならば何を世迷い言と追い払う所だろうが……まぁ、藁にも縋ると言う奴か。此方も逼迫していた。何せ完全なる光使いこそが世界を支える要の役割を担うのだからね、頑として果たさなければならない使命だ」
ユーリックは静かに一呼吸を置いて続ける。
「……あれは、言葉通り此方に完全なる光使い精製の打開案を寄越したとも。人体が洸晰にとって足枷になると。
代わりに験体と培養槽を一つ貰い受けると言って隔離部屋を作り、一年程閉じ籠っていたかと思うとその験体といつの間にか姿を眩ましていた。……その当時は一切の干渉をしないと言う了解の上だったから中で何をやっているのやらと訝しむばかりだったが……」
ユーリックは当時を邂逅してか、呆れた様に一度溜め息を吐き出すと、続けた。
「恐らくわざとだろうね。あれが使ったであろうデータファイルが残されていたもので、検証に掛けたが……それはそれは心底驚いた。……どうやって手に入れたか判らんが、陛下の体組成情報が丸々入っていたのだよ。
それを験体にトレースダウンでもしていたんだろうか……詳しくは判らないが」
「は……まさかその験体が俺だとでも? 証拠は?」
リオが話題に登った事には驚いたが、その事実と己とを結び付ける物が無いではないかと指摘する。だが、ユーリックは直ぐに応えるでもなく軍服のポケットを探ると、程無くして掌サイズのプラスチックケースを此方に差し出した。
ケースには鍵金具が付いており、簡単には開かない様になっている様だ。
それを見た瞬間まさか、と表情が強張る。その透明なケースの中には、ゼクティスにとっては馴染み深い〝蒼い結晶体〟が入っていたのだ。
光の加減関係無く、一定の色を保たず、鼓動を刻む様に内部の濃淡を揺らがせる蒼色は通常の結晶体では有り得ない現象。個体として凝固した結晶体が光の照射角問わず色合いに変化を見せるはずが無いのだ。
「これもまた一緒に残されていたものだよ。君ならば見た事があるだろう? いや、よぉく知り得ているはずだ」
「……〝蒼、洸〟……」
自分でも気付かぬ内に呟いていた。骨とは違った固い感触を持つ左手の甲を押さえる。そしてそれは、ユーリックの問いへの肯定の意でもあった。
「陛下からこれを武器として持つ者が居ると心当たりを問われた時には驚く反面、ボクは直ぐにピンと来た。 まぁ……まさか〝あんな風〟に合間見えるとは思わんかったがねぇ……。君の残した血痕から遺伝子情報を頂けて照合が取れて確証が得られたのは幸いだったか」
そこで顎に手を添え、じっと話を聞いていたカーライルが何やら思うことが有ったのか「陛下」とジェノブロウに声を掛ける。
「御自ら技術局に問い合わせておいて秘密になさってるだなんていけずな……。俺が便利屋君の蒼を気にしていたの御存知だったではないですか」
「あぁ……済まない。しかし君達軍部と技術局はどうにも……余り友好的では無いだろう。互いに角が立たないようにと思えば、言い出しも出来なかった」
ジェノブロウは苦笑しつつ詫びる。
「成る程……。全く、陛下の御深慮には痛み入るばかりですよ。俺ら使いっ走りの仕事を取らんで下さい」
「以後、善処しよう」
おもむろにユーリックは右手の手袋を外した。ケースの鍵を回して蓋を開けると、素手で蒼い結晶に掌を翳す。
約一㎝程度、結晶に触れるか触れないかの距離まで手を近付けると突然蒼い雷光が弾け、手を包む様に迸った。ほんの微かにだが、ゴムが焼ける様な匂いが漂う。
「──ッ……!」
ユーリックは顔をしかめて咄嗟に翳した手を退けると、再びケースの蓋を閉じた。そして、微かに煙を纏う右手を持ち上げて見せた。
先程まで無傷であったはずの手は所々が火傷の様に所々皮膚が焼け、所によっては血が滲んでいた。
「……ま、ご覧の通り、これは生体に流れる僅かな電気信号に反応してか生身で触れようとすれば身体に傷を付ける。こんな風に、絶縁体の容れ物に入れてやれば多少は安全だが……制御されていない状態の蒼洸には、通常ならば触れる事すら出来んと言う訳だよ」
「しかし」とジェノブロウがユーリックの横に歩み寄ると蒼洸結晶入りのケースを貰い受ける。そして先程のユーリックと同様に手袋を外したかと思うと、素手の状態で躊躇い無く結晶体を持って見せた。
今度は先程とは打って変わって光など僅かも出ず、何も変化は起きない。結晶は大人しくその手に収まっている。まるで手品でも見ている気分だった。
「私の様に、〝耐性を持つ身〟であれば……君の様に武器として備える事も可能だろう」
「……」
ここまで証明を呈されては、最早否定のし様も無かった。
だがそうなると、リオの思惑の不明瞭さが浮き彫りとなり次から次へ何故、と新たに疑問が浮かんで来る。そして虚構に塗れた自分自身と言う存在のへ疑心も。
──しかし、見失ってはならない、今はそれを論ずる時ではないのだ。
臓腑の奥底から込み上げる気分の悪さに苛まれながらも、ゼクティスはいつの間にか俯いていた顔を上げる。
「……ご丁寧な、解説を……どうも。要するに、俺とあんたは少々人と作りが違うって事、か」
ともすれば、光使いとして創られた事実を知ったレヴィアもまた、今の自分と似た様な気持ちだったのだろうか。ポケットに手を突っ込む振りをして、中に入れたままのリボンを握り締める。今更ながら、『ゼクトはゼクトです』と少女からの肯定の言葉が脳裏に回顧する。針の筵に覆われ、支柱を無くして揺らぐ心を優しく宥められるかの様だ。
思いのほかゼクティスが冷静さを欠いていない様子に、感情を御せているらしいと感心しつつジェノブロウは「そんな所だ」と頷いた。
「瘴気とは、蒼洸の気化状態だ。普通の人間がそれに満たされた空間に入れば、体組織を破壊されてしまう。呼吸で体内に入れば内側からも忽ち灼かれてしまうからね。あらゆる生命を拒絶する、故の〝干渉不可領域〟だ」
「ならば」と場を同じくして話を聞いていたエリザベートは悔しく唇を噛み締め、握り拳を震わせる。
自分では境界に立ち入る事すら敵わない、こうしている今直ぐにでも動きたいのにレヴィアを迎えに行く事すら出来ないのか。何と、何と歯痒い事だろうか。
「そう、つまり境界への途は我々にのみ拓かれる」
おもむろにジェノブロウはゼクティスへ、誘う様に右手を差し出す。対してゼクティスは意味が汲めず怪訝に眉をひそめた。
「……何のつもりだ?」
「例え私が境界に入れる身であったとしても、仮に戦いとなればライルやソラにも劣る力量だ。私と共に来て欲しい。それに——君にとってもこれは好都合なお誘いだと思うがね?」
不敵な笑みを向けるジェノブロウの提案を安易に呑むなど出来るものか。しかし、入口まではどうやらこの男に導いて貰わなくてはならないらしい。拒否する事は出来ず、ただ上手く使われていると言うこの状況の忌々しさ。
ゼクティスは一層不快な顔で睨みを返す。
「……最終的な目的は真反対に違うってのに、随分と余裕かました事言ってくれんな。それなら、仮に俺がいつ裏切ったとしてもあんたに恨まれる筋合いは無ぇって事だよな?」
念押す様にジェノブロウを睨み据えるが、やはり彼は然して気にも留めず「無論だ」と春風の様に穏やかに頷く。
それとは対照的に、今まで黙していたソラージュがジェノブロウの隣に歩み出たかと思うと、静かに口を開いた。まるで心臓を掴み、竦み上がらんばかりの雰囲気を纏いながら。
「心配せずとも、もし陛下の御身に万が一の事態が有った場合は死など容易く越える痛苦を以て我々が報いるのみ。真っ先に疑われる様な滅多な事は口にしない方が賢明だぞ、青年」
「……」
この牽制合戦、何と厄介な事かと心中密かに辟易する。だが、見え透いたリスクを負うだけの覚悟は有るとは、それだけ他に変わる手立てが無いと言う証拠であろう。
この先どう転ぶか、最早誰の目にも視えては居ないらしい。
「……判った、一先ずはあんたについて行く。悠長に手段を選んでる場合じゃねぇのはコッチも同じだ。後は〝臨機応変に〟判断させて貰うからな」
「あぁ、それで構わないよ」
取り敢えずの結論が出た所で、突然ゼクティスの肩ががしりと掴まれ、そのまま握力に従い後方へと引かれ連れて行かれる。何事かと振り返ると、その手の正体はエリザベートであった。
「何だよイキナリ……」
「ゼクト、解ってると思うが上手くやれよ。相手が皇帝だろうが関係無い。手ぶらでおめおめ帰って来ようものなら……言わずとも知れてると思うがな」
肩を掴む手とは反対の方に目を遣れば案の定、脚のガンホルスターに手が掛かっているではないか。思わず辟易の息を吐く。一体、何重に命を懸けさせられているのだろうか。こうなると、世界の命運云々より余程重荷である。
「あァ解ってる、勿論死ぬ気で何とかする気だ。……ソッチもソッチでレイの事は任せたからな。放っといて見殺したとあっちゃ要らねぇ怨みを買いそうだ。大体の場所はもう判ってんだろ?」
「そうだな、無理矢理巻き込んだ手前、勝手に死なれようものなら私も後味が悪い。単独になりそうだが、直ぐ現場に向かおうかと思っているところだ」
簡潔に言葉を交わして互いに頷き合うと、エリザベートはゼクティスと立ち代わる様に前へ進み出た。
「この非常時に申し訳無いが、身勝手ついでにもう一つお許しを請う。消息が途絶えている仲間の安否確認に向かわせて頂きたいのですが」
「君一人でか?多少は落ち着いたとはいえ、外は未だ魔物が多く湧いているのだぞ」
「しかし、此処を固める人員を割くわけにもいきますまい」
エリザベートの申し出にソラージュが眉を潜めて注意を促すも、彼女は首を横に振る。
「そりゃエリザ君の前じゃあ並みの魔物は敵にもならねぇだろうけど、なぁ……。俺が動ければお供したいとこだが、戦線を張ってくれてる自分の部下を放っとく訳にもいかねぇし」
更にこの後各々の持ち場へ目的地へと解散する事になれば手負いのカーライルは兎も角、少なくともソラージュ、カルミラは軍部隊の指揮へ赴かなければならないだろうしイルミリアも軍医として救護の現場へ向かうだろう。
今や盲目に等しいノクサスの元にはクルシュケイトとシージスのみとなり、やはり外すことは出来ない。ましてレイシェントは彼らにとっては要人と言う訳でも無く、彼の為に協力を求められる義理など持ち得ないのだ。エリザベートの言う事は至極真っ当である。
その時、「失礼」と右手を掲げてレイシェントの一件の経緯を把握していないユーリックが声を上げた。
「そのお仲間と言うのは、教団の衛士の方かね?」
「あぁいや、奴もまた縁有って私達と共に導師の元へ集った者で……レイ……レイシェント・ロアコートと言う名の男です」
「『レイシェント・ロアコート』……? ……!」
途端、ユーリックの表情が強張ったものに変わる。
レイシェントの名を反芻し、眼を伏せたかと思うと「まさか、いや……そんな」と抑えた口元から呟きが洩れる。今の今まで、己の所業を語る最中でも一貫して諦観した様子であったにも関わらずこの態度は随分な変わり様である。
訝しむエリザベートが「如何されましたか」と訊ねるもそれには応えず、ややあって静かに顔を上げた。一瞬露になった動揺もそれまでで、ユーリックの様子は既にいつもの沈着なものに戻っていた。
「ふむ……少しばかり興味が湧いたよ。その者に会えるものなら会ってみたい。前線から退いて久しいが……君の無駄弾を減らすように多少の露払い程度ならボクにも出来よう。済まないが、君に同行させて頂くよ」
「え……いやしかし、私とていざと言う時総監の身を確と御守りできるかどうか……」
余りに意外な申し出に躊躇い答えに難色を示して鈍らせるが、ユーリックは「なに、ボクの身など案じずとも構わんよ」と引く気は微塵もなさそうである。
「ボクにその銃口を向けさえしなければそれで良い。何かあっても君に責を問うつもりは無いから安心し給えよ」
「はぁ……了解致しました」
一体この唐突なやる気は何なのだろうか。訳が判らず、取り敢えずエリザベートは曖昧に返事を返す。
「安否確認……と言うことは重篤である可能性も有る訳かね。……ふむ、それは宜しくない。直ぐに向かうとしよう」
洸晰精製炉はこの聖都内で十基存在する。無論、執政府付近の精製炉に居る可能性が高いのだろう。しかし各々が三㎞間隔で存在している為、一ヶ所でも空振ればかなりの無駄足を踏む事になる。ならばこれ以上時間も無駄には出来ないと、早々に二人はノクサスが姿を感知したと言う洸晰精製炉へ向かう事にした。
部屋を出る間際、ユーリックはカルミラに何事か言付けをしている様だったが、内容までは把握出来なかった。
そして後に残った面々もまた、各々が向かうべき場所へと解散したのであった。
——————
既に日付が変わり、魔物の襲来から五時間以上は経過していた。
エリザベートらは洸晰炉の途中までは兵士を配備する為のトラックに同乗し、ニ㎞手前の地点で降りることに。中将と元少将を乗せたトラック内は、戦地に赴くのとはまた別の緊張感が満たしていた。此方を案じる下士官や兵たちに『自らの使命を賭す様に』と告げ、彼らを見送った。
聖都に来て初めて施設外へと出た訳であるが、一歩外へ出ればそこは正に魔物の巣窟と成り果ててしまっていた。聖都軍の兵士を始め、武器を取って戦える者は何処からか止めどなく溢れ返る魔物の群衆の対応に当たっていた。
エリザベートもまた、道行きに魔物が横行しようものなら急所を確実に狙って即座に撃ち抜いた。着弾箇所は弾け、身は千切れ飛ぶ。
先の魔物の襲来で消耗していたSofiaの弾丸も、専用弾丸のストックが未だ軍の武器庫に都合良く保管されていたらしく十二分に補充する事が出来た。
因みにこの専用弾丸。大きさ自体は一般的なハンドガン用だが、弾頭は魔物に有用な洸晰を引き付け易い金塗膜の白金製。しかも通常の弾丸には無い炸裂性を持たせたせいで非常に生産コストが嵩むと言う理由から、エリザベートのSofiaのみの使用が認められていると言う巫山戯た代物である。
魔物の物か、それとも人間の物か。灰白色の舗装タイルや建物の外壁は今や黒ずんだ赤色が至る所派手にぶちまけられ、汚ならしく斑に染まっていた。往来の真ん中には息の無い魔物の黒い死骸が雑多に転がり、血臭を振り撒いている。じきにこの死骸が消えてしまえばこの血生臭さも無くなるだろうが、如何せん数が多過ぎる。死骸が山を成し始めている場所もあった。
兎も角、一番近い洸晰炉へ続く通りを進みつつ周囲を見回すが、幸いにして今のところ負傷者や死傷者の放置は見られない。ノクサスが観測した魔物の分布の情報が行き渡っているのか。確認する暇などは無いが、人員の配置不備は避けられて居る様だ。
それにしてもこの呼吸さえも憚られる濃い血臭、戦いに荒れた街並み。此処は最早〝聖なる都〟の一区画などでは無くただの戦場と変わり果てていた。こんなに色濃い臭いを吸ったのはいつ振りだろうか。
「これは……酷いな」
エリザベートは半ば無意識にそう呟いていた。その呟きに応える様に、背後からユーリックが冷淡に声を掛けた。
「いいや、こんなものは未だ序の口ですらない。〝境界が崩れる〟とはこう言う事だよ。今こそこの聖都だけに状況が止まってるが、もし本当に無くなってしまったならば……この万倍の物量で延々轟々と。我々の住処は魔物などと言う訳の判らない物に食い潰される。
哀れに、惨めに、一片の慈悲無く滅ぼされる。
『酷い』か……今更だよ。その程度の事、想像出来ないはずは無かったろう?」
「……何を仰有りたいので?」
エリザベートは僅かに首を回し、黒軍服男を肩越しに振り返る。茶金の前髪の隙間から僅かに伺える眼は、静かに滾る反骨の色を帯びている。
「そんな恐ろしい眼で見ないでくれ給えよ、竦み上がってしまう」とユーリックは僅かに苦笑を浮かべた。
「君達があの光使いを『助ける』と言ってあくせくするのは大いに結構。まるで人間の様に意志を持ち、生きて動く者に情を抱き感化されて動くのは有って然るべき人間性だ。君が人間である限り、何を以てしても否定する事は出来ない」
「だがね」と一呼吸置いて悠長に煙管を取り出し吹かす間も、ユーリックの表情は何処ぞの試験官の様にほんの僅かも変わりはしない。その眼も此方を捉えてはいるだろうが見えて要るのかも疑わしい虚ろ、凪の水面のように一片の揺らぎも有りはしない冷淡さだ。
「その意志の遂行によって起こり得る可能性のある弊害など、一切合切想定しては居なかった……とは言わせないよ」
エリザベートは一瞬虚を突かれた様に眼を見開いたが、ややあって「ああ、そう言うことですか」と口の端を笑みの形に歪めた。
「失敬、私としたことが口を滑らせた様で。語弊です」
「ほう?」
エリザベートは「一つ、例え話をしましょう」と先ず言い置いた。
「私は昔から〝勇者〟と言うものが好きでしてね。そう、英雄譚などに出てくるヒーローです。きれいな言葉を振り翳しては人心を否応なしに惹き付け、扇動し、己の持つ独善の良心と正義を疫病の如く蔓延させる。対して否定する者は敵とみなしてことごとくに否定し、淘汰し引き裂いて叩き潰す。そして、偽善と欺瞞を貫き通した勇者に待つ結末は……必ず〝幸せになる〟。
──素晴らしい。何て、素晴らしい。憧れて然るとは思いませんか。私はそう言う〝モノ〟に成りたいのですよ。己の正義を敬虔に信じ抜く素晴らしき勇者に」
ユーリックはそこでようやく表情を笑みに変え、如何にも愉快そうに肩を揺らし喉を鳴らすと「あぁ……成程?」と頷いた。
「君達こそが正義の心を振りかざした傲慢な勇者で、それに反する我々は健気にもそれに敢然と立ち向かう悪役と言う訳かね。これは愉快だ、確かに理に適っている。そうだね、勇者は改心などしない。それが理とでも言わんばかりに、端から善であると肯定されている」
ユーリックは可笑しくて仕方がないと言った風に「あんまりにあんまりな理屈の暴力だ。これでは、君が正義だと言えば全てが正義になってしまう。とからから嗤う。
「そうさせないよう悪役は精々足掻いて下されば宜しい。でなければ物語は始まらない。回らない、終わらない」
エリザベートは一呼吸置くと、剣呑に据わった眼光を幾分穏やかなものに戻す。
「それに、私は信じている。如何な危機に晒されようと人は必ず生き残る。幾ら数を減らされようとも、人は意志を持ち意志を受け継ぎ前へと進めること出来る。個単位で意志の継承が出来る特別な種であるからこそ、今日までしぶとくこの世に蔓延って来た。魔物などと言う訳の判らないモノに、喰らい尽くせるはずが無い」
「……今日《こんにち》の我々人間の台頭こそがその証明、と言う訳かね。全く……見上げた傲岸さだ」
「それでいてこそ〝勇者〟です」
楽観視をしている訳ではない。ただ純粋に、理想の結末を信じているのだと。尊大不遜に言ってのけたエリザベートに、お手上げだとばかりにユーリックは呆れた笑顔で首を振った。
「解った解ったよく解った。納得したよ、させられたとも。そもそも〝普遍的な良心〟など存在しないものだ。すまないね、野暮を訊いたよ」
「まぁ、尤も……その役割は私の嵌まり役では無かった様で。譲らされましたがね」
肩を竦めて自嘲気味にぼやきつつ、エリザベートは再び洸晰炉の方角へと踵を返して早足に進み始める。ユーリックもまた、今の間に吸い終えた煙管を懐に仕舞うと後に倣った。
洸晰精製炉──工業区域の周囲は人工の森に囲まれている。そこを抜け、検門を潜れば遠くに見えていた煙突状の建物の輪郭がはっきりと描かれる距離にまでようやく辿り着く。
本来ならば此処も警備兵が常駐しているはずなのだが出払っているのか、姿が見えない。ロックは掛かったままであったが、ユーリックの持つIDカードの認証で容易く解除された。管轄は違えど、流石は技術総監と言ったところか。大抵のセキュリティはユーリックの権限の元にはフリーも同然である様だ。
やはり此処に至るまで、聖都に溢れた魔物の度重なる強襲に幾度と無く足を止める羽目になってしまった。此処が外れならば相当のタイムロスである。
工業区域に足を踏み入れ、辺りを見渡す。
一番目立つの一際背の高い洸晰精製炉であるが、精密機械の中身をひっくり返した様な鉄骨剥き出しの建物が密集し、青白い照明が深夜でも煌々と灯され夜闇に浮かび上がる様はまるで光を放つ鋼鉄の森。異世界の如き光景。しかし異様なのは、その独特な建造群が成す光景に留まらなかった。
「表にも人が居ないとは思ったが……中にも誰も居ないとは……」
あの『酷い』戦場と化した都市内を抜けて来た後では、この静けさは余りに異質であった。
あれだけ溢れ返っていた魔物の姿はここには陰も無く、あの魔物特有の寒気を催す唸り声さえも聞こえない。代わりに耳に届くのは、昼夜問わず稼働する機械群の重金属が擦れる重厚な駆動音や蒸気を吐き出す音だ。
兎も角、内部を調べなければ。建物内部へ向かうより他無いと、更に足を進めようとした時であった。正に目的地である精製炉へ続く建物の入り口から、何かが飛び出してくる。
夜闇のせいで判別が付きにくいが、どうやら普通の人間の様である。
紺の制服らしき衣服から察するに、此処を巡回する警備兵の一人であろう。怪我でもしているのか。片足を引き摺り、肩を押さえて尚も必死の形相で駆けていた。
此方からも速足で近付いて行く。
「おい、どうした。此処の警備の担当の者だろう、何があった!」
「あひ……ひィッ!」
男は突然現れた人間に驚き、引き攣った声を洩らす。気が動転しているのだろうか、恐怖に染まった顔で再びやって来た方へと後退りかける。
此方は危害を加える気はないと訴えると、ようやく落ち着いた様だ。そのまま力無くその場に座り込んだ。
脚を引摺りながら走る姿を見てであろう、ユーリックが「怪我かね、看せ給え」と警備兵の前に跪く。色は違えどもユーリックの纏う将官クラスの軍服を見て、男は一瞬たじろいた様子ではあったが、構わず怪我の具合を看始めた。
至る所に怪我をしてはいるものの、いずれも致命傷に至るような物では無さそうか。
「何故此処だけこんなに静かなんだ。その怪我は何だ? 他には誰も居ないのか」
「こ……此処に居た整備士や他の職員は本部からの避難警報を受けて直ぐに避難に移りましたから……恐らくは大丈夫かと思いますが……。自分は避難が遅れたもので、その後の事は、どうにも」
「遅れた? 何故?」
問えば、男は此処の警備の責任者と話した。故に彼は最後まで自身の持ち場に残り、警備室の方で残っている者は居ないかと、最終確認を行っていたのだそうだ。
「監視カメラを確認していたところで洸晰精製炉の点検用通用口に人影が映っていました。見た目からして職員では無さそうでしたし……怪しいとは思いましたが、放って置く訳にもいきませんでしたから、見に行って……」
そこまで聞いてエリザベートはそれだと鋭く察する。
「もしかするとそれは〝赤毛の男〟ではなかったか? 長身の」
警備兵の男は「よく、お分かりで……」と驚きに眼を丸める。
「知り合いでな……その男は今何処に居る? 私達はその男を探しに来たんだ」
更にエリザベートが問いを重ねると、男は「知り合い⁉︎」と裏返るほど頓狂な声を上げた。
「まさか、あんな〝化物〟と知り合いだとでも? じょっ……冗談でしょう⁉︎
……何故かは判りませんが、既に満身創痍の血塗れでわ酷い怪我を負っていたもので。でも息は確りしていましたから、運び出そうと肩を貸したところで急に辺りを赤黒い影に取り囲まれ……。そしてあれは! 突然暴れだして自分を階段に突き落としたのです! きっ気付いたらこの通り……至るところ切り裂かれていて……痛たたた!」
男は先程の恐慌状態を再発させ、頭を抱えて身を縮こませるとがたがたと震えだす。
ユーリックは本人の動揺などお構い無く、負傷した彼の脚に即席で作ったギプス代わりの添え木を確と巻き付けてやった。応急処置の間、話にも耳を傾けていたものの何処か他人事の様な様子で納得している様子であった。
「あぁ成る程。それでその怪我と打撲傷に脚の骨折……。しかし、どれも命に別状は無いね。悪運の強い……よく殺されなかったものだ」
「今思い出しても恐ろしい……! あれ、あれは最早人間の眼じゃあなかった! 生き物みたいに蠢く赤黒い影を纏った中で浮かび上がっていたあの金色の眼……魔物か、いやもっと別の何か、悪魔か化物か……!」
「……」
エリザベートは男のただならぬ様子に面食らう。彼を見下ろしたまま、顎に手を添えてじっと何事か考え込んでいる様子である。
「……どうかしたかね、エンデュランス君。何か思うところでも?」
だがエリザベートは「いや」と口には出さすに首を振る。これから待っているであろう状況を想像したところで、最悪な絵面しか描けない。何れにせよレイシェントの元へ向かわなければならないと言う選択肢は変わらないのだ。口に出したところで無意味だろう。
気休め程度だが最後に鎮痛剤を射ち、応急手当も終わったらしい。エリザベートは早々に此処を立ち去るようにと警備兵に告げた。
──しかしこれから奥に進むにあたり、確認くらいはしておいた方が良いだろうか。エリザベートは顔を上げると、ユーリックに再び向き直る。
「総監。聞いての通り中にはどうやら化物紛いのものが潜んでいる様ですが……やはり、来られますか?」
「何を言うかね今更、此処まで来ておいて引き返せと言うのも年寄りには酷なものだ」
「はーん……左様、ですか……」
自身を年寄りだと卑下する割りには疲労の息切れ一つ無く、道行きで出会った魔物を腰に提げた得物の関節剣でものの見事に切断せしめていたのだが。己と比べてしまえば当然の事ながら年齢を重ねて劣っては見えるものの、動きは現役兵と何ら遜色無いと窺える。
この男、飽くまでインテリ然としているが存外に戦いの腕も立つらしい。
その口が何を宣うかと言いたくなるが、言葉には出さずに溜め息として吐き出しておく。
やはりユーリックの意志は此処に来て微塵たりとも変わらないらしい。
出掛けに興味が湧いたと言っていたのも気になる所、一体この男の同行に何の意図が有ると言うのだろうか。
いざ建物内へと立ち入れば、外よりも尚も濃い異質な空気が満ちていた。
例えるならばこの建物が一個生物で、その体内に入ってしまったかの様な奇妙な空気の圧力を感じる。
どうやら此処は稼働する機械が無い為、夜間照明のみが灯されている程度でかなり薄暗い。障害物の形が浮かび上がる程度だ。至る所に積まれたコンテナを見るに、此処は物資の搬入口なのだろう。高さも奥行も随分な広さが有るにも関わらずわやはり感じる圧迫感、空気のざらつき、色濃い気配。
一体この違和感は何だと思った時、背後から独り言の様な、但し此方にも確り届く声。
「……あぁ……魔物の〝自己領域〟だね、これは。限定した空間位相をずらして獲物を捕らえる……簡単に言えば檻の様なものだ。この一個空間に展開出来るとは、相応に高位の魔物だろう」
「『高位の魔物』『檻』と言うことは……」
今度は確と此方に向かって「そうだ、我々は既に招き入れられた」と、ユーリックは頷いて自らの得物である剣の鍔を鞘から押し上げ白刃を覗かせる。語らずとも伝わる。明瞭な戦闘の意だ。
「相手は我々を〝敵〟と認識したと言うこと。それを殺すなり何なりしなければ我々は此処から出られない。さぁ、たった今から勇敢に、魔物退治の始まりと言う訳だ。さて、合間見えるはどんな敵かな」
仄かに弾んだ声音でユーリックは奥先を見据えて眼を細める。
「いや失敬、君達の味方かも知れないんだったかな」
「……此処に居るのは〝魔物〟でしょう。魔物は敵、敵ならば〝討つ〟」
エリザベートは双銃に満杯のマガジンを込めると両手に番え、敢然と前線に歩み出る。そして引き金に指を掛け、万時いつでも雷管を叩けるように構える。
「そして正義と友情の名の下に仲間を助ける。正に理想の英雄譚。それで件は落着だ」
この暗がりに紛れているならば、何処に立とうと変わらない。ならば一八〇度半球方位全て距離の等しい中心に立つ。自らを標的に、何処に居ようとあちらの眼に止まる様に。
見えざる緊張の糸を張り巡らせ、あちらのモーションを待つ。
此処に来て、不意に既視を憶えるこの感覚を思い出した。そうだ、場所も状況も違えどこれは既事である。
その時、耳元で突然風切り音が唸った。しかし、切り裂かれた筈の風はいつまでも流れない。まるで〝闇そのものが移動した〟ような奇妙な感覚だった。
来たか、とその気配を辿った先に銃口を向け、合計三連の引き金を引いた。三つの銃声が閉鎖空間に反響するが、標的を捉えたのだろう。金属を穿つ様な跳弾の音は無い。しかし跳弾の代わりにとばかりに暗赤色の細槍が真っ直ぐに飛んでくるのを感覚が捉え、撃ちっぱなしに伸ばした腕のままもう一度引き金を引く。
撃ち出された弾丸を弾丸で撃ち落とす様な大道芸だが、エリザベートならば容易く可能だ。従って飛来する槍はぼろ屑同然に弾け飛んで宙に舞う。
エリザベートは眼を細めて溜め息を吐くと、誰へともなく呟いた。
「……久し振りの立ち合いだと言うのに変わらないな。それともわざとか?」
エリザベートはそちらへ距離を詰めるでも無く、動かない。
反響した銃声の余韻がようやく消えた頃、視線の先で闇がざわりと蠢いた。形の曖昧な赤黒い影を螺旋に纏った〝それ〟はゆっくりとした歩みの早さで、陰が浮かび上がる距離まで姿を現した。
姿が露になるに従って、自然とエリザベートの口角が引きつり上がる。
「何のつもりかは知らないが……その巫山戯た格好で殺気を持って現れたと言うことは、戦いの意志と汲んで間違いは無いんだろうな?」
赤と黒の影が混じり合って像を成し、辛うじて人と判別出来る。〝それ〟の頭部には汚く濁った金色の双眸がこのしつこい闇の中に在っても一際誇張して灯っていた。
ずるりと引き摺るように、持ち出した光沢の無い大鎌を肩に担いで構える。成る程、それが返答か。
「まぁ良い、いつもの仏頂面よりその顔の方が余程面白い。何があったかなんて野暮は聞かない、その愉快な横っ面殴り飛ばして連れ帰ってやるぞ。レイ、レイシェント……レイシェント・ロアコート」
エリザベートの呟いた名に、背後に控えていたユーリックが反応する。
「『レイシェント』……とすると……あのどう見ても魔物の有り様になっているあれが、彼《か》のロアコート氏だと言うのかね? エンデュランス君」
エリザベートは双銃を尚も前方へ構え、引き金に指を番えた臨戦態勢のまま振り返らずに頷いて応える。
「……奴は魔物混じりの人造亜種、半魔の身なのです。故に並みの人間とはちょっと違った芸当が出来る様で。初めて相対した時も大体こんな感じでしたよ」
「……魔物混じりの……人造亜種、か」
ここまで禍々しい殺気を纏った風体では有りませんでしたがね、とエリザベートは最後に皮肉を込めて唇を歪めた。
黒軍服の男の声にふと、過去の会話が脳裏に浮かぶ。レイシェント自身が話していた、魔物混じりの身となった経緯だ。彼はあの身の上を、かつての聖都軍の手に依るものだと言っていた。
「……総監。奴の事、何かしら御存知なのではありませんか?」
しかしユーリックは直ぐに「いいや」と首を横に振って否定した。
「確かに、人間を強化する策として人造亜種何てものが三十年前の戦争の折、推し進められたと言うのは知っていたがね。だが、それを知り得たのもボクが総監の席に着き、局内あらゆる資料の閲覧権限が得られてからの事。しかもそんな世に出て不味いものが丸ごと残されているはずもない。
……三十年も前となれば、ボクはまるでひよっこの新兵。それこそ戦場の最前線に戦闘兵として立っていた頃だ。残念ながら君が思う様な関与は無いよ」
「何より、生物学は専門外だ」などととユーリックはやや呆れ混じりに肩を竦めて溜め息を一つ吐き出て続けた。
「むしろ今はあんなものに成功例が有ったと言う事実に驚かされているところだよ。——エンデュランス君、前」
ユーリックが前方を指差すのに合わせ、振り返る間も無く身を反らせると同時に槍が腕を掠める。一瞬遅れていたならば心臓に風穴が穿たれていただろう。油断をしていたつもりは無かったのだが、容赦の無い確実な攻撃に冷や汗が一筋、頬を伝う。
レイシェントの転機になったと言う四都戦争は三十年も隔てた過去の事。そう言われてみれば成る程確かに、と思いはする。
それでもこの男は未だ腹に一物抱えている様な気がしてならないのだ。
「そうですか……ならば現技術総監として〝あれ〟の有り様をどう思いますか。戦争の遺物の成れの果てである、あの様を」
エリザベートが質す口調で問うが、ユーリックはやはり悠然とした構えを僅かも崩さない。そして、さも当然の事であるかの様に言ってのける。
「あの所業を、かね?まぁ正気だと思うよ、狂気的ではあるがね」
「なに……」
「戦争だよ。戦争の中では狂気こそ正気であり正気こそ狂気だ。それであってこその戦争なのだよ。……まさか、君が理解出来ない訳はあるまい?」
「……」
歪み縺れた思想が生み出すあらゆる狂気が、戦争と言う、闘争と言う、争うと言う、戦うという、力に依って異端を捩伏すシンプルな行為に依って正統性を持つ。
それは、とても。
「……っ……」
返す言葉に詰まる間に、またしても暗赤の槍が此方を中心に放射状の列を成す。そしてそのままぴたりと宙に静止し、設置される。それらを仰ぎ見て、エリザベートは捨てる様な舌打ちを鳴らした。
幾ら連続射撃に自信が有ろうが人間の腕は二本、このSofiaも二丁。大質量で一切のタイムラグ無く一気呵成に攻められては敵わない。程々に避けつつ撃ち返すより他は無いか。
以前戦った場所よりも開けた空間とはいえ、ここまでの攻撃をしては来なかったはず。
(理由は判らんが……魔物としての力が増したと考えるのが妥当か)
宙空に配列された槍が数多と降り注ぐ。
同時に、それまで静かに佇んでいるのみであったユーリックがおもむろに前へと歩み出る。自らの歩に従う様に、剣を抜いた。
抜剣と共に大きく掛け十字をなぞって関節剣振り抜けば、じゃらじゃらと鎖状に擦れる金属音を伴って空間を駆け巡り、四八方から此方を狙う槍を粗方弾き返す。それに感心する間も無く、エリザベートは残った槍を冷静に銃弾で確実に撃ち落としてやった。
凌いだか、と息つく事は許されまいが吐いた呼気は熱を帯びる。
「……そろそろ雑談は慎んだ方が良さそうだね。やはり先方は一切の容赦をしてはくれない様だ」
ユーリックは関節剣の刃を元の長剣の状態に一旦戻し、溜め息混じりに闇に紛れる曖昧な姿を見据える。
「………きだな」
「ん?」
不意にぽつりとエリザベートが何事かを呟いた。しかし聞き取れない。
「……総監、いや教授《professor》。狂気に歪んだ不道徳が力を持てばに正統性に取って変わるなど、とても素敵な事だと思いましてね。私が心の内で真に憧れ望んで希《こいねが》う物だ。しかし、今ばかりはそれを憎まなければならないとは。相反する思想が内外に交錯する、我々はその渦中。つまりこれは戦争、細やかなる戦争の中に在ると言っても良い。戦争か、殺し合いか。血と血で交わす応報か……。これは良い、こいつは楽しいぞ。うん、楽しくなって来た」
俯き気味に早口で呟く彼女の口角は段々と楽しげに持ち上がって行く。何かのスイッチでも入ったのだろうか。
エリザベートは勢いよく面を上げると、気の高揚を表すの様にくるくると銃を回し構え直した。
「は、こいつは良い! 素敵な言葉に感謝を、professor。お陰で気兼ね無く思い切りやれそうだ」
そして彼女はそう言うと一挙動に床を踏み切って駆け出して行ったのだった。
「……別にそんなつもりは無かったんだけれど……ねぇ。まぁやる気を出してくれたなら結構」
行動の起源が使命感や義務感であったのが、享楽にでもすり替わってしまったのだろうか。己とは真逆、生粋の武闘派である彼女の思考回路など隅まで理解出来るはずもないが、どうやらエリザベートの士気を煽る事に成功した様だ。それで良い。
今、相見える敵はどう考えても理性の吹っ飛んだただの魔物。それも魔物として見識するならば相当に高位にカテゴライズされる存在と言って過言ではない。元は人間だから、仲間だからと緩い気遣いを挟んで攻略出来る相手では無いのだ。
「……ボクも頑張らなければならないか」
前線を退いて数十年。鈍った己の腕では精々援護しか出来ないが、此処まで来た以上はそれなりの仕事をしなければなるまい。軍服の懐を探ると裏ポケットから掌サイズ程度の白銀色の金属部品を取り出し、剣の鍔に取り付ける。感覚を確める為に適当に振るえば、多関節の剣はまるで従順な蛇の様にユーリックの周囲をじゃらじゃらと躍った。
対魔物用装備によく用いられる洸晰運動滞留装置と、装備品の運動を最適に補整する運動慣性制御装置を複合させた、オリジナルの軍刀用カスタマイズパーツである。
自身の得物が関節剣と言う長物である為、制御が利き難いからと遊びで作ってみた試作物だ。しかし本当に使う場面になるとは。——と、言っても原則的には己の腕の程度に依る為運動制御など気持ち程度の効果しか期待は出来ない。無いよりはマシな程度だろう。
「──往こうか」
彼もまたそう呟くと、足を前へと踏み出した。
先に距離を詰めていたエリザベートが防御に入られる前に弾丸を浴びせる。レイシェントは弾丸を受けた衝撃で半歩程度仰け反ったが、呻き声すら上がらない。
手を伸ばせば容易く触れられるほどに詰まった間合い。
こうして近付いてみれば、シルエットや顔の形を見るに尚の事これはかの赤毛の男なのだと確信出来る。しかし不気味に光が灯る黄金色の双眸や、黒く染まった顔からは元々乏しかった表情が全くすっぽりと抜け落ちてしまっている。その人間性すらも失った無表情、まるで彼によく似せて作られた人形を見ている様だ。
「——おい、レイだろう。私だ、私が判るか」
駄目元で問うてみるがやはり反応は無い。それどころか片腕を軽く掲げると、得物の大鎌を空間の隙間からずるりと取り出して来た。
「聞く耳すら無いか、くそ……」
牽制と言うには過分だが、手を抜いては一瞬で命を獲られてしまう。双銃を縦横方違いに構え、連射ロックを解除。人体ならば吹き通しの穴を開け、即死に至らしめる量の弾丸を撃ち込む。このSofiaの耐久性だからこそ可能な、一回の引き金でマガジン内を空にする高火力攻撃。此方の腕骨、筋肉を砕かんばかりの反動を奥歯を噛んで堪える。
頭と心臓さえ避ければ死にはしないだろうと言うぞんざいな予見に頼って容赦はしない。しかし、これだけの弾丸を受け硝煙を纏おうとも表情一つ変えずに立っているあたり、やはり効いているのか効いていないのかが判らない。
視界の端にいつものものよりも尚禍しい形を成した大鎌の陰がちらついたのを退き時と見て、エリザベートは直ぐ様大きく後方へ飛び退いた。それでも着地の一秒手前、刃の残影が僅かにエリザベートを掠め肩口と頬が裂けて血飛沫が軽く散った。
これでも充分に距離を離して退いたつもりだったのだが、余波でやられたというのか。眉をしかめ、頬を伝って落ちる血を袖で拭う。
「……ふ、舐めて掛かると本当に死ぬな、これは」
しかし距離を取って改めて確認すると、弾丸を受けた箇所には黒穴が渦巻き、黒ずんだ血が床へと滴っている。挙動の変化は見られないが一応ダメージは与えられている、と言う事だろうか。
立ち止まってはまた槍雨で狙われてしまう。周囲を回り込むように駆け、一旦コンテナの死角へ。即座に空の弾倉を捨てて銃弾のリロードを済ませる。幸い、この銃弾はそれなりに有効ではあるらしい。雪山の研究施設で始めて相対した時は、すり抜けるばかりであった。
その刹那、コンテナ越しの死角の向こうからぞくりと怖気を感じた。反射的に地を蹴って跳躍し、その場から退いた。
その瞬間にほぼ同じくして鋼鉄のコンテナが耳を劈く金属摩擦音と轟音に反して、まるで柔いゼラチン質か何かの如く縦真っ二つに割られた。ただの一振りで鋼鉄のコンテナを両断するとは、巫山戯た破壊力だ。人外性能にも程があるではないか。
全力で避けたお陰で、崩れたコンテナの山にも巻き込まれずに済んだかと冷や汗を流す。轟音と粉塵を上げて崩れるコンテナの様、あれでは自身も巻き込まれてただでは済むまいに。その様な猛進一択の戦い方、あの男には到底似つかわしくない。
正に〝破壊衝動が形を持って行動している〟。
どうやら全く以て完全に、思考の一片までも魔物のそれに〝成り代わっている〟と言うことか。だがそれにしても、爆発的とも言える能力の上昇率は余りにおかしいのではないか。
崩れたコンテナの下敷きになったのだろうか? 思考の暇を得る程に、次のアクションが無い。
だがそれも束の間。コンテナの山の隙間から赤黒い触手の様な鞭が何本も生え出したかと思うと、両断されたコンテナを更に細かく微塵に刻む。それは鉄屑の瓦礫と成り果て、自らの積み上がっていた邪魔な分を跳ね飛ばす。
(——ッまずい!)
無数の触手の腕に跳ね飛ばされたた残骸は散弾の如く此方を襲う。物陰に身を隠す猶予など無い。致命傷だけは避けるねばと、腕で頭を庇った。
「っく、さっきから滅茶苦茶やってくれるな……」
鉄屑の嵐が通過した後、頭を庇った腕を始め身体のあちこちそれなりに裂傷を作って血を滲ませたものの、それにしても思いの外ダメージが少ない。あの量ならば身を貫通するものも少なからず有ったはずだ。
「あー……済まないね、重傷になりそうな物を逸らすので精一杯だった」
もしやと振り返ると、振るった関節剣を巻き戻すユーリックの姿。彼も流れ弾を受けていたらしいが、見事に掠り傷のみで平然と佇んでいた。自身の傷よりも羽織った軍服の裾を持ち上げ、空いた穴を気にしている。
本当に重傷になりそうなものだけをあの瞬間に判別し、あの関節剣で寸分の狂い無く弾いたのだとしたらコンピュータ並みの正確さではないか。此方の驚いた顔におおよそ察したのか「小細工したこの剣のお陰だよ」と剣を示して苦笑した。
「一応これでも、技術屋の頭だからね。小狡い細工は此方の専売特許だ」
「細工? 最善の運動曲線を算出する演算機、とか何かですか?」
「それも中々良いがね、だが答えは否。こいつが補うのは運動の方だよ」
ユーリックは軽く肩を竦める。
「先程の例を見て判るだろうが、機械に頼るとあんな量の鉄屑一つ一つの速度を拾って値を平均化、それから最適運動描画曲線を算出……などと悠長な処理をしていては算出結果を待つ間に御陀仏だ。今の技術で作成可能な演算素子の限界でね。正直、ボクの頭で目分量の数値を当てて計算した方が効率が良いのだよ」
「Genius《天才》……」
思わず洩らしたエリザベートの感嘆に、ユーリックは恐らく初めて露骨に表情を曇らせる。彼はその声色に不愉快の色を孕ませて即座に否定する。
「止めてくれ給えよ。この程度の事、経験の積み重ねでどうとでもなるものだ。天才というのは我々とは先天性から別のステージに存在する者を指す。そんな言われ方は好きでは無いね」
この言葉に対する過敏性。これも或る種、思想からの拘りから来るものであろうか。
「これは失敬。──っと、やはり起き上がったか。もしかすると、また突っ込んで来るか?」
「こう有効射程が広くては避けるのも一苦労だと言うのに、早々に片付けたいものだが……」
瓦礫を踏み締める足音にエリザベートは直ぐ身構え直し、意識をあちらへと切り替える。
「前にも一戦交わしたと君は言うが、その時はどう攻略したのかね? 普通の武器では攻撃すら儘ならないだろうに」
距離を取りつつ、ユーリックは何か攻略の足掛かりが掴めないものかとエリザベートに訊ねる。
「……あの時は……レヴィアが居りましたから。光使いの力で拘束するのは容易かった」
今は敵と共に姿を消してしまったレヴィアの姿を思い出して、エリザベートは思わず歯噛みする。あの娘を想うだけで、涙さえ滲みそうだった。
「ほぉ、意外だね。あのお嬢さん、戦えたのか」
「あの子はそんなに弱くは無い。立ち向かう勇気を持った強い子です」
思えば己も光使いの力を過信し、頼りすぎていたのかも知れない。だからあんな油断を生んだのだ。
——と、その時。髪がふわりと舞い上がり、この閉鎖空間のなかで気流が生まれたのを感じた。
「──ッ来たか! 空気を読まない男だな!」
甦る悔恨に浸る間も無く、再び殺衝動に塗れたレイシェントが大鎌を構えて瞬時に眼前まで迫っていた。まるで距離など元より無かったかの様に。空間圧縮による擬似的な瞬間移動だ。
いけない、今回は余りに速過ぎる。
躱すも避けるも間に合わないと判断し、真新しい細剣を腰の鞘から抜く。迎える体勢も出来ていない、ただでさえ元から重量のある大鎌catharsisは今や大きさは三倍と最早別物。
こんな何の変鉄の無い細剣で上手く受け流せるなどとは思えないが、やるしかない。
金属同士が擦れる甲高い音が耳を劈いた。
まともに食らいはしなかったものの、この凶悪な攻撃の衝撃を完全に受け流すには至らなかった。まるで蟻が指で軽く爪弾かれる様に容易く跳ね飛ばされ、コンクリートの硬い床を二度程バウンドして転がり、コンテナにぶつかってようやく止まった。
「エンデュランス君!」
衝撃で視界は霞み、頭が眩む。幸い意識は手放さずに済んだ。ユーリックにしては珍しく切羽詰まった声で呼ぶのがやけに遠く、辛うじて耳に届いた。どうやら随分と派手に吹っ飛ばされたらしい。
健在だと示す為に四肢に入れて起き上がろうとした時、右の脇腹全体からまるで猛火の手が上がった様な、脳まで灼け付く痛みが一気に拡がった。
「ぐ、がッ……あああ、あッ……あ……‼︎」
その激痛に自然と身が反り返る。反射的に手で押さえた脇腹は生温かく、ぐっしょりと濡れていた。焼ける様な激しい痛みは魔物からの傷特有のもの。そしてそれも直に冷たさに代わってゆく。左腕も力が入らず、すっかり役立たずになっていた。
獣じみた叫びに、ユーリックは思わず息を呑む。
(彼は一体……どれだけの魔物を取り込んだというのか……)
エリザベートからのレイシェントの能力についての話と、今現状の能力性能では余りにギャップが有り過ぎる。
強い個体の魔物が生き延びる為に、他の個体を補食若しくは融合を行って回復や強化をする例は少なくない。そのモデルケースとしては来訪者──リオが正しくその例だ。厄介にしてあれは元より長命な種、取り込んで来た魔物の数も計り知れず相応の能力を持つのは頷ける。
しかしこのレイシェントの場合はどうだ。たった数時間でこの能力の上昇率は異常も異常ではないか。
——此処に、工場地区に立ち入った際の違和感を思い出す。現在あれだけ聖都に蔓延っている魔物が、この工業区域に至っては全くのゼロだった。
「あまり考えたくはないが……」
仮に、この工業区域に現れていた魔物を全て取り込んでしまったと言うのならば、ここまで強化されるに至る可能性は十分に有り得るだろう。むしろ、そうとしか考えられない。ならば、やはり彼の中の人間としての自我など大量の魔物の魂の中にとうに希釈され、仮に残っていたとしても僅か一%にも満たないだろう。彼を取り戻せるかもしれないなどと、命を賭けてまで縋る価値の無い可能性だ。
(やはり最初から無理な話だった、という訳か)
こんなことならば例えエリザベートを謀ろうが、魔物の弱点である頭——脳を潰す様に誘導しておくべきだったか。予見の甘さを今更後悔しても、遅過ぎるのだが。
「詰まらない希望に縋るから、いつもこうなる。三十年経っても学ばんな……」
あれを降す可能性を持った彼女は今や瀕死。あれが外に放たれては不味い事になるのは明瞭。死を覚悟して挑まねば、己には万に一つの勝機も無いだろう。
ユーリックが再び剣を抜き掛けた所で、レイシェントは止めを差すつもりでいるのか。血溜りの床に倒れているエリザベートに近付いてゆく。
「おっと、困るね……此方を向いてくれなければ」
鞭の様に振るった関節剣が悉く対象の四肢にを刻む軌道で襲う。だが、外側を削り魔物の黒ずんだ血飛沫を飛ばすばかりで本体まで攻撃が通らない。先程のエリザベートの弾丸も、この〝魔物の装甲〟にほぼ捕らわれていたのだろう。
それでも何度も剣を振るい対象を刻むが、此方へ注意を移させる事すら出来ない。真っ直ぐに進む彼の脚が止まる気配は無い。
その時、鳴るはずの無い銃声が響いた。心臓部分を撃ち抜かれた魔物の身体は初めて大きくよろめいていた。
エリザベートの苦悶の声は、いつしか笑い声に変わっていた。
「……ぅ……っふふ、ふふふふ……」
エリザベートは血に濡れた右手に銃を持ち直すと、仰向けに倒れたままの状態で構えていたのだ。
妙な方向に曲がった肘を杖に。無理矢理に血塗れの半身を起き上がらせる。鼻と口からも血を流し、真っ赤に染まった歯列を覗かせ哄笑を吐くその顔は、魔物同然に悍ましい様であった。
「ッははははは‼︎ 私が……お前に見下される……格好に、なる時が……来る、とは……考え、もして……いなかったな……滑稽だ。これは滑稽……滑稽……可笑しくって! 腹が捩れる‼︎」
この期に及んで未だ『滑稽』だなどと言う言葉が出るなど。彼女にとっての戦いは飽くまでも享楽の遊戯に過ぎないのだろうか。
レイシェントの身体はふらつきはしたものの、直ぐに事も無げに体勢を戻し再び脚を進めた。だが、先程の弾丸は確かに彼に有効打であった。仮に、あの一撃が急所の脳であったなら。もう一度、やって貰うしかない。
「エンデュランス君、頭だ。額を狙い給え。その炸裂弾で脳を破壊すれば魔物憑きだろうと身体への信号も届かず治癒もしない。確実に……〝殺せる〟……!」
「何……」
ユーリックの言葉に、貼り付いた様な歪んだ笑みは一瞬で消え失せ、ユーリックへと見開かれた視線を向ける。
「ッ……! すぐ、う希望は、放棄しろと言ッ…が……!」
声を荒げた拍子にエリザベートは口から血を吐き出して無理矢理起こしていた半身は再び床に沈んだ。それと同じくしてエリザベートの元に辿り着いたレイシェントが、異常に伸びた魔物の腕でエリザベートの首を抑え、完全に動きを止められる。
内臓も派手に損傷しておきながら、未だそんな詰まらない理性が働いているのかとユーリックは呆れさえ覚える。だがこれが最後の好機と、すかさず関節剣を振るう。今度は攻撃の為ではなく、彼も同じく僅かでも動きを止める為だ。
絡み付く鎖状の刃に動きを阻まれ、レイシェントの首が一八〇度半円分ぐるりと回り、今更になってようやく注意が此方へ向く。やはり赤黒い槍が飛んできたが、当てずっぽうな方向に身を引き僅差で躱せた。
「もう諦め給え、諦め給えよ、エンデュランス君。判るだろう……最早〝これ〟に……塵芥の人間性すら残ってはいないと」
「ッ……ぐ、ぅ……な……!」
「君一人が幾ら頑張ったところで、救える可能性など……皆無だ! ──さぁ早く、その〝魔物〟の頭を撃ち抜き給え!」
気道を圧迫され霞みつつある視界でも、力が入らずがたがたと銃を震わす右手でも、エリザベートはこの至近距離を外す様な半端者では無い。
「がッ、は……ああ、あああアア……! 否だ……否だ、否だ否だ否だ否だ断じて否だ‼︎」
壊れたオーディオシステムの様に何度も「否」を繰り返しひたすらに、一心不乱に引き金を引き続ける。空薬莢がからからと身に降り注いで回りのコンクリートの床へと転がってゆく。
狙うはただの一点、先程効果を見せた左胸──心臓へ。
引き続ける引き金に手応えが無くなっている事に気付いた頃には、首の圧迫感は外れており、レイシェントは床へと倒れ込んでいた。この倉庫を囲んでいた常闇の自己領域も解除されている。辺り一面は最早三者誰のものとも判らない血溜りが拡がっていた。
やがて、エリザベートまでとはいかずとも自身も相応に傷を作ったユーリックも疲れた様に地べたに座り込んだ。
「全く、利かん坊にも程がある……。これでまた彼が起き上がって来たなら……我々に対抗する術はもう無い……」
エリザベートも今や完全に四肢を投げ出し、高い天井を見上げている。
「はは、は……すみません、奴に押し倒される格好になったのが頭に来て総監のお声が耳に入りませんでした」
「良いよ今更、君の意固地を甘く見ていたのがそもそもの間違いだ。ボクは別に此処で野垂れ死のうが、露程の遺恨など無いしね。……後は誰かしら、優秀な兵卒が何とかするだろう」
話しつつ、ユーリックは取り出した煙管に火を点けて吹かせていた。この血臭の中でも、仄かに鼻を刺す紫煙の香りは不思議と届いていた。
「……信じてやって…下さい……一応私の……仲間、ですから」
「……仲間、ねぇ……」
ユーリックはもう何度目か、懐の時計を取り出して時間を確認する。
あれから既に二十分が経っていた。
エリザベートと自らの応急処置もとうに済ませ、ただ座り込んで人間が二人血溜りの中で倒れているのをぼんやり煙管を吹かしながら傍観している。
大怪我であるはずのエリザベートが意識が無いと言う訳ではなく、単純に眠っているだけなのにはその頑丈さに驚かされる。それよりも驚くべきは、レイシェントの方であった。
散々に銃弾を食らい、無惨にも風穴が空いて空っぽだった左胸を始め、その再生力たるや。たった五分ほどで心臓の再建を終えたかと思うと、元通りに脈動を取り戻し再び全身に血を巡らせ始めたのだ。もう直ぐその傷すら塞がるだろう。
(頭を潰さない限り何度でも再生すると……知ってはいたが……此処までの再生力とは……。三十年前……四都戦争当時の連中が躍起になったのも頷ける)
その時、徐にレイシェントの眼が開かれた。
先程の魔物体が顕現した禍々しい姿はすっかり成りを潜め、人間と大差無い姿へと戻ってはいた。だが油断は出来ない。
現状の体力、しかも独力で魔物に対応出来る自信など毛頭無かったが、立ち上がって一応形だけでもと剣を抜き、首元に刃をあてがう。腕を引けば直ぐに首を撥ね飛ばせる様に。
頭を押さえ、小さく呻き声を漏らしたかと思うと、赤毛の男は人間と何ら変わらぬ所作で起き上がった。そして遅れて首に添わされた剣に気付き、ゆっくりと首を回して此方を振り返る。
長い前髪の間から覗く細い瞳孔の金目は確かに魔物を彷彿とさせ、多少の殺気もある。が、これは警戒心から来るもの。
(まさか……あの状態から本当に自我を取り戻したと…?)
信じられない、とユーリックはただただ驚愕するばかりだった。だが、けして面へ動揺は見せず薄く笑みを浮かべる。
「……お目覚めかね? 剣を向けたままで失敬、……貴方がレイシェント・ロアコート氏で間違い無いだろうか」
「……あぁ。あんたは」
「御覧の通り、ボクはただの聖都の従軍者。エンデュランス君とは顔見知りだ」とユーリックはわざと名乗らずに誤魔化す。レイシェントも警戒している手前、特にそれ以上問うて来ることは無かった。
「……質問を続けよう。貴方は……今我々が居るこの場所に見覚えは?」
「いや」とレイシェントは短く応え、首を横に振る。
ふと、レイシェントの視線がぴたりと何かに留まった。剣を突きつけられている事も一気に意識から飛んだのか、視線の先へと歩み寄って行き跪く。その先に居たのは、血塗れの酷い姿ではあるがエリザベートである。
「エリザ……⁉︎ これは……一体……」
赤毛の男が説明を求める眼で此方を振り返る。まるで訳が判らないと言ったレイシェントの様子に、やはり先程までの戦闘の記憶は無いのかと確信する。
「安心し給えよ、彼女は存外頑丈な様でね。それでも一応寝ているだけ。貴方がやったのだ、覚えていないかね?」
白い顔が尚も青褪め、頭を抱えて一層強く首を横に振る。
「……議事堂を襲った魔物を追って……消滅させようと、洸晰の精製炉に共に落ちて、……一度は目が覚めた。が……やはりそれから先は……判らん。……私が……私が……?」
「成る程、貴方も記憶が曖昧か。……ボクの見立てでは、 貴方の意識が落ちるのと共に魔物の部分の生存本能が働いて、回復の為に他の魔物を見境無く集めて取り込んだのだろう。——そして、暴走と。しかしまさかあの状態から戻るとは……心底驚いている所だよ」
「……」
レイシェントはいたたまれず何も言えなくなり、すっかり消沈した様子で視線をエリザベートへと戻した。
やがて眠っていたエリザベートも話し声に気付いたのか、翠色の眼を開いた。見慣れたいつもの状態のレイシェントの姿を認め、やはり彼女も信じられん、と驚きに眼を見開く。
「レイ……まさか、本当に戻ったのか……!」
「あ……エリザ……その、すま」
済まない、と言い掛けたレイシェントの顔面を予告無しの裏拳が襲った。
──余りの衝撃に一瞬。漫画絵の星が目の前を舞った気がした。不意打ちとは言え、寝ている体勢の怪我人が繰り出す威力ではない。
「……っ……!」
溢れた鼻血を押さえつつ、レイシェントは何とか痛みに堪える。
最早警戒する必要も無くなったかとユーリックは既に剣を引き、鞘に収めていた。顎に手を添え、やや不憫そうな顔をしてはいるものの距離を取って他人事と傍観している。
「詫びは要らない。が、代わりに一発殴らせて貰った。これで貸し借りは無しだ。良いな?」
「……っ……。い、いや……しかし……」
「解ったな?」
もう、何がなんだか。理解するどころではないが、これ以上の反論は許されないらしい。 レイシェントは深く深く溜め息を漏らしつつも、無言で縦に首を振った。
——————
此方の事態は収集した。だが、新たな問題はエリザベートの傷の治療の為にも一旦本部となっている筈の執政府区画へ戻らなければならない事にあった。
彼女に肩を貸すにしろ、徒歩で悠長に移動させるなどおおよそ現実的な距離無い。加えて今の聖都には魔物が湧いているのだ。幾らエリザベートが頑丈だからと魔物の群衆を突っ切って行くなど、体力が保つはずがあるまい。この出血量で未だ意識があるだけでも、奇跡としか言い様が無いのだ。
それならばとレイシェントが提案として口を開いた。
「……エリザ一人であれば、共に飛んで移動することも出来ると思う。……その、今ならば問題無く制御出来る状態に戻っている……はずだ。恐らく」
「……? ならばそうすれば宜しいのでは?」
妙に歯切れの悪い物言いに怪訝さを顔に浮かべつつ、ユーリックが応える。
当然と言えば当然の事だが、今回の暴走の一件に関してレイシェント自身相当に堪えているらしい。魔物の力を行使する事で再び暴走状態になる事を危惧しているのだろうし、抵抗も有るのだろう。
しかしユーリックの見立てからすれば、然したる危惧ですらなかった。
「そう心配されずとも、易々と再びあの様な状態になる事は有るまいよ。……仮にそうなるとすれば、先程エンデュランス君の拳を貰った時点で再発しているだろうからね。もう鼻血も止まったろう? その並外れた回復力も、特異ではあるが恐らくは魔物特性から来るものだ」
「そう、か……」
正気に戻った時点で、内なる魔物は再び己の制御下に戻った。当人である自分自身ですら確信を得ない状態であるが、この男から裏付けられると何故か安堵出来た。
「寧ろ危惧すべきは、意図して使用した際の力の制御だ。完全に貴方の意識が関与しない状態で性能が上がってしまっているだろうからね。仮に正常な状態であったとしても、以前の感覚で行使すれば誤って不用意に周囲を危険に巻き込む事も十分に有り得る」
「あぁ、肝に銘じておく」
何とも律儀に、確と頷く赤毛の男にユーリックは苦笑さえ滲ませて一つ息を吐いた。
「ま、理解したならば早々に行かれると宜しい。ボクは此処の状況を一応もう少し確認してからノンビリと戻るよ。あちらは部下に任せてあるし、此処からも指示は出せる」
何より、少々くたびれてしまったと肩を落とし、判り易く疲労感を訴えた。夜明けまでは未だ四時間ほど有るが、それまで此処で凌いで魔物の活動が緩むのを待つつもりの様だ
ユーリックは踵を返し、立ち去ろうと二人に背を向けた。だが、レイシェントに肩を貸され、身を起こしかけたエリザベートが呼び止める。
「総監……何かレイに用が有ったのでは? 確か此方に向かう際に……『会えるものなら会ってみたい』と仰有ってははおりませんでしたか」
「……私に?」
レイシェントは己を指差すエリザベートとユーリックの後ろ姿を怪訝な顔で見比べ、どういう事かと首を傾げる。そもそも見知らぬあの黒軍服の男が如何な経緯でエリザベートに同行していたのか、把握出来ていないのだ。
数歩歩いた所でユーリックは足を止める。背を向けている為に表情は判らないが、軽く首筋を掻いていた。ややあって、此方を振り返る。
「あー……そんな事言ったかね?」
「は?」
誤魔化すにしてもぞんざいな。思いもよらないほどわざとらしい言葉にエリザベートと眉を寄せる。だがユーリックは飽くまでしらを切り通すつもりらしい。素知らぬ顔で肩を竦めて首を横に振った。
「いやぁ、困ったもので年のせいか最近物忘れがあってね。何れにせよ、ボクの脳が今何も告げるべき事は無いと言う認識ならば思い違いだったと言う事だ。細やかなる認識の齟齬。速やかに忘れてくれ給え」
ユーリックは再び踵を返すと「それでは」と軽く片手を挙げて歩み去り、そのまま建物奥へと続く扉の向こうへと姿を消す。金属扉の閉まる重たい音の余韻だけが後に残った。
「……全く、あの人の考える事は……解らんな……」
エリザベートは呆れも混じえて苦笑しつつ呟いているが、合間に漏れる呼吸は荒く乱れている。肩を貸して何とか身を起こさせたものの、顔面蒼白になっている程度には失血しているのだ。自分の体重を支える事すら儘ならないらしい。少しでも気を抜いて手を緩めてしまえば再びずるずると倒れ込んでしまうだろう。
応急処置は適切に施されているとはいえ、最早時間の問題だ。
「兎に角、今は此方が優先だ。済まないが抱えるぞ。私の後悔をこれ以上増やされては堪ったものではない」
「……ああ、勝手にしろ……」
やや虚ろげな返事を聞くより先にレイシェントはエリザベートの身体を抱え上げると、直ぐに魔物体であるぼろ切れの集合体の様な姿に移る。
感覚は鈍ってはいるものの、人の腕で支えられている感触が無くなり浮遊感と生暖かさに包まれる。周囲の視界が完全に閉ざされてしまったという事は、繭の中に入っているのと似た状態であるのだろうか。
『この状態で人一人支えながら移動するのは私も初めてだ。くれぐれも大人しくしておいてくれ。いいな』
言い聞かせる様に、何処からともなくやや籠ったレイシェントの声が響いてくる。何とも形容し難いこの奇妙な状況に、エリザベートから思わず笑いが洩れた。
「心配しなくても、もう自分で起き上がる体力すら残ってないんだ。にしても……何度見ても妙な姿だ……。眼も耳も口も無いくせに、こうして普通にコミュニケーションが取れるなんてな……」
魔物と言うのは本来、視認性を持たないただの意識集合体なのだが、三次元空間での活動を可能にする為に無理矢理存在率を上昇させて仮初めの姿を作り上げているに過ぎない。故に、魔物にとっての姿形の概念と言うのは些かも問題ではない。人並みの知性と正常な思考能力さえあれば、会話も成り立つ。
『……解らんものだ。醜悪で悍ましい、血を煮凝らせた汚物の塊の様だとも思っていたこの姿だが、今はそこまで拒絶感が無い。……少なからず受け入れられる様になってきたのかも知れない』
「結構な事だ。根暗に悲観ばかりしているより余程ましじゃないか」とエリザベートは皮肉っぽくまた笑うが、直ぐにまた身体を侵す痛苦に表情が歪む。
魔物体となったレイシェントは闇の中でなら、物質に於ける三次元空間への束縛と言う絶対的な概念から解かれた状態となり影から影へ。空間を圧縮し、短いながらも隔たる距離を突破して移動する事が可能になる。瞬間移動ほど便利なものでは無いが、実質的に移動時間は相当に短縮出来る。
『では、急ぎ戻らせて貰う。後少し我慢してくれ』
何も無いのは判っていたが、レイシェントは移動を始める前に一度だけ後ろに視界を回す。残っているのは、血痕と破壊の痕のみ。血痕は点々と奥へ続く方向へ伸びている様に見えた。
『……』
だがレイシェントは視界を進行方向へと戻すと直ぐに濃い闇の中へと身を窶し、工場倉庫から完全に姿を消した。
先立ってその場を離れていたユーリックは、この精製工場の中核に当たるシステム管理室まで辿り着いていた。
部屋に辿り着くやいなや関節剣を手近な壁に適当に立て掛け、回転椅子に背を預ける。
内側からロックを掛けた後は別段特に此処で何をするでもなく。施設警備監視の為に三台ほど取り付けられ、煌々と薄暗がりの部屋を照らすディスプレイモニターを頬杖を突いてただぼんやりと眺めるばかりだ。
「全く……此処は冷えるな。季節が逆転した様だ……」
気怠く溜息を吐いて独り呟くユーリックの足元には、小さな血溜りが出来ていた。
先の戦闘にて、散弾の様な鉄片を浴びた際に右膝に作ったものであった。精々掠り傷程度だと思っていたが未だ出血が止まらないとは、思いの外深く切っていたのか。
これでも一応傷口を縛って止血の処置はしているのだが、余り役に立っていないらしい。いつもは肩から掛けているだけの上着を着込んでも尚、身体は冷え切っていたがその傷の箇所だけが異様な熱と痛みを発していた。
「ああくそ。痛むはずだ、肉まで抉れているとはね……」
ユーリックは肘をつき、悩ましく頭を抱えた。過ぎた事を悔やんでも仕方が無いが、麻酔剤ないし鎮痛剤くらいは余分に用意しておくべきだったか。直ぐに致命傷に繋がる様な傷でないとはいえ、此処まで自力で歩いて来るのが限界であった。
上手く誤魔化せていたろうかと思う。あの二人は自分らの事で余裕が無かっただろうし、何よりこの黒軍服。照明の乏しさの中で立ち居振る舞いさえ気を付ければ、ばれはしないだろうが。
我ながら馬鹿らしいとも思うが、根っから染み付いた性格らしい。どうしても無様な格好をあちらに晒す事は許せなかったのだ。
「……」
おもむろに懐から携帯端末を取り出し、部下の端末へ繋がる回線へアクセスする。使用するのは軍用回線、非常時にサーバーがオーバーフローするなどとお粗末な事は起こり得無い。
三十秒程の長いコールの末、ようやく応答する。
「……ああハル君。ボクだ。そちらの様子は?」
『総監⁉︎ 一体如何されたんですか! 端末の電源は切らないで下さいといつも言っていたでしょう! ったくもう今何処で……って工業区画……? 何故またそんな所に⁉︎』
ある程度の指示は出して出て来たものの、やはり混乱の最中なのだろう。切迫した部下の声と、その向こうに飛び交っている鋭い喧騒から容易に察した。
直接自分に繋がったのが周囲の者にも知れたらしい。『ご無事なんですか総鑑!』『迷子ですか総鑑!』『大丈夫ですか総鑑!』など他の部下の声も次々と聞こえてきた。
「あー……皆、済まない。まぁ……色々あってね。で、任せておいた市街区用戦闘機の件はどうなっているかね?」
『ええ…、一応MEO−001とGGQ−223は総監の指示通り実戦投入出来ました。稼働開始から八十七分経過しましたが、現在まで不具合報告無しです』
「宜しい。……GJA−524は?」
『それは……状況判断や姿勢制御を行うシステムが不完全なせいで未だ動かせてもいない状況ですよ……。先に作っていたシステムを流用しても、プログラミングとインストールには丸一日掛かります』
「ならば遠隔手動操作に切り替えて動かしてやれ。有機基盤の交換と再配線が要るだろうが、君を始めとしたうちの工学科の面子なら十分有れば出来る作業のはずだ。何れにせよ、手が足りないだろう。半端な木偶でも弾と火力を積んでいるのだ。無いよりマシ、外であくせくしている脳筋連中に我々の仕事を見せ付けてやれ」
『あぁ〜それなら……了解です。まぁ我々なら、十分掛からずやれますけどね』
失血で頭の方に血が通っていない様な虚ろさはあるが、それとこれとは関係無いとばかりに次々指示を与えてゆく。頭の中に用意してあった指示リストを一通り伝え終え、そして僅かに逡巡するも、その間も僅か。「それから」と最後にもう一つ報告を付け加えた。
「……正直、そちらに戻れるかは判らん」
『……総監? 何を仰有って……』
「戦闘兵器の市街導入許可の書類がボクのデスクトップに貼り付けてある。それを此方の端末に転送し給え。サインして直ぐに送り返す。なに、仮に万に一つの可能性でしくじったとて、君らへの責任追及は免れよう」
だが、予想に反して直ぐに是の応えが返って来ない。
「……? どうしたのかね、復唱して返答を……」
それどころか返って来たのは『いや、それは出来かねます』と言う否の応えであった。
「……ハルタミア君、この非常時に何を……」
『何を言ってるのか、ですって? それはこっちの台詞だ!
我らが技術総監殿なら言わずとも御察しでしょうけどねぇ、此方も状況は混迷窮めておりまして正に天地ひっくり返った様な騒動で大変に、滅っ茶苦茶に忙しいんです! ですので、総監御自身で早急に此方にお戻り頂いて書面に御自分でサインを書いて頂かなければ非常に困るんですよね!』
双方共に余裕の無い状況下に在りながら何を聞かん坊の様な事を。ユーリックは思わず眉間に指を押し当て「無茶を言う……」と項垂れる。
この部下は光使いの開発から共に活動してきた数少ない同胞の一人、言わずとも解る。要約すると『意地でも生きて帰って来い』と言う意味だ。
『私も今の今までさんっざん総監の無茶には付き合わされてきたんです。まさかこの程度、おあいこにもならないと思いますけどねぇ?』
「めんどくさ……解った解った、善処しよう」
こうまで言われてしまっては、例えユーリックであろうが返す言葉も見付からない。
『此方からも何とか手を回しますから。頑張って下さいよ、総監』と一方的に告げられたところで通話は打ち切られた。
さて、どうしたものか。端末を懐へ戻し、再び外の様子を映すモニターを仰ぎ見る。
青白く映像を映し出す画面の向こうには市街区同様、魔物が湧き始めている様子を映し出していた。
この部屋は洸晰の精製炉内も観察出来るようぴったり張り付いて隣接しており、遮光強化ガラスの向こうは眼を開くことさえ危険な光の柱が渦を巻いている。
魔物ならばこの凶悪な光源がある場所になど、本来近寄りたがらないものだが。さて、如何程に光の加護を期待出来るものか。
懐から時計を取り出し、時刻を確認する。現在時刻は午前三時を回ろうとしていた。
「そろそろ始まる頃合か……。宵を越えなければならないとは……全く、長い夜になりそうだ……」
